「No Title」
窓の外はすでに暗く、日が落ちて時間がすぎていた。だが時計を見やれば時刻はまだ6時をいくらかすぎたばかりで、冬の日没の早さを物語っていた。 東京都心、新宿に程近い高田馬場駅前にある古いマンションの一室で、月岡京一とその恋人、穂積柊麻は寄り添うようにソファに座り、入れたばかりのコーヒーを飲んでいた。 とはいえ、インスタントだ。味のほうはさして言うほどよくも悪くもない。 「そろそろ、帰ります」 まだ口をつけてもないコーヒーを両手でしっかり持ったまま、柊麻がそう申し訳なさそうに言うと、京一は驚いたように柊麻を見やった。 「まだ6時じゃない。もう少しゆっくりしていけばいいのに」 だが柊麻は苦笑を浮かべて首を振った。 「近々、夏葉の就任式があるんです。まだ会長というわけにはいきませんが、事実上はホヅミ・デパートの第一責任者になるのだそうです。僕はあまり詳しいことは知らないのですが…そのことで、家のものと少し……」 語尾を濁したのは、まだ彼と父の間でわだかまりがあるせいだろうか。 退院し、その後の経過も順調で特に何の後遺症も残らなかった柊麻が、一度は穂積からの解放を約束した父親は惜しくなってしまったのかもしれない。 だがすべてはもう動き出している。あとは彼ら本人同士に任せるしかない。 「そっか。ま、あんたも大変でしょうけど、もう後を継がなくてもいいって言われたわけだし、あとは夏葉君に任せても平気でしょ。話し合い、頑張って」 「えぇ」 「じゃぁ、それ飲んだら車だすよ」 「あ、いえ。時間も遅くないし、電車で帰りますから」 窓のすぐ外を、ひっきりなしに電車が走っている。数の多い山手線だ。初めはうるさいとも思ったが、今はもうなれた。柊麻にしても同じだろう。 「少しでも長く一緒にいたい俺の気持ち、わかってよ」 冗談めかしてそういうと、柊麻は嬉しそうにくすくすと笑った。
トゥルルルルル……
ふと、出し抜けに京一の家に置かれた余り使われることのない固定電話が大音声をたてた。 京一は柊麻に片手を挙げて軽く謝罪して受話器を持ち上げた。 「はい、月岡です」 『京一か』 受話器の向こうから、京一とよく似た声が聞こえてきた。誰何するまでもなく、声の主は判った。 「兄さん……」 家を出て以来、話をすることなどなかった相手からの電話に京一は戸惑った。実家を出てから一度も帰ってはないが、住所と電話番号くらいは年に一度の年賀状でやりとりしていた。 「何か、あったの」 問うと、長いような沈黙の後に静かな答えが帰ってきた。 『……両親は今更お前に伝える必要ないって言ったんだが』 言いにくそうに言葉を区切る兄の様子に、京一はわけもなく不安を覚えた。 『でも、やっぱりちゃんと伝えておこうと思ってな』 「なに?もったいぶってないで早く言ってくれよ」 ふだんの調子とは違う、少しぶっきらぼうな口調でうながす京一の姿に驚いているのはどうやら柊麻だけのようで、京一の兄は言いにくそうにしながらも、うながされて口を開いた。 『川島さんが、亡くなったそうだ』 「直人が……?」 すぐにはその言葉の意味が理解できなかった。 たんたんと頭の中を通過する兄の声をただあいずちを打つだけでやり過ごし、 『お前が今、その、どんな生活を送っているか知らないが……気を落とすなよ』 「ああ…大丈夫」 そう伝えた京一に、兄は事務的に男の死因を伝える。京一の頭はその言葉を理解することだけでいっぱいで、何も言うことができない。 やがて兄が電話を切り、受話器からツーッツーッという電子音が聞こえるようになってから、そろそろと京一も受話器を下ろした。 「……京一?」 そのただならぬ様子に、柊麻は心配になって声をかけた。 「……どうしたの?京一、一体何が……?」 「……柊麻、直人が、死んだよ」 「? 