合格通知。
その日は快晴だった。 十二月の寒さが身に凍みる晴れた空の下で、俺は憂鬱な気持ちを抱えて特別教室棟となっている北校舎の廊下に立っていた。 廊下に立つのに空の下という表現はおかしいが、正しくその通りであった。何故そんな造りになっているのかは知らないが、北校舎には校舎内に廊下はなく、ベランダのような外に剥き出しの通路があるだけなのである。そんなベランダ通路の四階部分は屋上があるので屋根こそあるが、少し手すりに寄れば空の下を実感できるのだ。 何となく青い空にしみじみとしながら南校舎を眺めていると、不意に軽く背を押されて俺は慌てて手すりにしがみ付いて振り返った。 「いきなり何するんだよ、危ないだろ?」 突然のことに心臓はバクバクと派手に音を立てているのだが、声はあくまでも静かで冷静なものが出た。きっと表情も驚きとか怒りとか、そういった感情は出ていないはずだ。 完璧なポーカーフェイス。だけど、背後に立った人物を見て俺の眉は大きく歪められる。 「お前は俺を殺したいのかよ?」 そこに立っていた同級生の岡崎啓史に対する言葉に続くのは呆れのため息。 まるで、考えの足りない子供のような言動を誰がしていようと構わないのに、こいつだけは許せない。それは物心つく前から一緒に育ってきた幼馴染みだからだ。 何故、俺とこいつとはこんなにも違う生き物に育ってしまったんだろう? 疑問を覚えたのは随分と昔のことで、それ以来俺はこいつが俺が絶対にしないだろう行動を取ると、不思議に思いながら呆れるようになっていた。 そんな俺の呆れに、こいつはいつも誤魔化すように笑う。 「悪ぃ……基の背中が見えたからつい突進しちゃった」 「……ついで誤魔化すなよ」 ついで突進してくる思考回路がわからなくて、やっぱり俺は呆れたようにそう言った。 そんなこと気にしないように啓史は笑いながら「ごめん、ごめん」と謝る。 「謝ればいいってもんじゃないだろ?来年には高校生になるんだから、少しはお前も落ち着けよ」 軽い謝罪に眉を顰めて小言を言えば、啓史は頬を微かに膨らませて俺を睨んだ。 「高校生になったら落ち着かなきゃならないなんて法律ないじゃん。俺は今のままでいーの。だいたい基にそんなこと言われたくないね」 法律の問題ではないのだが、確かにその通り。本人が今のままでいいと言うならば、俺が口出すことでもない、別に俺が啓史の保護者というわけじゃないのだから。 だから、「はいはい」と適当に頷くと俺は会話を諦めて再び啓史に背を向けると南校舎を眺める。 ホームルームの時間のため、窓越しに見える南校舎の廊下には人気はなく、まるで校舎は空っぽのようだ。こんな光景は三年近く通っていたけれど、はじめて見たかもしれない。 ふとそこで思い至った。 「啓史、お前こんな場所で何してるわけ?」 自分はともかく啓史が北校舎のわざわざホームルーム中にやって来る理由はないはずだ。 問い掛けるために振り返ると、啓史は気まずそうに笑う。 「えっと、それは……基がいるのが見えたから?」 問われて、俺は眼鏡を外して眉根のあたりを軽く揉む。 「……俺に聞くな。用がないならさっさと教室戻れよ」 眼精疲労から来る頭痛ではない頭痛が確かにする。 そんな俺に何を思ったのか、啓史は突然腕を引っ張り出す。 「用が無いなんて言ってないだろ?ちょっとこっち来て」 強い力に引かれるが、それについて行く理由など俺には無い。 すぐにその手を外すと啓史の顔を覗き込んだ。 「ここじゃダメなのか?」 「ダメ……ここじゃ。とにかく来て」 「それじゃあ、後にしろよ」 啓史はここにいる理由はないが、俺にはある。ここを動くわけにはいかないのだ。 だが、天は俺の味方ではなかった。 いや、クラスメイトは……だろうか。 「お前ら五月蝿い。話するんなら違う場所行けよ」 俺と近い場所に立っていたクラスメイトが言った。 繊細な心を持つ彼はきっと静かに時を過ごしたいのだろう。