「エイチ」 松木が呼んでいる。声変わりの済んだ少し低目の声は、それでも少年期特有の甘さを僅かに残していた。 屋上のコンクリートの上に寝転んだまま、松木の足音を聴く。 空は今日も青く高い。そこに憧憬を抱くのはもう必然みたいなものだ。 「青いね」 まるで独り言めいた永地[エイチ]の呟きに、近くのフェンスに寄りかかっていた芳井は唇を僅かに歪めて笑い、その隣に腰掛けた日生はいつもの無表情で小さく頷いただけだった。 「えーいちっ。ってなんだ、芳井と日生もいんのかよ」 「いちゃわりーかよ」 「別に」 芳井のからかい混じりの声に、松木は嫌そうに顔を顰めた。 「別に、って顔してないよ、松木ちゃん」 不貞腐れた子供のような口調が面白くて笑みを浮かべた永地に向かって、松木が缶コーヒーを投げて寄越す。好きな銘柄をちゃんと覚えてくれているところが松木らしいと思い、ありがと、と小さく礼を口にした。 「なんだよ、おれらの分はねえの?」 「ねえよ、ばーか」 「バカはおめえだろーが」 威勢良く叫んだ松木は、当然のように芳井に頭を叩かれていた。そのまま軽く技の掛け合いをする二人から避難するように場所を移した永地に倣って、日生も近くまで来て座りなおした。 「永地はさー」 じゃれあう二人を眺めながら煙草を咥え火を点け空を見上げる。立ち昇る煙越しの光景はもう見慣れたものだ。馴染んだ味が咽喉の奥に消えていく。 「松木のドコがいいの?」 淡々とした声。日生[ヒナセ]の喋りは抑揚があまりないせいか、まるで精巧なロボットのように聴こえる時がある。松木には以前「エイチも結構抑揚ないけどね」なんて云われたが、少なくとも日生よりは人間味があるような気がする。 「どういう意味それ」 「だっておまえらヤってんじゃん」 まだヤってないよ。そのうちヤルかもしんないけど。 永地がそう応えるよりも先に、松木が屋上中に響くような声で悲鳴をあげた。視線を空から松木たちの方に戻すと、芳井に関節技をかけられてもがいている姿が目に入る。 「耳元で喚くな、うるせー」 松木の悲鳴を間近で受けた芳井が嫌そうに顔を顰めて技を解いた。 「だだだだだって。だって。日生が、エイチが」 自由になった腕を振り回して松木が叫ぶのに。 「おれが何?」 「松木ちゃん、技の痛みで叫んだんじゃなかったんだ?」 日生は無表情で返し、永地は僅かに首を傾げた。
◆◆◆
ねえ、セックスしてみようか? まるでそれ自体にたいした意味はないとでもいうような調子で永地が云った。芳井と日生は昼食を買いに購買へ行き、屋上には永地と松木の二人が残された。 「は?」 驚いた。永地が。よりにもよって永地が。 いや、まさかおれだって永地が童貞だとかは思ってないけど。 なんていうか。清潔を絵に描いたような顔でそんな台詞を口にするのは、はっきり云ってかなり心臓に悪い。先ほどの日生の台詞に感化されでもしたのだろうか? 「エイチ? どしたの突然」 うろたえる松木を他所に、永地はいつも通りの無表情を顔に刷いていた。 「なんとなく」 「なんとなくっておまえ、なんとなくで男同士セックスはしないっしょ」 「そうかな?」 「そうだよっ!」 思っていたよりも大きな声が出てしまった。抑揚の少ない永地のそれとは対照的な自分の喋り方が、松木はあまり好きではなかった。 「松木ちゃんさ、ドーテー?」 今日の永地はどうかしている。じゃなきゃおかしいのは松木の方か。ともかく。狼狽した松木の身体は傾ぎ、屋上のフェンスに背中から勢い良くぶつかった。 「えいちー?」 「なに、松木ちゃん」 何じゃねえだろ、何じゃ。 心の中だけで突っ込むと、松木は脱力してその場に座り込んだ。授業中の屋上には、永地と松木以外の人影は見えず、わりと珍しい状況に永地の頭の螺子が飛んだのかと松木は思った。 