直人?」 死んだという言葉に眉をひそめて問う。 聞き覚えのない名前だ。 「大学時代の友人さ……同じ講義を受けたこともない、ただの」 「そう……」 大学時代の友人が亡くなったと聞いても気の利いた言葉一つでてこない自分に自己嫌悪しながら、柊麻はそれでも落ち込む、というには少し度がすぎるくらい沈んでいる京一になんとか、かける言葉を探す。 「いい人、だったんでしょうね。お悔やみします」 「あぁ……」 青い顔で泣き出しそうに顔をうつむかせる京一を痛々しく思いながら、それでも柊麻には言葉がない。 「……泣いて、下さい」 唇を噛み締めて涙を堪える姿に見兼ねて柊麻が言ったが、京一は首を降るばかりだ。 「あいつのために泣いてやれる資格なんか、今の俺にはないんだよ」 「どうして……」 悲しい言葉を吐き出した京一に眉を潜めて問う。 だが京一はなかなか答えようとはしない。ためらうように柊麻から目を逸らし、口を紡いでいる。 「……あれは、まだ俺の髪が一度も染めたことがないような黒髪で、こんな白衣もきていない、学生だったときの話だ……」 しばらく何も答えずに黙していた京一は、やがて咄々と語り出した。
京一が恋心を抱いた初めての相手は、中学の数学の先生だった。それだけなら、よくある甘酸っぱい思い出ですむのかもしれない。 だが、その数学の教師は、まだ大学を卒業して間もない若い男だった。 京一は初めて知った己の異常さに愕然とした。始めは自分でさえも自分自身を受け入れることができなかった。 以来誰にも話すことができず、ただひたすらそんな思いを隠し、誰にも知られぬように過ごすようになった。 やがて大学へと進学すると、京一は心理学を専攻した。自分の異常な心理の正体を暴きたいと思った。そしてできることなら『正常』になりたいと。 必死になって毎日図書館にかよった。 図書館には様々な学生たちがいて、中には京一と同じように常連となっている者もいたが、仲でも一際目立つ青年がいた。白い肌に、染めた赤い髪。真ん中で分けられた長い前髪が頬までかかっている。その奥の瞳の色までは遠くで見ているだけの京一には判別できなかったが、顔は一度見たら忘れられないほど整っていた。 いつも窓際の席に座り、何がしかの小説を読んでいる。うつらうつらと船をこいでいることもあった。 そんな彼の姿を見ているうちに、京一は次第に惹かれていった。 まるで天使のような名前も知らない彼に。 だが、自分も相手も男であるというある種のハンデは、彼に声を掛ける勇気も彼のことを知ろうとする気持ちも失わさせていた。 どうせうまくいかない。 京一は初めからそうあきらめていた。 そんな、冬のある日のことだった。 「恋愛における異常心理? なんだか難しそうな本だね」 本棚から一冊の本を手にとり、いつものように大学の図書館で調べものをしようと思っていた京一に、声をかけるものがいた。 その美しいテノールに惹かれて振り向くと、そこにはうっとりするような笑みを浮かべた美しい、あの青年だった。 「……論文を書くのに必要で」 「知ってる。君、いつもそんな本ばっかり読んでるでしょ。もしかしなくても、斉藤ゼミのひと?」 斉藤ゼミは京一が受講する異常心理学のゼミだ。京一は肩をすくめた。 「ああ、その通り。一緒のゼミだったか?」 違うことは判っていながらも彼に声を掛けられた喜びにはやる気持ちを押さえるようにぶっきらぼうに問うと、案の定彼は首を振った。 「違うよ。ただ、そんな本を読む必要があるゼミはそれしかないって思っただけ」 いたずらっぽく笑う彼の顔に見とれて、京一はまごつきながらもなんとか平静を装って手に取った本をぱらぱらと意味もなくめくる。 「ま、それもそうか。で……俺に何か用?」 