どれだけの温度が身体を満足させるのかすら忘れてしまった。 寒いとか暖かいとかそんな物さえ感じなくなった肌は薄汚れてしまっている。 だから身体を拭って下さいなんて仮に言ったとしても叶うはずもない。 罪なら犯していない。 人を殺した訳でも盗みを働いた訳でもない。 そう考えるとここにいる訳さえ分からないと言うのに。
彼だけが毎日やってくる。 さすがにもう死んでもおかしくない身体の拘束は外されていて、 牢の中で寝転がるだけの生活。 この暗さにも目が慣れてしまった。 むしろ太陽の光になんか当たったら眩しくて目が潰れてしまうかもしれないとまで考える。
彼がやってくるのは決まった時間で、ああそろそろ来るなと目を開くと階段を下りる足音が聞こえた。 「・・・・今日も時間通りだな。」 鉄格子の向こうに立つ兵士は手に食事の乗ったトレイを持っている。 食事と言ってもパンと水のみの物だったが最近はそれにスープが付いた。 そのおかげだろうか、身体は少し回復したかの様に感じていた。 「・・・待っていただろう。それとももう少し早く来ようか?」 「どちらでも同じだ。・・まぁ・・あんたが早く来れば面白いな。・・なんてったってここでの生活は単調だから。」 俺の言葉に彼が笑う。 「そんな小さい事で?」 「そりゃそうさ。」 やっと身を起こすと、彼は牢屋の鍵を開けずいつもの様に小さな小窓部分だけを空けて、食事のトレイを中に通した。 「・・約束だ。昨日の話の続きを聞かせてくれ。」 彼が鉄格子を背にしてそれに凭れ座り込む。 「・・ああ。どこまで話したかな。・・覚えてるか?ロダン?」 彼の名はロダンと言う。 この牢に閉じこめられさてどんな拷問を受けるのかと思ったら何もなかった。 そりゃ有る訳がない。 ただ腰に剣を下げこの国の領土に足を踏み入れてしまっただけなのだから。 「・・確かお前がやっと騎士になれたところからだ。」 ロダンはそう言うと右肩を触る。 それが彼の癖だった。 彼の右腕は完全に欠如していて、それは戦争で失った物だと聞いた。 背が高く、黒い髪を乱雑に後ろで束ねているロダン。 兵士として活躍していた頃はさぞ優秀だったのだろう。
腕を失ったロダンはこういう役割に付いている。 剣を振る以外の事ならなんでも出来ると言った彼は寂しそうに笑った。 毎日彼しか逢わないのだから自然と話しかける様になり、こうして自分の話もする。 ロダンは俺の国に興味を持っていた。 俺が騎士として所属する国、サネリアは巨大な騎士団を持っている。 それは相当有名らしく、ロダンは毎日その話をせびるようになっていったので俺も得意げに話した。
「騎士団は5つもあるのか。・・それは凄い。」 ロダンはいつも背を向けて話を聞くのでその表情は分からなかったが、声色からして彼の興奮が伝わる。 「ああ。ヴェンダはどうなんだ?」 「・・・それはお前も知っての通りだ。・・この国の者は強制的に兵士にかり出され剣を覚えれば直ぐに戦争に行く。」 ロダンの声が小さくなっていく。 ヴェンダ国は俺の国、サネリアの隣の国だった。 戦争を繰り返す攻撃的な民族。 だがこうしてロダンと話してと全ての者がそうとは限らないと知った。 「・・済まなかったな。食事が冷える。早く食べた方がいい。」 「もう戻るのか?」 ロダンは暫く考えている風だったが、もう少しいようと頷いた。 まだ冷えていないスープに口を付け後は流す様に口に入れていく。 「・・・なぁ、ロダン。・・お前結婚は?」 いきなりの質問にロダンも驚いたのか、ぴくりと肩が揺れるのが見えた。 「いや。私はまだだ。・・・イシスはどうなんだ?」 名を呼ばれ笑みを浮かべてからわざとらしく溜息を付いた。 「俺もまだだ。・・・一生ここにいてもう恋すら出来ないかもしれないな。・・俺はこのまま死ぬのか?」 ロダンは何も答えない。 トレイにスプーンを置いて彼の元へと這った。 「・・・ロダン。・・答えられないか・・」 彼は背を向けたままぴくりとも動かなかった。 腰まである長い髪が床に付いた俺の指先に触れる。 「・・・な、ロダン。・・初めて触ったぜ?」 何かに触れた。 久しぶりに人に触れた。 それは髪の毛の2.3本だと言うのにそこから暖かさを感じるだなんておかしな事だ。