「なんかエイチの口からそういう言葉出ると結構驚くっちゅーか、変っちゅーか、正直引いた」 「そうかな?」 「そうだってば!」 「そういうもんなんだ」 制服のポケットから取り出した煙草を咥えて永地が呟くのに、返事をする気力もない。 ああ、なんかまた自己完結してますこのヒト。 永地はイイ。なんだかわからないけど、とにかくイイのだ。だから小さい頃から、それこそランドセル背負っちゃってるような小便くさいガキだった頃から高校三年生の今までずっとずっと一緒にいたのだ。たぶん、永地の一番近い場所に居たのは自分で、自分の一番近い場所にいたのは永地なのだ。自惚れなどではなく、それは事実だ。少なくとも松木はそう思っている。 「でもなあ」 「ん?」 「や、なんでもない。こっちの話。ってか独り言です」 セックスって何ですか? とは、さすがに訊けない。いまさら蒸し返して、永地がその気になっても困る。青天の霹靂なみに唐突なご乱心の原因が知りたくないわけではないが、身の危険を冒すのはさすがに遠慮したい。 松木が小さな溜め息を吐くと、それに反応したのか、永地が僅かに口元を歪めて笑った。 「松木ちゃんはイイね」 「は? なにが? どこが? むしろそれって嫌味?」 「違うよ」 永地の腕がすっと伸びて、そのまま頭を撫でられた。癖のある髪を梳くように何度も何度も頭上を行き来する指の動きは優しい。 「えーちさん?」 「やっぱ、したいな」 したいって。したいってナニ? その声が。性的興奮を煽るような艶を含んでいるのに、気付けない程松木だって子供じゃない。勢い良く立ち上がると、払われた形になった永地の手が、行き場を求めて空に浮いていた。 その手を何度か振って。亡羊とした視線を向けてくる永地はもういつもの永地だった。 「松木ちゃん、髪伸びたよね。切る?」 「そう? 伸びてる? だったら切ってもらおっかな」 「あ。でも鋏ないね」 「じゃあ駄目じゃん」 まるでさっきの一瞬が幻のように。すっと消えた緊張感の意味を深く追求することもしない。曖昧な日常を壊したくないと願うのは松木の傲慢なのか。それとも。壊れるようなナニカははじめから存在しなかったのか。全て。答えは永地だけが知っているのだろう。 どれほど近くにいても、永地は何処か遠い存在だった。どんなに言葉を交わしても。どんなにその真意を求めても、永地の心は松木なんかには到底届かない場所にあって、だけど、自分以外の誰にとっても永地はそういう存在だから、松木は諦めにも似た気持でそんな永地に焦がれていた。 「でもなあ、セックスはねえよなあ」 「え?」 「ななななんでもねえよ」 「そ?」 永地の笑みは静かで。静かすぎて。その静かさ故に恐怖を覚えることがある。あれは確か永地と出会ってはじめて迎えた夏の日だった。 「今度こんなことしたら、殺しちゃうよ?」 幼い子供特有の高く澄んだ声で云い放った永地の目に宿っていたのは、間違いなく狂気の片鱗だったと、随分後になってから松木は思った。
小学校二年生の冬に永地は松木の隣家に引っ越してきた。息子の手を引いて挨拶に来た永地の母親は、永地の姉と云っても通用するくらい若々しい容貌をしていた。 「犀花[サイカ]と、仲良くしてやってね?」 その笑顔が本当に綺麗で。一瞬見蕩れた松木が力いっぱい頷くと、その隣にいた良く似た面差しの少年も小さく笑った。 「えいちさいか。よろしくね」 「おれ、まつきたかし。がっこー、一緒にいこうな」 身長も小さく華奢な身体をした永地は母親によく似た相貌で、そこらの美少女顔負けなくらい可愛かった。その上けっこうな人見知りだったから、なかなかクラスに打ち解けられず軽いイジメのようなものを受け始め、次第に行為はエスカレートしていった。 最初、クラスの違う松木はそのことに全く気付けなかった。