思い出はいつまでも永遠であれば良い 色褪せることなく 永遠に続けば良い
「ゆっくり外しますから、まだ目を閉じたままで居てくださいね」
するすると、布の擦れる音がする。 それは長時間つけっぱなしだった拘束具を外すような感覚にも似ていた。 ゆっくりと外されていくそれを、時折掠める髪と、聞こえてくる音。 そして揺れる空気だけで感じていた。 それは恐らく、僅かな時間だったに違いない。 長時間にも及んだ手術に比べれば、今まで長く、我慢してきた時間に比べれば。 それは一瞬にしか過ぎなかっただろう。 そう分かっていても、実際のところ、それは物凄く長い時間をかけて 外されたような気がしてならなかった。
久し振りに、空気に触れる肌。 少しひんやりとしたその空気が気持ち良かった。
「…それでは、ゆっくりと目を開けてみてください。落ち着いて」
正面に座っている医師が淡々と告げる。その口調にももう慣れたものだけど。 医師もそれでいて少し緊張していたのかもしれない。 何せこの手術だってもう何度目かも分からない程行っている。 今度こそは、今度こそは、と言い続けて。その度に結果は「失敗」。 看護婦の一人が、前に1度言っていたような気がした。
「今回は良い結果が出そうなんですって」と。
正直なところ、自分自身もかなり緊張していたと思う。 ゆっくり、静かに目元に力を入れた。
+++
人は、大切なものを失ったときに悲しいと言う。 掛け替えのないものをなくしたとき、不幸だと言う。 未知なるものに出会ったとき、恐怖を感じる。
だが、本当は知らない。
自分自身を知らないことが、本当は何よりも恐ろしいということを。
最初に聞いた言葉は、名前を問う言葉だった。 確かあの時も、薬品の匂いが充満した部屋だった気がする。 自分の周りには何人かの医師が立っていたのだろう。複数の人声が聞こえた。 皆口々に、痛いところはないか?とか、自分の名前が分かるか?といった質問を繰り返していた。 不思議と、身体の痛みは感じなかった。 いや、まるで自分の身体ではないかのように感覚がほとんどなかったのだ。 次々と投げ掛けられる質問にも答えないまま、色々と思考を巡らせてみる。 …が、何故か何一つ考えられない。 自分が何故ここに居るのか、一体今はいつなのか。 そもそも自分は何なのか、ということさえ。 直ぐに、妙な状況に気がつく。 意識ははっきりとしているのに、目の前が真っ暗なのである。 ひょっとしたら瞼まで麻痺しているのだろうか。 そう考え、重い身体を動かして、顔に腕を伸ばす。
「……?」
手が触れたかった場所は自分の目なのに。 触れたのは肌の温もりではなく、乾いた布の感触だった。 それが包帯だということに、気付くまでどれくらい時間がかかったろうか。
それまでの記憶と共に、視力をも失ってしまった事に気付いたのは それから大分経ってからのことだった。
+++
(本当に残念ですが…)
そう言った先程の医師の言葉が、瞼の裏にまるで浮かぶようだった。 それくらいに、周りの空気は重く、彼の言葉は沈んでいたからだ。 だがしかし、それは決して彼を責める事ではない。だからあっけらかんとして笑った。 「先生のせいじゃありませんよ。また次回、頑張りましょう?」と。 それはこっちが言うべき台詞だよ、と、医師は苦笑を浮かべたような口調で言った。
涼しい風が吹き抜ける。 まだ少し肌寒いかもしれない気温ではあったが、薬の副作用で体温がやや上がり気味である 自分の身体にはちょうど良かった。 病院裏の、小高い丘。 以前一度だけある看護婦に連れてきてもらったのだが。 あまりにも居心地の良いこの場所に毎日足を運ぶようになったのは、自分の意思だ。 景色が見えないのは少し残念でもあったけど。 吹き抜ける風がそんなことさえ忘れさせてくれるくらいに気持ち良くて。 見えないことなんて、どうでも良いとさえ思わせる。
丘の遠く向こうには海があるのかもしれない。時折風に混じって、潮の匂いがした。 静かな日には、耳を澄ませると葉のぶつかる音がする。緑の多い場所なのかもしれないと思った。 自分が今まで居た病棟とまるで相反するような、自然地帯がそこにある。 そのギャップが少し可笑しく、そして嬉しかった。
毎日時間を見つけては、ここに来るようにしていた。 別に目的があるワケではない。ただこの場所が好きなのだ。 最初のうちは看護婦達から気をつけろ、とか、行ってはいけない、とか言われてもいたけれど。 それでも毎日毎日抜け出す自分に、看護婦達も諦めたのだろう。 今では通りすがる看護婦に、差し入れを貰ったり、今日の天気がどうだとか そんな話を聞いたりもする。 医師もやがて、そんな自分を咎めなくなった。 気分転換になれば良い、と言って。
毎日訪れたせいもあって、今では誰の手も借りずにここまで歩いてくる事が出来る。 自然と足が覚えてしまっていたのだ。 見えないことは、決して不幸ではない。と昔誰かが言っていた言葉を思い出す。 まさにその通りだ。 見えなくたって肌で充分自然を感じられる。耳で空気の音が聞こえる。 医師はそんな自分の性格を、お気楽だ、と少し笑っていたっけ。 別に否定はしないけれど。
それでもたまに思う。 この景色を、世界を、自分の目で見ることが出来たなら それはどんなに美しい景色だろう。 どんなに嬉しいことだろう。
どんなに素晴らしいことだろう―――
「お、いたいた」
ふいに、人の声が聞こえた。 あまりにもその自然に浸かり過ぎていたせいで人がやってきた事に気がつかなかった。 その為、突然の来客に少し驚く。 別にこの場所は私有地ではないし、他にどんな人が来たっておかしいことではないのだけれど。
「記憶喪失少年?」
声のトーンからして男であるということが伺える。 静かな口調。何にも抑制されていない、澄みきった声だった。
「…まぁ確かにその通りですけど…病院の関係者ですか?」
相手の話からすると、おそらく相手は自分を知っているのだろう。 だが自分は相手を知らない。ある程度面識のある、声を聞いたことがある人だったら 分かるだろうが、自分が思う限り、初めて聞く声だった。 まぁそれもここ最近の記憶しかないけれど。 記憶喪失少年。病院内ではそう呼ばれているのか、と思ったら少し可笑しくなった。 確かに自分には記憶もないし、名前もない。いや、どっちもあったのだろうが。 少なくとも今の自分には、ない。
「俺の名前は狭霧。アンタの目を治しに派遣されてきた医者だ」
やがて世界が、「色」を取り戻す。
―そうだな。十七夜が良い。 お前、十七日目の夜に意識取り戻したんだろう?確かにそのままかよ、って感じはするけどな。 でも良いだろ?新しく生まれたお前の名前。 お前だけの、お前にしかない名前だ。十七夜。
END
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