「・・・どうした?・・」 突然振り返ったロダンに目を見開く。 彼の深い緑色の瞳に吸われそうになって思わず視線を反らした。 「私は?」 ロダンの言う事が理解できずに視線を戻す。 「何?・・何だ?」 ロダンは一つの腕で鉄格子を掴みぐっと前に身を乗り出してきた。 「・・・ヴェンダは剣を持っている者ならば誰でも牢に入れる。・・そして殺す。・・今ももう牢は全て埋まりそうだ。」 彼の吐く言葉一つ一つに頷いた。 「・・・・お前は近いうち殺される。・・なんの罪もない。そして理由がないから殺されるんだ。」 もう、分かっていた事だ。 いつかはその理不尽な理由で殺される。 「ああ。・・いいんだ。分かってる。・・俺も相当ドジだからな。・・どうしてヴェンダ側の領土に入ってしまったのか分からないんだ。」 頭を掻きながら困った様に笑ってみたが、ロダンは笑わなかった。 そればかりか真剣な表情を崩さずに真っ直ぐな視線が突き刺さる。
ロダンの手は暖かい。 鉄格子を握る彼の手の上から握ってしまったのはそれに触れたいからなのか、 それともたまたま手を掛けた場所がそこだったのか。 よく分からないからおかしくて笑ってしまった。 鉄格子の向こうで目を閉じるロダン。 その顔がこちらに寄ってきて頬が格子に当たる。 まるで何かに押されるように前へ前へと乗りだし、顔を傾げ彼の唇に唇を合わせた。 身体が震え奥歯ががちがちと音を立てる。 ロダンはゆっくりと唇を上下させ食す様な口付けをするから、身体はもっともっと緊張してしまい芯まで痺れてきた。 彼の舌が遠慮がちに口内へと割り込んできた時も抵抗なんかしない。 口付けが深くならないから、鉄格子を恨んだ。
彼の手をきつく握るとゆっくり唇が離れていく。 ロダンは俺を見ずに立ち上がってしまったからその姿を見上げた。 「・・・イシス。来るんだ。」 気が付くと今まで閉ざされていた牢の扉が開いている。 それは幻かと思わず目を擦った。 「イシス。早くするんだ。」 差し伸べられたロダンの手を掴むと直ぐに走り出した。 「・・・お・・おい!・・何処にっ・・」 「逃げるんだ。・・・・」 ロダンは後ろを振り返らずにひたすら階段を昇っていく。 牢獄の塔の階段は長く、入ってきた時の事すら忘れてしまっていた。 「逃げるって・・お前・・無理だっ・・・」 「静かに・・」 俺とロダンだけの足音が塔に響き、冷たい風を頬に感じた。 あれ程夢見た外に出る。 出る瞬間強い風に吹かれ目を閉じた。
外は夜の闇に閉ざされ物音一つしない。 目の前にヴェンダの象徴、大きな城が見えた。 ロダンは俺の手を引いたままそっと歩き、そして高い塀の下まで連れて行かれた。 「私の肩に乗れ。・・ここから出れば外に馬が繋いである。」 「・・・・・え・・」 大きく目を見開き彼を見上げる。 ロダンは一度高い塀へと目を移したが直ぐに俺に向けて頷いた。 「早くしろ。・・・これで掴まれば今すぐ殺されるぞ。」 返事をする間もなく俺の身体が宙に浮いた。 「・・肩に手を掛けて・・そうだ。それで足を」 片手で俺を抱き上げるロダンは顔を顰めて言葉を吐く。 