登下校は共にしていたが、永地が松木に現状を訴えたことはなかったし、松木のクラスと永地のクラスは校舎の端と端に位置していて、遠いクラスの様子が耳に入ってくることもなかったからだ。 永地が転校して来て一ヶ月ほどが過ぎた下校時刻、いつものように永地のクラスに迎えに行くと、困ったような顔で一人ぽつんと掃除用具を入れるロッカーの前に立っている永地が見えた。教室には幾人かの児童が残っていたが、特に不信な様子は見当たらず、松木は首を捻った。 「えいち?」 呼びかけると永地は伏せていた顔を勢いよく上げ、潤んだ瞳を松木に向けた。 「どうしたの?」 「うん……」 云いにくそうに口篭もると、また俯いてしまう。 「なにか、あった?」 再度訊くと。永地は今にも泣き出しそうな顔を更に歪め、ぎこちない動きでロッカーを指差した。 「ぼくのランドセルこの中なんだけど、開かないんだ。あと、コートも」 それからの松木の行動は早かった。まず最初に教卓の引出しを覗き、そこに目当てのものがないのを確認するとすぐに職員室へ向かった。永地の担任の名前を大声で呼び、引き摺るようにして教室まで連れて行き、ロッカーの鍵を開けさせた。教室には既に誰もいなかったから、それで松木はおおよその事情を察した。 「えーち、こういうこと、前にもあった?」 「……ロッカーにいれられたのは初めてだけど」 掃除用具の入ったロッカーには簡易な鍵がついていたが、通常その鍵が閉められることはない。鍵は各クラスの担任が持っていて、大抵は教卓の引き出しの一段目に仕舞ってある。この学校の児童なら誰でも知っていることだった。転校生の永地を除いては。 「誰がやったのか、わかる?」 「いろんな子」 永地の担任は新任のまだ若い気弱そうな女の教師で、おろおろと二人の会話を見守っていた。教卓の鍵は松木が確認した限りではどこにもなかった。だから。予備の鍵を持ってる担任をこの場所まで連れてきたのだが、状況を把握出来ず慌てるばかりの教師に、松木は何も期待出来ないと早々に見切りをつけた。
松木は憤っていた。子供特有の残酷さや、それを見過ごす教師という名の大人の愚鈍さや、他にもたくさん。何よりも、一番傍にいたくせに全く気付いてやれなかった幼すぎる自分が情けなかった。 永地はあまり感情を表に出さない。人見知りする性質のせいもあったのか、その年頃の子供にしては酷く表情が乏しかった。嬉しければ笑い、哀しければ泣く、そういう当り前のことが苦手なんだと淡々と告げた永地の顔は、子供らしさの欠片も見当たらなかった。どちらかというと喜怒哀楽の激しい部類に属する松木にとって、永地のその感覚は掴み難いものだったが、理解出来ないからこそ逆に興味を覚えた。ふとしたときに見せる永地の笑顔は貴重で、涙なんか一度も零したことはなかった。 そんな永地が泣いたことが、泣く程の目にあわせた誰かがいることが、松木には赦しがたいことだったのだ。 永地は一組で松木は六組だったから、永地の教室に行くには端から端までを歩かなきゃならなかったが、松木は休み時間のたびに彼の教室に顔を出した。 「なんでたかしくんは毎日来てくれるの?」 「えいちのお母さんと約束したし! それにおれ、えいちのこと好きだし」 「ぼくもたかしくん好きだよ」 にっこり笑った永地は本当に可愛かった。今にして思うと、松木の初恋の相手はたぶん永地の母親で、その母親に似た永地の顔もお気に入りだったのだ。だから。笑いかけられると嬉しくて。誰かに泣かされていると悔しかった。永地をイジめるヤツがいたら何処までも追いかけてやり返した。そのせいで怪我をしたことも服や靴を隠されたこともあったけれど松木はちっともめげなかった。
だって。 永地の母親が。 犀花をお願いって云ったから。
