おいしい唇。
ちょっと洒落たイタリアンレストラン。 金曜日の夜は華やかに、賑やかに。 お財布の中身が悲鳴を上げるコースメニューは綺麗にテーブルに並べられる。神経質なまでに、美しい並べ方をする。 どの料理も綺麗に盛り付けられ、美味しい。 そして、目の前には美しい人が微笑んで、嬉しく思わないわけがない。 今日俺は会社の先輩である高原女史に誘われて、夕食を共にしている。 イワユル、でーと。 そうデートと言っていいはずだ。 俺の三年先輩の高原女史は美人で頭の回転が速く、朗らかな人。社内の高嶺の花で、入社三年目のペーペーな俺なんか、食事に誘うことさえ憚られるような人だ。当然デートなんてありえない……はずだった。 つい一時間ほど前のことにだが、金曜日ともなると特に忙しい時期でもないのに残業なんてする奴はいなくて、俺は一人で会社に取り残されていた。別に俺がドジでノロマなトンマだから仕事が片付かずに強制残業だったわけではない。自分の意志で少し仕事を片付けていただけのことである。 まぁ、言い訳させてもらうなら。金曜の夜、明日は休日だというのに誰も帰りを待たない部屋に帰るのは少しだけ心寂しいので、仕事を片付けていただけなのだ。 もう誰も残っていないと言ってもさほど遅い時間ではなく、高原さんが俺のデスクにやって来たときは、別にどうも思わなかった。ただ残業仲間がいると思っただけだ。 女史は俺の傍らに立つと笑みを浮かべた。 「ねぇ、暇なら食事を一緒にしましょう。私、美味しいところ知ってるの」 仕事の話をされるのかと身構えていた俺は、その言葉に拍子抜けして頷いていた。 いや、それは違う。 俺は笑みを浮かべ、言葉を紡いだ唇に魅せられていた。 唇は淡い色合いでコーティングされ、美味しそうに俺の眼には映ったのだ。 美味しそうな唇が『食べて』と俺を誘ったようにしか思えなかった。 それは俺の自惚れでしかないのかもしれない。女史の美しい顔立ちに、一体何を考えて俺を誘ったのかは読み取ることはできなかった。 そして、今もその意図を掴めきれずに向かい合って食事を取っている。 確かに連れて来られたこの店の料理は美味しいし、見た目も綺麗に彩られて美しい。コースメニューも値段は高いが、納得できる価格設定だと思う。満足できる良い店だと言えるだろう。 女史の言うとおり美味しいところだ。 だけど、ずっと俺はそんな美味しい料理よりも高原女史の唇に魅了されている。 優雅にフォークで口元に料理を運ぶ様子を見て、俺はその唇はきっと苺のように甘いに違いないと想う。 水を飲むため美しいグラスに口付けるのを見て、俺はその唇はきっとワインよりも酔えるに違いないと想う。 楽しげに笑いながら語りかけるのを見て、俺はその唇はきっと愛の告白よりも心に響くに違いないと想う。 でも、そんな浅ましいことを考えてるなんて、感じさせないためにもその唇を必要以上には見つめない。ただ楽しく何気ない言葉を語らってみせる。 やがて、コースメニューを全て消化して、店を出る。 「どうだった?」 美味しかったでしょうと語りかけられて、俺は曖昧に笑った。 美味しかったですよ、ただ貴女の唇が気になってあまり食事に集中できませんでしたが。心の中だけで語りかける。 すると美しい唇は拗ねたように窄められた。 「美味しくなかったの?」 いいえ、美味しかったですと今度はきちんと答える。 すると、美しい唇が得意げに微笑んだ。 「カクテルの美味しいお店も知ってるの、どう?」 行かない?と問われて時計を見る。 9時を少しまわったところ。思いのほか食事で時間が流れたらしい。この時間なら家に帰れば10時をまわらないだろう。 明日は休日、家に帰り着くのは何時なっても大丈夫だ。いや、帰らなくてもいい。 だけど、俺は首を横に振った。体調が少し悪くてお酒は……なんて断れば、それ以上誘いはしないだろう。 予想通り高原女史は少し不満そうな表情で、でも仕方ないと笑った。 もう少しその唇を眺めて、もしもチャンスがあれば食べてしまいたいくらいだと思う。 横に並んで駅へと歩き出せば、もう唇を見ることは叶わない。だけど、朗らかで話題の豊富な高原女史は俺を飽きさせはしない。 ほんの少しの距離で辿り着いてしまった駅の前、俺と高原女史は向かい合う。 「それじゃあ、私はここから地下鉄だから」 残念なことに俺はJR。ここで別れなければいけない。 その唇に触れることなく別れるのが名残惜しくて、少しの間その顔を見ていた。高原女史もそれに付き合う。 だけど、暫く見詰め合って、笑うしかない。 「それじゃあ、月曜日に」 お疲れさまの声で別れる。 サーモンピンクの残像だけが網膜に残り、俺は電車に揺られて家に帰った。
家の前に辿り着いたのは10時少し前。 同居人はサークルの飲み会だと言っていたから、一次会で解散していない限り帰っていないだろう。そして、社交的で酒が好きなあいつが一次会で帰ってくることなんてまずなくて、だからこそ俺は残業をしようと思ったわけだけど。 少しだけ、高原女史の誘いを断ったことを後悔した。 虚しい気持ちで扉を開けると、意外にも部屋は明かりで満ち、靴が一足玄関に投げ出されている。 だらしないその靴をきちんと並べてからダイニングに顔を出せば、四つ年下の同居人が何かを食べていた。 ただいまと声をかければ、食事から顔をあげることなく声を返される。 「あ、お帰り、遅かったじゃん」 そう言いながら、クルクルとフォークに巻きつけられるのはナポリタン。 安っぽいオレンジのスパゲッティを口に含んでやっと同居人は顔をあげた。 無邪気に頬張る姿に不機嫌そうな影は見えない。一次会で何かが起きて、帰ってきたというわけではないらしい。 疑問を覚えて早かったなと声をかければ、苦笑いが返ってくる。 「ちょっとね」 誤魔化すようすに嫌な予感。マジマジとその顔を見つめた。 視線の先にはナポリタンのソースでオレンジに染まった唇が一つ。 高原女史の綺麗な唇とは雲泥の差、月とすっぽんほどの違いがあるガサガサとしていそうなオレンジの唇だ。 サーモンピンクの印象が消し飛ぶオレンジの唇。 だけど、俺は……その顔に近づいて。
美味しい唇、ご馳走さま。
ネクタイを緩めて自室に入った。 部屋に入る直前に、振り返れば同居人は食事の手を止めて固まっていた。
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