「・・待てよ・・ロダン・・お前は・・・」 ロダンの肩に両手を置いてそこに体重を掛けた。 「私は大丈夫だ。」 「何が・・何が大丈夫なんだ?」 首を振るロダンの肩を思い切り振った。 「何が大丈夫なんだ!?・・お前が俺を逃がした事など直ぐにばれる!」 「早くしろ!」 ロダンの一喝にぐっと目を閉じてしまう。 大丈夫、なんて気休めに過ぎない。 牢に閉じこめられていた俺を世話していたのはロダンで、それがばれれば命はないはずだ。 「駄目だ!・・ロダン・・俺は行けない・・」 目を閉じたまま首を振る俺を壁に叩きつける。 衝撃など感じない。 「行くんだ・・・・」 「行けない。・・行けるわけがない・・」 今まで世話をしてくれたロダン。 彼がいたからあの狭い牢の中で生きていけた。 彼が喜ぶからたくさん話をして、彼が来るのが楽しみで、それだけが生き甲斐。 「・・・ロダン・・俺はあんたが好きだ・・だから行けない。」 口から言葉が零れる。 ロダンは暫く黙っていたが息を付いて俺を見上げた。 「それは幻だ。・・お前はこの半年私しか見ていない。国に戻ればまた変わる」 「変わらない。」 彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに否定したが、ロダンは首を振ってしまう。 「・・変わる。」 「変わらない。」 暫くそれを繰り返していると泣いてしまいそうになる。 ロダンが好き、嘘なんかない。 男を好きになるだなんて酔狂な話だが、明日から彼がいないだなんて耐えられない。 そして、今目の前のロダンと一生逢えないかもしれない。 「・・・・イシス。」 ロダンの笑い顔はとても綺麗だ。 「私はお前が騎士として剣を振るっている姿が見たいんだ。」 彼の首に両腕を回すと身体がずるずると落ちていく。 額に口付けて、鼻先に唇を当て、やっと深い口付けを交わした。 身体が解ける前に離れてしまう唇は薄く開く。 「・・・私は必ずお前を追う。・・だからサネリアで待っていてくれ。」 その言葉に笑って頷いたつもりなのに、目からは涙が零れてしまった。
ロダンの言うとおり塀を越えると一頭の馬が木に結ばれている。 塀の向こうからロダンの足音が聞こえた。 彼はもうそこにいない。 ロダンはどうするつもりなんだろう。 日が昇る前に死んでしまうかもしれない。
大きく目を見開いた。 もう彼と会えないのなら死んだ方がましだ。 「っ!・・」 塀を越えなければ。 彼の元に戻らなければ、と塀のヒビに爪を掛ける。 「くっ・・・・」 もう少し、早く。 いきなりに鳴いた馬にはっと振り返った。
黒い馬。 足先から鬣まで身体の全てが黒い。 「・・・・・ロダンの馬か・・?」 馬は鼻息を荒くして前足で地面を掻いている。 「・・・ロダンの馬だな・・」 塀から離れその馬の鼻先を撫でた。 後ろに回り結ばれていた木から手綱を取る。 「・・・・そうか・・・」 夜の闇は深く、時折梟の鳴く声が聞こえた。 馬に跨ると合図をしなくても走り出す。
黒い馬は手入れが行き届いていた。 鬣も柔らかでその脚の強さと来たら今まで乗ったどの馬よりも強い。
ロダンは死なない。 ヴェンダの領土に入ってしまったのも運命だ。 「・・・一緒に待ってような・・・」 笑みを浮かべ馬の鬣を撫でた。 そうだ、ロダンは生きていてもう一度会える。 だって馬を渡したんだ。 兵士に取って一番大事な馬を。
月明かりの下、サネリア領土を目指し真っ直ぐに駆けていく。 突然馬が空に向け大きな鳴き声を発した。 俺だけには分かる。 先に行ってますね。ってそんな言葉に違いないんだから。
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