綺麗な彼に惹かれているくせに、それを素直に伝えることができない京一はできるだけそっけなく言って彼を見た。 しかし彼はそんな京一の態度を気にした風でもなく、逆ににっこりと微笑んだ。 「あのさ、あんた、同性愛についてよく調べてるだろ。興味あるの?」 頭をもたげた警戒心から何も答えられずに黙って目の前の青年を見ていると、彼は困ったように肩をすくめ――そしてこう切り出したのだ。 「興味あるんならさ、俺で試してみない?」 京一は驚いて危うく手に持った本を取り落とすところだった。 東京の街で一人暮らしをしていれば、一晩限りの相手を探して夜の街を歩くこともあった。ウリなどにかかわったことはなかったが、こうして声を掛けられたことは幾度かあった。名前も知らない男と肌を重ねたこともあった。だが今、目の前の青年は、そうした夜の街にいるわけでもない京一に、この大学の図書館と言う場所で声を掛けていた。 「あんた、ゲイなのか?」 思わずそんな言葉が口から漏れた。 「そうだよ。でも、ゲイは男なら誰でもいいなんて誤解、持ってるなら今すぐ捨てろよ? 俺はあんただから声掛けたんだからね」 いたずらっぽい笑みを浮かべて、彼はそう答えた。 初めは面食らった京一も、やがて本来の自分を取り戻してニヤリと笑みを浮かべた。 「実はここだけの話、俺もゲイなんだよな」 その言葉を聞いた瞬間、青年の顔がパッと輝いた。それを見て京一は彼が京一の返事を聞くまで不安だったのだと言うことを悟った。 「俺に声を掛けたこと後悔したくなるくらいヨクしてやるよ」 不敵に笑って、その日京一は彼を連れて図書館を後にした。 彼の名前は川島直人といった。 四年生で、卒論が出来上がればこの春卒業だという。まだようやく大学になれたばかりの一年生の京一の三つも年上だった。 京一は直人のことを知る度に、直人のことをどんどん好きになっていった。直人を抱くようになってからは、夜の街へ足を運ぶこともなくなっていた。 直人も京一も甘い言葉を交わしあうことはなかったが、二人の関係はただのセックスフレンドでもなかった。 恋人未満の関係が長く続いた。 つらくなかったとは言えないが、そのときの京一は直人に真実を聞けるほど強くはなかった。 「俺のこと、好き?」 そう聞いた途端に関係が壊れてしまうのが怖かった。 だが、あるときその二人の関係が一転する出来事があった。 雨の降る日の夕暮時だった。部屋で煙草をくゆらせていた京一の家のチャイムが鳴り、大学での友人は多いとは言えない京一は訪問者に心当たりもなくどうせ新聞の配達かなにかだろうと思いつつ重い腰を上げ、煙草をくわえたままうすっぺらい安物のドアを開けた。 「よかった、いなかったらどうしようかと思ったよ」 だが予想は裏切られた。そこに立っていたのは、白い肌に整った顔立ち、どこにいても目立つ赤い髪の直人だった。 「直人……?」 彼が自分から、それも何の連絡もなく京一の元へ来るのは珍しかったので、驚いた。 しかも、見れば手には京一のところへ来るだけにしてはやけに大きすぎるトランクを抱えている。そのまま2週間くらいは旅行に行けそうだ。 「ともかく、入れよ」 雨に打たれた体は細く震えている。深夜には雨が雪にでも変わりそうな寒さだ。無理もない。 しかし直人はじっと京一を見つめたまま動こうとはしない。 「直人?」 不審に思った京一が再び問い掛けると、直人が意を決したように口を開いた。 「実は。俺が住んでたアパート、老朽化がひどくて……立て替えるついでだからって、アパートじゃなくてマンションになるらしいんだよね」 「あ、あぁ……」 話が見えずに生返事を返す京一にはお構いなしに直人は話を続ける。 「それで……出てかなきゃならなくなって……住む場所がないから……一晩だけ、泊めてほしいんだ…よ、ね」 だんだん尻すぼみになる直人の言葉を聞いて京一はふと笑みを浮かべた。 