「おーい、終わったぞ」 「…何…したんだよ…」 「……。…お前、もう一回鏡見て来いよ」 バカにしてんのか、それともこれが今時のイジメの方法なのか。 俺は妙に違和感のする目を怖くて触れないまま洗面所に駆け込んだ。 ちょっとだけだけど痛かった…もしかして目が腫れ上がっているかもしれない。 俺は恐る恐るで鏡の中の自分を覗き込んだ。 「どーよ、俺もなかなかの腕前だろ?将来そっちの道に進むかなあ」 後ろでカラカラと笑った白井の言葉も聞こえないほど 俺は鏡の前で呆然と立ち尽くしていた。 鏡の中には見た事もないような人間が映っていて、奇妙な事に俺と同じ動きをしている。 これが俗に言うパラレルワールドってヤツなんだろうか。 「…あのさ、…なんとか言えば?」 「誰だよ、これ…」 俺の言葉に白井が鏡ごしにまた爆笑する。 「誰ってお前だろ、館林」 「………こんなの俺じゃない」 俺がそう言ったのに、白井がまた少し怒ったような顔になった。 「それもお前だよ。さっきも今も、それはお前だ」 言われてる意味がよくわからなかった。 鏡の中にいるのは一重でやぼったい前髪をした俺じゃなくて、それこそ白井が持ってた あの雑誌に出てくるようなどこかの知らない人間。 その人間はまるで俺がそうするように少し驚いた顔で瞬きをしている。 「今日は疲れただろ。コンタクト外してもう寝ろよ。あ、その前に電話かけとけよ」 「……いいよ、そんなの」 「でも親が心配すんじゃね?」 「…誓ってもいい、心配なんかするもんか」 俺の事にはまるで感心のない両親が目に入れているのは我が家のお姫様だけだ。 妹は…心配するかもしれないけど…。 「そっか、じゃあ寝れば。ベッド使って言いいから」 「床でいいよ…」 「ダメ。まあ、今日一日振り回した詫びだと思えって」 悪びれなく笑った白井に、俺はもう頷く事しか出来なかった。 どうにかしてコンタクトを外して渡された大きいスウェットに足を通すと 静けさだけが部屋の中に浸透していく。 「白井、ここで一人暮しなのか?」 俺が言うと何故か白井は少し嬉しそうな顔になった。 「そ。俺んちホストクラブ稼業だから家にいるより事務所の近くのが便利いいしな」 ベッドに凭れながら煙草を吹かした白井は事もねがにそう言ってのけた。 ホストって…あの、ホストだよな…? まあ、確かに白井のルックスならそう言う事も出来そうだけど いくら家がそうだからって普通学生の息子にやらせる事か? 俺の疑問がわかったかのように白井が笑う。 「さっき行った眼科とかヘアサロンはウチが常連だからな、手っ取り早くビルに一挙移動してるんだ。中にはブランドの店とか食べるとこもあるぜ」 「……そうなんだ…」 学生としても申し分ない上にホストとは言えそっちの仕事もこなしてる、まるで人間の出来が違う。 ここまで違いを見せつけられると不公平だと思う気にもなれない。 住む世界が違うって言うのはこう言う時に使うんだろうな。 「服もちょっと調達して来たから、明日は出かけようぜ」 「…なんで……」 「ん?」 「なんで、…俺なんかに構うんだよ…」 ずっと引っかかっていた事をようやく口に出来た。 ボランティア精神で俺の外見を変えてくれたって、それに何の意味があるんだ。 「…まあ、それは明日な…とにかく寝ろよ。あ、そうだ。これ知ってるか?アロマキャンドル」 またしても紙袋から取り出したモノは小さな黄色のロウソクだった。 「レモンって虫除けと安眠効果があるんだってさ」 それもホストの知識だろうか。 灯されたロウソクは電気を消した部屋にゆらゆらと揺らめいて、あっという間に俺を眠りへと誘った。 翌日目が覚めるとすでに白井は起きていて、手際よく朝食を作っているところだった。 俺が起きたのを確認するとチーズオムレツだと笑って言う。 