いや、彼だけではない、この廊下にいる俺のクラスメイトたちは皆緊張の面持ちで自分の順番を持っているようだった。 「悪い」 苛立ったクラスメイトに頭を下げると、俺は啓史の腕を掴んで歩き出す。 「何か、感じ悪いよな、あいつ」 この場を雰囲気を解さない啓史は小声で話し掛けてきたが、俺は無視する。少し早足でクラスメイトたちから離れた場所に向かった。 啓史もこれ以上文句を言われたくないのか、それ以上は何も言わずに黙ってついて来た。 やがて迷惑にならない程度に離れた場所までくると、俺は啓史の腕を放して向き合うと小声で窘める。 「今、何やってたのかお前わかってないなんて言わないよな?合格発表待ちの奴らなんだから神経質になってんだよ」 それぐらいわかれ鈍感と言ってやる。 そう今俺とクラスメイトたちはある私立高校の合格発表を先生に聞くために並んでいる最中なのだ。 その高校は面倒からか、それとも授業のことを考えてか、合格発表を中学に全員分送りつけるので、先生がプライヴァシーの問題も考えて一人一人に伝えているのだ。そして、俺たちのクラスの担任は自分が音楽の先生なので音楽室に一人一人を迎えてその発表を行なっている。そのため俺たちは寒い空の下で特別教室棟の廊下なんかで順番待ちをしていたのだ。 そして、啓史は啓史で彼のクラス担任の指示した教室で合格を聞くためにこんな場所にいていいはずがない。その高校は啓史の第一志望なのだから。 「大体、何でお前はここにいるんだよ?」 疑問に思って再度俺は聞いた。 すると啓史は満面の笑みを浮かべ、ついでにVサインを俺の顔に突きつけた。 「合格!」 誇らしげに言った。 どうりでさっきの場所ではダメなわけだ。まだ結果を知らない人間の前でこんな言葉を言えないと、啓史なりに考えたのだろう。 だが、結果を知らないのは俺も同じで、俺のことも気遣って欲しかった。 まぁ、だからと言ってそれを顔や口に出しはしないが。というよりも、啓史の合格の喜びが俺には良くわかるから、それを嫌だとは思えなかった。 「……良かったな」 それなのに俺はそんな言葉しか与えてやれなかった。 本当ならもっと一緒に喜んでやるべきだ。まぁ、大きな声で祝福するようなキャラじゃないから、大袈裟に喜んで見せてやることはできないけれど、もっと大きなリアクションで祝福してやればいいのに…… 啓史の喜びを感じると同時に俺に湧き上がって来たのは『寂しさ』で、それ以上の言葉は出てこなかった。 そんな俺に何を思ったのか啓史は喜びに満ちた表情を沈ませた。 「悪ぃ……まだお前は結果聞いてないのにこんなこと言って。でも、一番最初にお前に伝えたかったんだよ」 一番最初に……その言葉に俺の胸は締め付けられる。 だから、精一杯の笑顔を浮かべて見せた。 「アホ。俺の結果のことなんかどうでもいいんだよ、どうせ滑り止めだ。ただ少し信じられなかっただけだよ。まさかお前があそこに合格できるなんてな!」 「うわっ!ひでぇ……俺が合格するためにどれだけ頑張ったか、基が一番良く知ってるだろーが」 「それでも合格が危うかったのも本当だろ?」 「どーせね」 いじけたような声で啓史は呟く。いつもならそのままいじけ続けるのだが、今日は相当機嫌が良いらしく、すぐに微笑みを浮かべた。 「……ま、お前のおかげだ、ありがとう」 照れたような笑いに俺は苦笑いする。 確かに俺は啓史の受験勉強を見てきたが、それだけじゃ合格なんて夢のまた夢だった。 「お前が頑張ったからだよ」 「でも、お前がいなきゃ俺は勉強なんてできなかった。マジで……サンキュな」 それが言いたかったんだ、そう言って啓史は照れた様子で踵を返した。 それを止める言葉なんて、俺は持たずその背をただ黙って見送る。 消えて見えなくなった時、不意に涙が俺の瞳に溢れ出した。 啓史の努力が報われてことが嬉しかったのではない。啓史の合格が嬉しかったのではない。それはやっぱり『寂しさ』という感情だった。 