そうして永地を庇っているうちに、松木までがイジメの標的になっていったけれどかまわなかった。自分の痛みは耐えられる。でも、永地が痛いのには耐えられない。 松木の母親は毎日傷だらけになって帰ってくる息子に、「キズは男の勲章よ。新しい環境で心細いだろうから、しっかり守ってあげな」と豪快に笑い、永地の母親はただただ恐縮していた。 「たかしちゃん、ごめんなさいね。犀花のこと気にしてくれてありがとうね」 「たかしくん、ごめんね」 「平気平気。天はそんな柔じゃないもんね。それに元々この子しょっちゅう怪我してたし」 確かに、以前から松木は怪我の多い子供だった。木に登っては滑り落ちて擦り傷を作り、野山を駆け回っては雑草の葉で切り傷を作り。毎日のように傷を作って帰っては、母親に手当てして貰っていたのだ。 だから、平気。何されても平気。痛くない。永地が痛いよりもずっと良い。 登下校は必ず一緒に。休み時間も余程のことがない限りは永地のクラスで過ごした。
三年生に進級して。永地と松木は同じクラスになった。その頃はもう永地へのイジメはだいぶ沈静化していて、他の子供たちと一緒に遊ぶことも多くなっていた。だから油断していた。明らかに松木のミスだった。永地は、感情を表に出すことが苦手だったのに。 夏休みまであと一週間を残しただけになった日の放課後、松木は教室で永地の掃除当番が終るのを待っていた。松木の班は一番楽な廊下掃除だったからとっくに終ってしまっていたし、教室の方も既に整然と机が並べられていた。永地の班は、図書室の掃除だった。 ベランダに出て校庭を見下ろす。サッカーや野球をする子供の嬌声が響いている。視線を上に向ければ、まるで傾く気配も見せない太陽が燦然と君臨していた。空が高い。そう思って少し気が遠くなる。空の青さ、そんなものが松木の心を何故か粟立てる。こんなに綺麗なのに。空を泳いだ視線を戻せば、眼下に広がるのは代わり映えしない光景だった。 「松木くん」 呼ばれて振り返る。クラスメイトの安部美穂が立っていた。愛嬌のある目元が涙に濡れている。 「なに?」 「永地くんが、永地くんが」 安部は永地と同じ班だった。大変なの、大変なの、そればかりを繰り返す安部と一緒に図書室に向かって走る。途中ですれ違った教師に咎められたが、そんなことにかまっている余裕はない。階段を一気に駆け上がり、図書室の扉を勢い良く開ける。壁一面に並んだ書架、閲覧用の机、貸し出しカウンター。広い室内に目を走らせ、永地の姿を捜す。いない。 「安部さん、エイチどこ?」 「わからない。さっきまでソコにいたの」 安部はカウンターの近くの書架を指差した。本が何冊か崩れ落ちている。カウンターの奥で何かが動いた気がした。 「エイチ!」 駆け込んだ松木の視界に飛び込んできたのは、両腕を後ろで縛られ床に転がされた永地の姿だった。その状態で蹴られたのか、白いシャツには上履きの跡が一杯ついていた。目隠しをされているせいで、永地の表情は全く読めない。急いで腕の戒めを解き、目隠しも外した。誰かの汚れたハンカチやベルトで拘束されていた永地の怒りと恐怖を思って、松木は一粒の涙を零した。 「エイチエイチエイチエイチエイチ、大丈夫?」 「へ、いき。だいじょうぶ」 弱々しい声で永地が応える。声は小さいが、意外にもしっかりした口調だった。 「泣かないでよ」 そう云って。ふわりと笑った永地の顔は、殴られたせいでかなり腫れぼったかったけれど、誰よりも綺麗だと松木は思った。 「なんだよ松木。勝手なことすんなよ」 唐突にかけられた声に振り返ると、安部の背後に見覚えのある少年たちが立っていた。頬が紅潮しているのは怒りのせいだろうか? 「なんで田中たちはエイチのこといじめんの?」 去年、執拗に永地をいじめたのは彼らだった。特にリーダー格の田中は、同年代の子供たちより遥かに大きな体躯をしており、永地の何が気に入らないのか、一年間バカみたいに永地に干渉しつづけた。三年になり彼とはクラスが離れたのも、松木が安心した一因だった。 