あり得ない朝の風景に違和感と…何か得体の知れないものを感じつつ 俺は洗面所に向かって適当に顔を洗うと、鏡に顔を近づけてそれを見た。 きっと誰も俺だなんてわからないに違いない、昨日の俺。 そこにはいつも通りの俺がいて、ちょっとホッとした。 洗面所を出ると折り畳みのテーブルの前に促されて、湯気の立つ朝食が並べられる。 こんな朝は何年ぶりだろう…思い出せるほど近くはない。 「白井、何でも出来るんだな…」 口にしたオムレツが美味しくて、ふとそんな言葉が零れる。 するとこんな言葉は馴れたものだろう白井は意外にも少し照れくさそうに頭を掻いた。 「美味いモノ食うに越した事ねえじゃん?親なんかロクに顔も合わさねえから 自分で作るのに馴れただけだって」 「…それでも、スゴイよ…」 妹のピアノの発表会、あの日は帰りに夕飯を食べて来るからと 俺は一人家でカップラーメンをすすった。 学校でも家でも、こうやって誰かと食事した記憶がないに等しい。 他愛もない言葉を交わして食べる食事が美味しいと思ったのも…久しぶりだ。 箸を持つ手を止めて俯いた俺に白井の手も止まる。 「どした…?」 「……なんでもない、…ちょっと…あんまりこう言うのが久しぶりで…」 どんなに奥歯を食いしばっても目頭が熱くなるのを止められない。 白井はそれ以上何を言うでもなく、ただ自分も食事をしないで俺を見ていた。 泣く時も怒る時も、誰かがいた事なんてない。 誰かがいるだけ面倒で煩わしいとすら思った時があった。 でもこうして傍にいる存在があるだけで、涙を堪える事が出来る。 それだけで、励まされるように。 「…ごめん、…ホントに美味いよ。店出せそう」 「…サンキュ」 そう言った白井はとても嬉しそうに笑って、…それがなんだか俺も嬉しかった。 「今日どこ行く?思いっきり遊ぼうぜ」 「でも…」 「でもはナシ。乗りかかった船だろ、最後まで付き合えよ」 なんか引用が間違ってる気もしたけど、俺はただそれに頷いた。 朝食を済ませてから、また俺は白井にあれこれと弄られてまるで着せ替え人形だった。 けど一枚一枚服を合わせながらああでもないこうでもないと、自分の事みたいに 真剣な白井に、どんな服も同じだったそれが違って見えてくる。 自分に何が似合うのかなんてよくはわからなかったけど、組み合わせによって顔を変える 服を見ていて俺も面白かった。 …面白いと、素直に思えた。 「手始めは映画な、もらったチケットあんだよ。んでメシ食って、そんでカラオケ、ゲーセン!」 子供が夏休みの計画を立てるみたいに楽しそうに言った白井に、胸が騒いだ。 並べられた場所はどれも行った事がない。 無縁だと思っていた遠い場所を強引に引き寄せられるのが、まるで遊園地だ。 どこを見ても楽しいアトラクション、期待と歓喜が溢れる場所。 映画は豪快なアクションモノで、何かと言うたびに小さく声を上げる白井に笑った。 色んな人が出入りするファーストフード店では隣に並ぶ白井に女の子が振り返る。 「…そう言えば、白井って彼女とかいないの?」 初めてテイクアウト以外のそれを食べた俺が言うと、白井は奇妙に苦笑いになった。 考えてみたら、告白されたなんて話は廊下を歩いてたって耳にしたもんだけど 特定の誰かと付き合ったなんて話は聞いた事がないかもしれない。 「あー…ホラ、俺仕事柄そう言うの許せるような女じゃないと、ね…」 何故か言葉を濁した白井に、俺もそれ以上の追及を止めた。 もしかしたらお客さんの中にそう言う相手がいるのかもしれないし。 いずれにしても俺がそこまで聞いていい立場じゃない。 そうだ、単なる気紛れの…それだけの事なんだから。 嬉しいなんて思うだけ損なのかもしれない、期待するだけ裏切られるかもしれない。 その後ゲーセンであれこれと手を付けた後、外はすでに暗かった。 こんなに一日が短いとは思ってもいなかったな…。 