「なんだ、そんなこと。もちろんいいに決まってるだろ。住む場所が決まるまで、一晩と言わずに、ずっといろよ」 好きな男が自分から同居をせがんでくるなんて、願ってもないチャンスに、京一は心を踊らせた。しかし目の前の直人は浮かない顔だ。 「どうした? なんか問題でもあるのか?」 「俺……あんたに言わなきゃなんないことがある」 真剣なまなざしに、京一は寒さも忘れて直人を見つめ返した。くわえたままの煙草から、長くなり過ぎた灰がぽろりと落ちた。 「これ、言っておかないと、卑怯、だから。俺、そういうの、やだから」 「なに? なんのこと?」 京一は問い掛けたが、直人はしばらく覚悟を決めるように黙っていた。 「俺……」 やがて意を決したように顔を上げてその綺麗な顔で京一の顔を見つめると、美しい形をした薄い口唇が言葉を紡ぐ。 「俺、あんたのこと、好きなんだ」 「へ……?」 今度こそ、灰だけではなく煙草を落としてしまった。消えない煙がいつまでもくすぶっている。幸いな事にすぐにでも燃え移ってしまいそうなものは落ちていない。だが京一はそれどころではなかった。たった今直人の口から聞かされた言葉を頭の中で繰り返し繰り返し呟き、意味を理解しようとしていた。 「いまさら、かもしれないけど。俺、あんたのことが好きで……あんたは俺のことただのセフレだって思ってるの、知ってるよ。このままずっとこの関係を続けていられたらいいって思ってたけど……でも、あんたの家に泊まるのに、あんたへの想いを黙ってるの、卑怯、だと思ったから」 悲壮な表情を浮かべて罪の告白でもするように言う直人を見つめ、次第に言葉の意味が理解できてきた京一は、不安げな表情で京一を見つめている直人を乱暴に抱き寄せた。 「直人……」 冷えた体を抱きすくめ、京一は直人の耳元に囁いた。 「俺も、おまえが好きだ……」 「ホントに…?」 驚いたように問い返す直人の口唇を奪うと、京一は舌を差し込んで直人の口の中を蹂躙した。 「んんっ」 突然の深いキスに、そういう行為にはなれていたはずの直人も酸素を求めてあがく。執拗に迫られるうちに快感がうずき始めて砕けたように足の力が抜けてしまった直人の腰を支えてやりながら、京一は開きっぱなしだった玄関のドアを閉め、ついでに後ろ手で鍵もかけた。 直人をベッドまで運ぶと、優しく横たわらせて服を脱がせた。 直人の白く美しい肌があらわになる。焦るような気持ちを抑えて、京一はその胸を愛撫した。直人を抱くあいだ、京一は夢の中にいるようだった。京一にとって、初めてできた恋人だった。高まる想いを抑えきれずに、何度も何度も重なり合った。不器用だった京一の思いのたけを全てこめた。その日から、二人は誰にも内緒の恋人同士になったのだ。 そして、甘い生活は続き、季節は春になっていた。 直人は相変わらず京一の家にいついていた。大学を卒業した直人が就職をしたのかしていないのか、京一は知らなかった。卒業するまでは決まっていないなら聞くのも悪いと思い、決まればそのうち話すだろうと思って聞かずじまいで、今更聞くのも気が引けた。ただ、京一が朝早く大学へ行くころはまだ寝ていることが多かったし、京一が家へ帰ってくるころにはいることが多かったから、いわゆるフリーターというヤツなのだろうと勝手に理解していた。 その年のゴールデンウィークは、京一も直人もどこへも行かずに家にいた。 「直人…」 連休も半分が過ぎ、惰性のまま朝から京一は直人の艶めく肌を愛撫した。直人は従順だった。年上である事も忘れて、京一はベッドの上で主導権を握りたがった。だが、さすがに直人も慣れていて、京一が気を抜くと知らぬ間に直人の上で翻弄されているのだ。 「いいか…? なおと」 直人の耳元で甘く囁きながら、京一は直人を追い立てた。 「あぁっ…京一……」 惜しげもなく嬌態をさらす直人の淫靡な姿にほんの一瞬気を抜いた時、京一の視界は反転していた。ベッドに仰向けに寝転がり、その腹の上に直人が馬乗りになっていた。 「ふふ……甘いよ」 直人が淫らな表情で微笑んだ。 そして自ら京一の固く脈打つものを秘孔にあてがうと、深く射し込んだ。 「はぁぁ……ん」 嬌声を上げて動く姿は艶かしく、京一を責め立てた。
