瞳を閉じて、大きく深呼吸をして、自分の心(なか)をみつめて。 そうすると、水に潜るような感覚で、自然と意識が精神世界へと沈んでいく。 椅子にもたれて瞳を閉じている静馬の指がぴくり、と動く。 潜る瞬間にはいつも不快感を感じる。 それは他人の精神に潜る時と変わらない感覚。
自分の心の奥底に淀んでいる闇。 そこを目指して、静馬の意識は静かに、ゆっくりと潜っていく。
伸ばした指先があともう少しで闇に届く。 99度目の闇との融合が成立する。
「これが成功したら、あと一回で完成だ・・兄さん」 ぞくりと背筋を恐怖感が這い上がる。 思わず出そうになる悲鳴をぐっと飲みこんで、耐える。 「早く兄さんのいる場所に行くんだ。だから平気」 闇に視界を完全に奪われて何一つ見えなくなる、静馬は静かに大きな瞳を閉じた。 闇が静馬の華奢な体を抱き込み、更なる深淵へ引き摺り込もうとした其の時。
かっ。 一筋の閃光が闇を裂いた。 鋭い光の切っ先が静馬を包む闇を貫き、侵食し、霧散させた。 「・・っーーー!!」 視力を奪う程の真っ白な閃光。 とっさに目を閉じて、頭を抱え込んだ途端、何かに乱暴に腕を引かれた。
「いた・・っ!・・っーー」 力強い腕に、静馬は苦痛を訴える。 光にやられた目が痛くて涙が止まらない。 「ぐっ・・・っ!!」 ぽろぽろと涙を流しながら、静馬は叫んだ。 「内藤!またお前か!邪魔するなっ!!!」 叫んだ途端、視界がぐるりと回転して、静馬は意識を手放した。
◆◆◆
しん、と静まり返った部屋。窓の外では小鳥がさえずりあっている。 木製の重厚な調度品に囲まれた書斎。 どっしりとした構えの机。 体全体を包み込むような大きな椅子に腰掛けて眠っていた静馬の肩がぴくりと揺れた。 「・・・・」 静かに、閉じていた瞳を開ける。 現実世界に戻ってきてしまった。失敗だ。 静馬は窓から差し込む眩しい光に目を細める。 そして、自分の体に覆い被さるようにしてキスしている男を睨みつけた。
「よくも邪魔してくれたな」 唇が離れた途端、悔しげな声が静馬からもれる。
「・・静馬さま」 頬をそっと撫でられて、少年の肩がぴくりと揺れる。
「あなたが悪いんです。こんな場所で無防備に眠っているから。つい襲ってしまいました」 再びくちづけようとした内藤を押しやると、苛立たしげに自分の親指を噛んだ。 「休暇を与えた筈だろ?何故ここにいる」 「ええ。おかげさまで楽しんでますよ。こうやって大好きな人の寝込みを襲ったりしてね」 長い前髪ごしに静間の顔を覗き込む。 「出て行け」 静馬の言葉に内藤は軽く肩をすくめただけで動こうともしない。 「いやです」 「な・・!お前は僕の部下だろ。僕の言う事は絶対なはずだっ。出てけ。今すぐ。ほらっ!」 「・・・お忘れですね」 「何を?」 「只今休暇中ですので、命令等は一切効力を発揮いたしません。何をしようと私の自由です。 あなたがくれた休暇ですよ。忘れたのですか?」
ぐっと、静馬は言葉に詰まってしまう。 いつだってそうだ。 年上の部下に上手くいいくるめられてしまう。 むかつく。 「お前のせいで・・・!僕はっ」 言葉が見つからなくて後が続かない。 兄との約束は秘密なのだ。誰にも言いいたくない。 「なんで邪魔をするんだよ!」 抑えきれない怒りだけを内藤にぶつける。 きっと彼には子供が安眠を邪魔されて怒っている程度にしか感じないだろう。 それでも、言わずにはいられなかった。 大切な儀式を邪魔されたのだから。
