やさしい爪。
安さが自慢なチェーンの居酒屋。 金曜日の夜は賑やかに、面白く。 飲み放題の宴会メニューはテーブルの上で等間隔に並べられる。お値段と人数を考えれば、まったく割りのあわない貧相なメニューだ。 大雑把な料理だけど、どれも酒と一緒だと美味しい。 何よりもすぐ目の前には可愛い女の子が座っていて、楽しくないはずがない。 今日はサークル内の呑み会で、オールラウンド系サークルの呑み会は何故か知らない子までいる。 イワユル、こんぱ。 まぁ、コンパと言って差し支えないと思われる。 ちなみに隣の女子も知らない子。お目目パッチリ、綺麗なカールのまつ毛やピンクの唇、白い肌、自然な色合いに染まる頬。ナチュラルメイクがよく似合う、可愛らしい印象の女の子である。 今日はさほど乗り気でなかった呑み会だった。金曜の夜はバイトもなく、明日は休みで呑むには最高の日だけれど、家でのんびり過ごしたい気分になるのは何故だろう。要するにつまり金曜の呑み会はあんまり好きじゃないというわけだ。 とりあえず言い訳させてもらえるなら。恋人のいない寂しい人間が普段だったら金曜日は寂しく家に帰る習慣ができているって言うわけじゃない……と思いたい。 確かに彼女なんていないけれど、結構長身、結構顔がいい、結構優しい、結構面白いという結構な条件を携えた俺は決してもてないわけじゃないのだ。まぁ、別に自意識過剰な人間じゃないんで、モテモテだなんて間違っても言いはしないけど。 うん、でも、この子は少しは期待してもいいかもしれない。最初に席に座ったとき、迷いもなく俺の隣に座って自己紹介をした。 名前は確か山崎…… 「エリカちゃん、何か飲む?」 そ、エリカちゃん。 近くの奴が可愛い彼女の気を惹きたくて、追加メニューを聞く振りして俺の反対の隣に座った。 彼女はそんな男の下心に気がついているのか、嬉しそうに笑ってそれに答える。 「えっと、カシスオレンジがいいです。あ、先輩は?」 ついでに俺に振り返ってメニューを渡しながら聞いたので、アーリー・シングルのロックを注文。 「お酒、強いんですね」 エリカちゃんは元々大きいのに更に大きく化粧してみせた目を大きく見開いた。 きっと皆こんな表情を可愛いって言うんだろう。というか、可愛いし。 だけど、俺はそれよりもその綺麗な手元が気になった。 淡い色で塗られた長い爪。 服装に合わせて塗られたのだろうその爪は綺麗にコーティングされ、まるで飴玉のようにも見える。 そっと触れて、口の中に含みたい衝動を押し殺す。 それでも視線は自然とその指先に行ってしまうのは何故だろう。 クダラナイ会話で場を和ませながらさり気なくその指を視線が追ってしまう。 ポテトを掴み口元に運ぶその指は、きっとポテトなんかよりもずっと美味しいに違いないと想う。 グラスを掴み傾けるその指は、きっとカシスオレンジよりも甘酸っぱく喉を潤すに違いないと想う。 話している最中に何気なく唇に触れるその指は、きっとキスをするより優しく刺激的な愛撫与えるに違いないと想う。 だけど、そんなことを考えているなんて気がつかせないように俺はとにかく話し掛けて、笑わせて、気を紛らわせた。 やがて、お化粧のためだけでなく赤い頬と潤んだ瞳で酔っていることがわかるエリカちゃんに、俺は今初めて気がついたようにその手をとって、可愛いねと言った。勿論、爪のことだ。 酔っているとはいえ、自分のことを褒められて喜ばない女の子はいない。 エリカちゃんは開いている手の人差し指を唇に翳して笑う。 「え~、本当ですかぁ?苦労した甲斐がありますぅ」 相当酔っているらしく言葉は覚束ない。 今ならその爪を口に含んでも、酔っ払いのエリカちゃんは気にしないかもしれない。一部の悪友を除けば、酔った末の所業だと周りも納得してくれるかもしれない。 だけど、そんなことはしない。お酒の席のセクハラは、サークル内では大問題になるからだ。当然そんなことを冷静に考えられる俺は酔っていない。 残念だなと思ったけれど、サークルの呑みでなければいいわけで。つまりは二人っきりになれば問題ない。