ピーンポーン………
不意に、チャイムが鳴り響いた。だが、京一も直人もそれどころではない。それに二人にはこの家へ訪れる人物に心当たりがなかった。よくある新聞の勧誘、セールス。二人は当然のようにそのチャイムを無視した。 直人が腰を振り、京一も下から突き上げた。 「あぁっ……」 二度、三度、チャイムが鳴り響く。 二人の心に昼間からの情事にふける背徳感が満ちていく。それは魂を燃やすエッセンスとなって二人を追い立てた。やがてチャイムが鳴り止むと、京一はさらに激しく突き上げた。 「イクぅ……っ」 直人が京一の上に崩れ落ちてくる。 そして……
「な、何をしているの!?」
寝室へと続くドアが開けられ、ヒステリックな声が聞こえてきた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。だが現れた第三者の存在に、二人は慌てて離れたが時はすでに遅い。裸のまま抱き合っていた二人が頬を上気させてしていたことが何なのか、一目瞭然だ。 「きょ、京一……?」 引きつった女の声に恐る恐る首をめぐらせると、一人の中年女性が呆然と立ち尽くしている。 青ざめた表情、信じられないものを見てしまった驚きに見開かれる目。足元に落ちた土産物らしき白いビニール袋。 「……かぁ、さん」 掠れる声でその女性を呼ぶための言葉をつぶやいた。 それは、京一の母だった。 状況を把握できずにおろおろとしていた直人の顔が青ざめるのが視界の隅に見えた。 母の背後から、父の姿も見えた。 父の顔は、憤怒に赤くなっていた。握り締めたこぶしが震えているのも見える。 「母さん、親父…これは」 なにか、言わなくては。 そう思っても何をいったらいいのかわからない。口ごもる京一を父が怒鳴りつけた。 「言い訳など聞きたくない!! さっさと服を着てその忌まわしい姿をどうにかしろ!!!」 「………」 「さっさと離れないか!!」 ベッドの上でシーツを抱きしめていた直人の腕を取ると、床に引きずり落とした。そのまま京一の父は床に落ちていた服を直人に投げつけると、ついで京一にも同じように洋服を投げつけた。 「何するんだ!!」 京一が叫んだが火に油を注ぐようなものだ。 「うるさい! いいかげんにしろ!!!」 ベッドの上の京一は、父にしたたか殴りつけられた。口の中が切れて血の味が広がる。苦い、そう、これはとても苦い味だ。 ズボンを履き、シャツを羽織ると京一は直人をかばうように立ち上がって父を見た。すでに自分の父を見下ろすほど身長は伸びていたが、それでも京一は父を殴り返そうとは思わなかった。 「聞いてくれ、親父」 「言い訳など聞かん! いいからお前はこっちへ来い!」 腕を引かれ、抵抗すると頭を小突かれた。呆然としていた母は京一たちのあとをついていきながらのろのろと床の上でシャツのボタンをはめる直人の顔を憎悪の顔でにらみつけている。