爪と一緒に皮膚まで噛み切ったらしく、静馬の細い親指から血が流れ落ちていく。 「静馬さま・・・」 内藤は静間の手を取ると、指を伝う血を舐めとった。 「・・っ」
慌てて引っ込めようとした手を強引に引き戻し、親指を口に含む。 舌先で、傷口をつつくと静馬の体が震えた。 「ないと・・っ!」
「いい加減、諦めて、俺のモノになれよ」 「・・!」 執事の仮面を脱ぎ捨てた男が少年の体を抱き寄せる。 「”役目”もプライドも何もかも捨ててしまえ。俺を選べ。連れて逃げてやる」 静馬のシャツを器用な指が脱がしていく。 喉元に唇を押し付けられて、静馬の体がのけぞった。 「っ!」 「俺だけを見ろ。静馬・・・」 熱い息が唇にふれて、少年の腕は無意識のうちに内藤の背中に回っていた。 深い口付けをうけながら、少年は泣いていた。
◆◆◆
「教えておいてあげるね静馬」 静かな声。 穏やかで、優しい声の持ち主。 1つ年上の兄だ。 「教えといてあげる。静間」 「何?兄さん・・何?」 「僕が死んだ後、お前の力を利用する者達に囲まれて生きていくのが辛くなった時は・・・」 「・・」 「いつでもおいで。僕の所に」 「どうやって・・?そんな事・・僕の力を欲しがる人達が許してくれない。 僕はあいつらに一生監視されて生きてくしかないんだ。ずっと・・・一人・・でっ」 くしゃりと、顔を歪める弟の頭を撫でながら、兄はそっとささやいた。 唯一の、逃れる方法を。 確実な逝き方を・・。いつもの優しい口調で、しっかりと、弟の耳に届けた。
人の精神に潜り込み、その体を自在に操ることが出来るという特殊能力を持つ高遠家。 一族の力を欲する者はいつの時代にも多く存在する。 もともと体が弱かった兄は、人の精神に潜り込む度に肉体が衰弱していった。 ついに、指一本動かなくなり、静かに息を引き取った兄の体を抱きしめ、静馬は泣いた。 涙が出なくなり、声が枯れはてても、泣き続けた。
◆◆◆
「静馬・・」 荒い息と、肌に触れる熱い・・・手。 内藤の全てが、意識を飛ばしかけていた静馬を現実に強引に引き戻す。 「や・・ぁっ!内藤っ・・」 「しずま・・っ」 吐息まじりの声に、ぞくりと体が震える。
100回、己の精神に潜り込み、その根底に潜む闇。 そこに心を侵食されてしまえば・・・。 「いける・・のにっ・・っ」 兄のいる所へ。煩わしいものなど何一つ無い死の世界へ行ける・・のに。 何故か、内藤に淫らに触れられるたびに、現実へ引き戻されてしまう。 最近はずっと失敗ばかりなのだ。 これでは死ねない。 兄のもとへ・・いけない。
内藤の熱を内に感じて、少年は震えが止まらない。 「逝きたい・・のに・・っ」 「静馬・・・もう少し・・・もう少しだけ・っ」 内藤が静間を抱きしめる。 「ーーーっ!」 「もう少し・・・俺を受け入れて・・・」 いつだって直前で打ち砕かれてしまう。内藤の熱さに。 内藤の作りだす、光に。 彼は知っているのだろうか。 知っていて、邪魔をしているのだろうか。 ・・・わからない。 「っ・・もう・・無理っ!」 「まだ・・まだ駄目だ・・静馬・・・っ」 上ずる声声声。 「やだぁーーー・・・・っ。いかせ・・てっ、ない・・とぉーっ!」 静馬の流す涙が冷たい机の上に落ちる。
にいさん・・! 声にならない声で、最愛の人の名を呼ぶ。 頬を伝う涙すら内藤の舌に盗られて。 薄れゆく意識の中で、昼の光と机の落とす影を見て泣き続けた。
|