「だってそいつ気にいらねえんだ。邪魔するとテメエも同じ目にあわせるからな」 大きな身体にはいっそ不釣合いな程に甲高い声は、哀しくも迫力に欠ける。松木は薄ら笑いを浮かべて田中を見た。見て。そして。 「やれるもんならやってみやがれ、ばーか!」 叫んで。一発蹴りをいれる。去年一年間、田中とは散々喧嘩をしたのだ。やりあうのは、いまさら大した問題ではない。殴る、殴り返される。蹴る、蹴り返される。痛みよりも怒りが勝った松木は滅茶苦茶に暴れた。松木の暴れ振りに最初は傍観していた田中の仲間たちもつぎつぎと加勢に入ってくる。一対五の喧嘩は無謀だ。頭ではわかっているのに、松木は激情のままに彼らに掴みかかっていった。 安部が泣きながら、「ユウコちゃんたちが先生呼びに行った筈なのに、なんで来ないの!!」と叫んだ。 形勢は明らかに松木に不利だった。それでも、引き下がるような真似はしたくなかった。 「たかしちゃんっ」 永地の方を見る余裕はない。ただ、目の前の相手に頭突きをして、右側を引っ張る相手を蹴り飛ばすので精一杯だった。背後から羽交い絞めにされ、横から殴られる。口の中に広がる鉄錆びた味に眉を顰める間もなく次の拳が飛んでくる。 その拳がまともに鳩尾に入って松木は吐いた。 目の淵に生理的な涙が浮かぶ。胃が逆流するような感覚と、咽喉を通る苦い味に今度は悔し涙が零れた。 負けねえ。ぜってえ負けねえぞ。 眼前の相手を睨み付けようと、床に這いつくばった姿勢のまま顔を上げた松木が見たのは、頬を押さえて蹲る田中の姿だった。押さえた指の間からは赤い液体が零れている。 いったい何が起こったのか。把握しようと周囲に視線を走らせた松木の視界に飛び込んできたのは。 先端に血のついた鋏を田中の仲間たちに向けている永地の姿だった。 「今度こんなことしたら、殺しちゃうよ?」 淡々とした声だった。ぞっとするほど暗い目をした永地に、松木の肌は自然と粟立つ。 「たかしちゃんに手を出したら、赦さない」 俊敏な動きで次々と子供たちの太股や腕を切り裂いていく永地は、松木の知ってる彼ではなかった。一つの躊躇も見せないその姿はまるで知らない誰かのようだ。 流れる血を目にした安部が悲鳴をあげて倒れ、松木は彼女を支えようと手を伸ばしたが、痛みに軋む身体は上手く動いてはくれなかった。耳を劈くような安部の絶叫を聴きながら、松木は呆然と永地の顔を見上げていた。
◆◆◆
足元に散った赤、対照的なほど、何処までも青い空、自分の手のひらの皮膚が破れた感触、そして。 泣きそうに歪んだ松木の、幼い相貌。 そう。 あれはこんな風に晴れた日で。
ハサミを捨てた後、永地は眼前で呻く田中の頬を額を何度も殴った。殴って殴って、気が付けば手のひらは自分の血と相手の血で真っ赤に染まっていた。痛い、とは思わなかった。直前まで受けていた暴力でつけられた傷も忘れるくらい、怒りで我を忘れていたのだと思う。 女の子の甲高い悲鳴や、必死で名前を呼ぶ松木の声に気付いたのは、田中が己を守るように身を丸め、押さえた声で泣きじゃくるのを目にした時だ。田中以外の連中は永地の突然の豹変振りに驚いたのか、まるで棒のように突っ立って事の成り行きを見ていた。彼らの皮膚にも幾筋かの血が流れていた。 それからのことはあまり覚えていない。駆けつけた担任の教師の慌てふためく様や、気を失ったクラスメイトの少女や、男の教師に運ばれていく田中や、そして―― 自分と同じくらい、或いはそれ以上に痛めつけられた松木の姿だった。 「たかしちゃん?」 名前を呼ぶと、松木ははっとした表情で永地を一瞥し、口をへの字に曲げた。泣き出す寸前の表情が痛々しくて、永地の胸は鈍い痛みを訴えた。それは。自分に向けられた暴力の痕よりも遥かに辛い。 「えいち、ごめんな。おれ全然わかってなくてごめんな。