「そのあと、俺は親父の運転する車に乗せられて実家に連れ戻されたよ」 そう言って、京一はコーヒーを一口飲んだ。長い昔話をしたせいで渇いた口を潤すには少し苦い。その苦さに京一はあのときの血の味と苦い思いを鮮明に思い出してしまい、暗い思いで窓の外を見やった。カーテンを閉めないまま放っておかれた窓の外は街の明かりが浩々と照っている。天を彩る星々も、輝く月も見えない。 「……それで、その後、どうなったんですか、直人さんとは」 柊麻が静かに尋ねた。京一はほう、とため息をつくと、窓の外を見つめたまま語る。 「俺の住んでたマンションから実家まではそう遠いところじゃなかった。車で1時間半……てとこか。どうもゴールデンウィークを利用して出かけて、帰ってきたついでに俺の家に寄り道したらしかったんだよね。細かいことは…聞かなかったけどさ」 そんなことを聞けるような状況ではなかった。ただ、母の持っていた土産物と、車に積んであった荷物から、多分そうだろうと思っただけだ。 「家に着くと、何だってあんなことになったのか、ずいぶんしつこく聞かれたよ。俺はカミングアウトをした。俺は、生まれてからずっと男しか愛せないんだってね。親父は怒ったよ。何発か、殴られたね。母さんには泣かれて…親不孝者って……きつかったよ」 許してくれと、泣きながら懇願した。俺だって、こんな思いをしないですむのならしたくなんかないんだと。だがそんな京一の声は両親に聞き入れられるはずもなく、京一は無理やり謹慎をさせられた。家の外へは一歩も出ることができなかった。連休中で、父はずっと家にいたし、これ以上母親を泣かせたくはなかった。唯一兄だけは今までと変わらずに接してくれたけれども、だからといって助けてくれたわけでもなかった。夜中に起きだして何度かマンションに電話をしたが誰も電話には出なかった。どんなにしつこく鳴らしても出ない電話に不安になった。直人はどうしているだろう。 何度目か、電話をかけたとき、無情なアナウンスに「現在使われておりません」と告げられ、いても立ってもいられなくなった京一は深夜に父の車を拝借して夜中の道を走らせた。ようやくたどり着いたマンションの部屋は、無情にももぬけのからだった。 カギを変える前だったらしく、京一の持っていたカギでドアを開けることはできたが、部屋の中は何もなく、電気もつかず、表札もはずされていた。 京一のマンションは引き払われていた。 「あの時はまだ、携帯電話なんてみんな持ってなくて…俺は直人を探すこともできずに、やがて大学も始まって……」 そのまま、どうにもならないまま、二人の関係は、途切れた。
脳腫瘍だったらしい。若くしてガンにかかり、病に倒れた。訃報を伝える短い葉書が、京一の実家に届いたそうだ。なぜ、直人が京一の実家を知っていたのか……。教えた覚えがなかった。
「つまんない話をしたな……帰るんでしょ? 送っていくよ」 京一は悲しい顔を無理やりしまいこんで柊麻を見た。柊麻も悲しそうな顔をしていた。 「京一……こんなことしか言えないおろかな僕を許してください」 「?」 「直人さんの、冥福をお祈りします」 「……ありがとう」
柊麻を送って帰ってくると、京一は家のポストに封筒がはさっまっているのに気がついた。 何通かのダイレクトメールにまぎれて、見覚えのある字体の封筒が入っていた。兄の字で宛名の書かれたその封筒の中には、二枚の葉書があった。宛名だけで差出人の名前のない葉書と、川島直人の死を知らせる黒い葉書。 宛名のない葉書には、震える文字が綴られている。
今もまだ、僕は許されていないのだろうか。僕はもう京一に会えないけど、京一だけは許されていることを祈るよ。 愛してた。
訃報の葉書より三日遅い消印のその葉書は、それを見つけた誰かがポストに投げ入れたのだろうか。それは多分、直人の遺書だったのだろう。 京一は深い悔恨と戻らぬ月日に涙を流し、今はもう柊麻を愛してしまった自分をなじった。そして遠い空へと謝罪し、小さくつぶやいた。
「俺も、確かにあの時はお前を愛していたよ」
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