一次会が終わるまではお預けだ。 エリカちゃんはずっと俺の隣に座り、すっかり打ち解けている。それは一次会終了まで続いた、幸運なことに。 お金の徴収も終わって、寒い夜風の当たる店の外。 一応、お開きになるわけだ。 部長の閉会の言葉を聞きながら、不意に隣に立っているエリカちゃんが俺の服を引いた。 「ねぇ、先輩。この後どうします?」 二次会出ないんですか?という可愛い問いに、焦らすように腕時計を見てみる。 時間は9時ちょっと前。この時間なら10時よりも大分早い時間に帰れるだろう。だけど、明日は学校は休みだからこのままオールをしても勿論大丈夫だ。そして、服を握る可愛い爪を思えば…… だけど、俺は首を横に振った。 綺麗で可愛い爪は確かに食べちゃいたくなるけれど、不意に服に食い込んださまを見ると、何となく萎えてしまった。 「え~、行かないんですかぁ?」 不満げな声を発したエリカちゃんだったけど、幸いなことに長口上が大好きな部長に話を聞けと怒られて、それ以上の追及はなかった。 部長の解散の一言に俺はさっさと一次会で撤退組に紛れ込み、エリカちゃんは不満そうな表情でそんな俺を見送った。 一度振り返れば、やっぱり可愛いその爪の残像が網膜に残った。
9時30分を少しまわった時間に家に帰り着けば、社会人な同居人はまだ帰ってきてなかった。 いつもの金曜日だったら8時には家に帰ってくるのにと思ったが、俺が呑み会だってことは知っているはずで、だから外食しているのだろう。 呑み会はたいした食べ物がなかったので、なんとなく腹が減っている気がして俺はお手軽簡単なスパゲッティを茹でることにした。インスタントのソースはナポリタンがあったので、それを絡めて出来上がり。 はっきりとあまり美味しそうには見えない出来栄えだが、実際美味しくないだろうが、自分にしては上出来だと食べ始めた。 時計を見ればもうすぐ10時になろうとしている。同居人が遅いのが気になった。 もしかして俺は女の子を振り切って帰ってきたというのにデートかと疑いかけたとき、玄関の開く音がして、同居人が帰ってきたのがわかる。 「ただいま」 変なことを気にしてしまったとバツが悪くて、ナポリタンをフォークに絡ませるのに集中している振りで言葉を返す。 「あ、おかえり、遅かったじゃん」 さすがにこれじゃ不審すぎると顔をあげて、ナポリタンを頬張る。 だけど、答えは返ってこないで疑問が返ってきた。 「お前は早かったな」 少し疲れた顔でそう言った同居人は訝しげである。 エリカちゃんのことを思い出して、俺は誤魔化すように笑ってみせる。 「ちょっとね」 曖昧に答えれば、マジマジと顔を見られる。 なんとなく顔をそらすのもおかしい気がして、俺は段々と近づいてくる顔をマジマジと見つめ返す。 そして、指が顔にかけられた。 ギョッとしてその指を見れば短い爪。何の色も塗っていない薄いピンクの短い爪が視界に掠る。 エリカちゃんの爪のように、綺麗に色の塗られた爪じゃないその爪に魅入られているうちに、何故か俺は唇を舐められた。 ……そう、何の間違いでもなく舐められたのだ。つまり……キス? あまりの出来事に固まっている隙に同居人はネクタイを緩めながら、俺から離れると視界から消えて扉の閉まる音が響く。 だけど、俺の中にはさっきのキスと俺に触れた指の爪だけが詰め込まれて、響いた。 しばらく放心していたが、俺は意を決して同居人のあとを追う。 扉を開ければ、ワイシャツを脱ぎながら同居人が振り返った。 「ノックぐらいしろよ」 不機嫌そうな表情だが、伊達に同居しているわけじゃない。そこに照れとか気まずさがあることがはっきりと解る。 俺はそれを気にせずにズカズカと彼に近づいて、その手をとった。 「仕返しだから」 ニヤリと笑って、口元に運ぶ。 短い爪は優しく口腔を満たす。
驚きで彼の身体が固まるのが解る。 とりあえず萎えなかった俺は、その体を優しく抱きしめることからはじめた。
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