今までずっと……幼稚園の頃から今まで俺と啓史は同じ学校で同じ校舎で育ってきた。家が近所なので一緒に登下校するのが当たり前で、休み時間だって違うクラスになってもよく互いを訪ねていた。 受験が終わり、卒業を迎えればそれはもうなくなる。 俺はあくまでも公立の学校が第一志望で、そこを落ちるつもりなんてサラサラない。だからきっと……絶対に春が来たら自然と俺と啓史は離れ離れになるのだ。 今までずっと一緒で、今までずっと見てきた啓史と離れることがこんなにも寂しくて辛いことだなんて、俺は気がつかずにいた。 ずっと一緒にいられるって思い込んでいたんだ、俺は。 だけど、現実なんてものはこんなにも呆気なくそんな思いを砕いてしまう。ずっと一緒にいられるなんて、勝手な幻想でしかなかった。 その幻想はただ一緒にいたいという俺の想いが勝手に生み出した……夢でしかない。 俺は、俺は離れたくないと想うほど、啓史が好きなのだ。 不意に俺はそれに気がつかされた。
春が来て。 俺は希望の高校に入学した。 俺の高校は啓史の高校とは正反対の場所にあり、登校すら一緒にできるはずもない。 だけど……
「基~、CD貸して~」 夕食後、自室に篭って本を読んでいた俺の耳に聞きなれた声が聞こえてくる。それと同時に決して慌しい足音が階段を駆け上ってくる。 更には、 「あら、いらっしゃい。後でお茶を持っていくわね」 「あ、いつもすみません」 俺の母とのやり取りまで聞こえてくる。 手の中の本を閉じて俺が扉に向き直ったとき、ノックどころか声さえかかる前に扉が勢い良く開く。 「C~D~、買ったんだろっ!?」 そう叫びながら入ってきたのは岡崎啓史……だった。 「啓史、もっと静かに入って来いよ」 「え~?いいじゃん。小母さんもケイくんは元気でいいわねって言ってるし」 「……母さんが良くても、俺は迷惑だ」 眉を顰めて心底、嫌そうに言って見せるが内心は笑っていた。 あまり常識的な行動ではないけれど、確かに母が言うとおり元気の良いその様は好ましいものだったし、何よりも好きな奴が自分を訪ねてやって来るのが嫌なはずない。 だけど、昔から啓史に常識を教えるのは自分だと思っていたので、今さらそのスタンスを変えることはできないのだ。 そして、どんなに俺が嫌がって見せても、啓史は自分がしたいようにやる人間だ、基本的には。 「別にいいじゃん。俺が大人しく入ってきたら、だいたい小母さんが病気かって心配するじゃないかな?」 「……あっそ。他所ではやるなよ?」 「やるわけないじゃん」 他所でやらないのに、何故家でする?と思わず切り返したかったが、やはり元気な啓史が嫌いでない俺はそれ以上はあえて追及しなかった。 啓史はそんな複雑な俺の心なんてお構いなく上機嫌に手を差し出す。 「で、CD」 厚かましい。 大体普通なら、CDというだけでは何のCDだかわからないだろう。 それでも俺は最近発売したばかりの洋楽のアルバムを迷うことなく手にとって啓史に見せる。 「一昨日貸したCDと交換だ」 「え~、持って来てないよ」 一瞬、ジャケットを見ると喜色を浮かべたが、俺の言葉に啓史は頬を膨らました。 俺はそれに呆れたため息を返す。 「じゃあ、貸せない」 「基って、細かいよね」 「お前が細かくさせるんだよ。一昨日のはまだしょうがないけど、その前に貸した奴とその前の前に貸した奴も返ってきてないじゃないか?」 「う~、わかった。明日まとめて返すから、それ貸して」 拝み倒すように啓史は両手を合わせるが、一昨日貸したときにも同じことを言っていた。そして、仕方なく俺は貸してやったのだ。 そう、俺は今日も仕方なく貸してやることになるのだろう……
卒業式に俺は啓史に告白なんてしなかった。 そのまま自然と会わなくなっていくのだと思っていた。 だけど、俺と啓史は今も二日に一度は会っている。 俺の部屋で。
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