守るって云ったのに守れなくてごめんな。おまえにこんなことさせてごめんな」 謝罪の言葉を繰り返しながら松木は、大きく澄んだ瞳からぽろぽろと涙を零した。そうして永地の背中に腕を回しぎゅっと抱きしめてくる。謝るのは自分の方だ、と永地は思った。いつもいつも松木に辛い役目を押し付けて、そのために必要のない暴力に晒された松木の方こそ被害者だ。 「たかしちゃん、泣かないで」 永地の肩に顔を埋めて泣きじゃくる松木を宥めるように、何度も何度も小さな背中を撫で、「だいじょうぶだよ」と耳元で繰り返し囁いた。次第に泣く声が小さくなり、背中に回された松木の腕の力も弱くなった頃に、保険医の指示で二人は離され、それぞれ手当てを受けた。松木の怪我も永地の怪我も、見た目ほど酷くはなかったが、永地がハサミで刺し散々に殴りつけた田中は病院へ運ばれたと後で聞いた。田中たちの両親や永地と松木双方の両親で話し合いが持たれたらしいが、どういう結果に終ったのか自分は聞いてはいないし、おそらく松木も知らないだろうと思う。ただ、夏休みが終ると田中の姿は消えており、彼にくっ付いていた幾人かは、永地の顔を見ると怯えたように姿を隠した。 あの日以来、松木の泣き顔は見たことがない。 そして。 それからずっと松木は永地の傍にいる。
横に居る松木の顔を伺う。癖のある毛が風に靡いている。伸びすぎた髪は松木の輪郭を必要以上に隠してもったいないと思った。 「鋏が欲しいな」 「え?」 何気ない言葉に、松木が驚いたように目を瞠り永地を見た。咥えていた煙草がコンクリの上に落ちる。 「まだ据えるのに、もったいないよ松木ちゃん」 「あ、ああ、うん」 何処か慌てたような声だ。もしかして松木も幼い日のことを思い出してたのだろうか。鋏に付随する共通の思い出は、そう多くはない。 「やっぱり髪の毛邪魔そうだから」 「あー。じゃあ今日の帰りうち寄って切ってよ」 「いいよ」 にっこりと笑う松木の笑顔は、はじめて会った頃とちっとも変わらない。優しくて柔らかくて、永地にとっては誰よりも馴染んだ気配と空気を有している。身長だけはすくすくと伸びたけれど、顔立ちは幼さを残したままの彼に永地は安心している。 セックスしたい。 おそらく松木は先ほどの永地の台詞を冗談半分で受け止めているだろう。けれど。永地にとっては、いつか来る予感のようなものだ。その時、松木が拒んだとして。自分は留まることが出来るだろうか? 永地にとって松木が特別なように、松木にとっての永地も特別な存在であるのだということは、自惚れじゃなくちゃんと知っている。けれど、両者の間には、越えられない深い溝があるってことも、永地は正しく理解していた。 松木にとって永地は。幼馴染で友人で、誰よりも近い場所にいる存在、ただそれだけに過ぎないのだ。今はまだそれで良いと永地も思う。無理に関係の変化を望んだ結果、松木を追い詰めるような真似はしたくない。幼馴染で親友が松木の心で一番を占めているうちは、きっと自分は何の行動も起こさないだろう。彼が誰のものにもならないうちは、余裕だって抱いていられるだろう。けれど。もしも松木に、自分以外に大切な誰かが出来てしまったら。加速し、やがては暴走するだろう想いを止める術を永地は持たない。 「ねえ松木ちゃん、好きだよ」 「照れること云うなよー。おれだってエイチ好きよ?」 「知ってるよ」 無邪気な笑顔に罪はない。本心を押し殺して微かに笑った永地に、松木は満足そうに頷くとそのままごろりと横になった。 「芳井たち戻ってきたら起こして」 すぐに聴こえる規則正しい寝息、見下ろした顔の幼さ。そんなものに、欲情する自分の浅ましさに永地は歪んだ笑いを浮かべ、青く高い空に唾を吐いた。
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