人の少なくなった歩道を歩きながら、俺は少し遅れていた足を止めた。 「俺…俺、帰るよ。色々、くれて…ありがとう……カバンは明日取りに行くから…」 「あ、…オイ!!」 白井から背を向けて思い切り走った。 どうせ勝てっこないって、小学生の時徒競走で全力で走るのを止めて以来… 息が喉に詰まって苦しくても俺は走るのを止めなかった。 なんで、こんなに楽しくなっちゃったんだろう。 なんで、こんな自分が好きだなんて思ったりしたんだろう。 思えばそれだけ明日が辛くなるのに、それだけ惨めな思いをするだけなのに。 サイアクだ、俺。 いつのまにかどこかの公園まで走って来た俺は、肩で息をしながらようやく止まった。 タスケテ。 ―――――…誰か、助けてよ。 こんなどうしようもない俺に、絶望以外を夢見させないで。 「館林ッ!」 「……白井…」 「はあ…ふ~~~…、お前結構足速ぇのな…」 パタパタと顔を手で仰ぎながら追いかけて来た白井が言った。 「頼むから…もう、ほっといてくれよ…ッ…これ以上惨めにさせるな…!」 握り締めた手に爪が食い込んだ。 いつも誰かといてもそれを遠くで見つめてるような自分が嫌だ。 見上げなきゃ同じ視線にすらならないコイツが嫌だ。 「あのさ、この場合惨めなのは逃げられた俺だろ?」 「………何、言って…」 白井はボリボリと頭を掻くと、俺に一歩近づく。 そして、俺と同じ視線になるくらいまで屈み込んだ。 「こうやってさ、…こうやって…お前と話したかった。お前、いっつも下向いてるから」 「…悪かったな」 「悪かねえよ、全然。そう言うのもお前だしさ、俺も俺で… こうやってバカな事でもやらねえと何も出来ないタチだし」 背伸びをした白井が息をつきながら俺を見る。 こうやって、誰かに自分の話を聞くのは初めてだ。 嬉しいのか、それともまた悔しいのか、よくわからない。 「……そんな事、言うなよ…」 これ以上落ちるのは流石に嫌だ。 気体も喜びもしなければ、一定に日は過ぎていくんだ。 それを、ただの気紛れでメチャクチャにしないでくれ。 「なあ、期待しろよ。もっと前に出て色んな自分見て、手に入れたり失ったりでいいじゃん。人生なんてそんなもんだろ皆。転ぶのが嫌だったら助けを求めろよ、誰かが助けてくれるって横柄になっていいんだ」 「…俺は、お前みたいにはなれない」 俺が呟くと、白井は少し苦笑いになった。 「お前、俺なんかになったら大変だぜ。好きな奴にはなかなか話しかけらんなくて 挙句の果てには拉致するような奴なんだし」 白井の言葉に俺は顔を上げて目を丸くした。 それにまた照れくさそうに白井が頭を掻く。 それがクセなんだと、なんとなくわかった。 「お前が好きなんだ、俺」 「…俺、男だけど…」 「……やっぱそう来ると思った。お前も結構わかりやすいよな」 そう言って笑う白井は、俺の近くにいる。 遠くなんかじゃない、上でも下でもない、俺の傍にいるんだ。 きっと皆近くにいたのに…どうして遠いなんて思ったりしたんだろう。 手を伸ばせば、すぐ触れられる距離にいるじゃないか。 「…俺、バカだよ?」 「俺もバカだ、負けてねえ」 言い切った白井に俺は思わず吹き出した。 いつか俺も笑ってこんな事が言えるようになるだろうか。 コイツが転んだ時、今度は俺が助けてやれるようになれるだろうか。 「明日の事なんて誰にもわかりゃしねえよ。んだからさ、皆毎日生きてんじゃん?」 笑う白井の腕を掴んだ。 今はそれが震えていても、惨めだとも悔しいとも感じない。 「ありがとう」 どう言っていいかわからずそう口にした俺に、白井がまた頭を掻いた。 いつか、俺もそうなれたらいい。 その思いが、この存在が、明日を生きる糧になる。
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