陰間茶屋の立ち並ぶ芳町の片隅に、下級の娼館があり、暗いふとん部屋に薄い身体が横たわっていた。
押し込められた小部屋で、病気の陰間が咳をするのを、同輩がゆっくりと背中をさすってやる。 「さくら。ほら、しっかりおし」 「あ……い。菖蒲兄さま。だいじょぶ……さくらは、まだ……三途の川を渡ってはおりません」 「うん。今日は、気分が良さそうだな。顔色もいい」
同じ店で働く菖蒲(あやめ)を、兄と呼び慕うさくらは、もうすぐ数えで14になる。 盛りの短い花は、せっせと客を取り春をひさいで、ぽろりと朽ちかけていた。 菖蒲は、細くなるばかりの手首を認めて、ふと涙ぐんだ。
「お店(たな)のお母さんも酷いことをする。かわいそうに……。紅毛人の相手を、お前ばかりに押し付けて。いっそ、花形花魁、高尾大夫のように自分で客を選べたなら、良かったのにね」 「わたしには何の芸事もできないのですもの、仕方ありません。南蛮人もいずれ誰かが、お相手しなければならないのなら、同じことです。それに、リオンさまは、とてもお優しい方です。働かなくても済むようにと……たんと、お金をくださいました。おかげで、こうして休んでいられます」 「そうか。お前を異国の言葉でセレソと呼ぶ、あの若い異人はリオンというのか?」 「あい。この国では獅子のことだそうです。大層、勇ましいお名前です。さくらは、お優しいあの方がとても好きです。何もして差し上げられないけど……」
こん……と、咳き込むさくらには、まだ借金がたくさんあった。
関ヶ原以前から続く武家だったさくらの家は、急に変わった政情に戸惑うばかりで付いてゆけず、奉公一筋の勤勉実直な父は仕方なく密かに先祖伝来の家財を一つずつ売り払った。 有名な茶人に貰った家宝の茶器も買い叩かれて、最後に150両で売り払うと、さくらの家には何もなくなった。進退窮まった父は、病気がちの三男、幼い朔良(さくら)に頭を下げて、江戸に養子に出すという名目で女衒に引き渡した。 さくらは、廓の門をくぐる前に、自分が家には必要のない人間だと知っていた。 一緒に旅をする間に、女衒がさんざん吹き込んでいたからだ。
「今や、将軍様も居なくなって、お天子さまの御世だ。武家の矜持なぞ、さっさとどぶにでも捨てちまうことだな。旦那様は、大枚はたいてお前を買ったんだ。せいぜい見目良いうちに稼ぐこったな」 「稼ぐ?わたしが、これからお世話になるお店では、どんな御奉公をするのでしょうか」 「聞かされてないのか。旦那も言えなかったんだろうなぁ。女郎のぼぼ(秘所)が咥えるように、おまえも花街に行ったら、おいどで男を咥えこんで達かせるようになるんだよ」 「おいど……?」
言っていることの半分も判らなかったが、見当を付けたら手足が震えた。 家は長兄が家督を継ぎ、まさかの際には次兄がいる。それが武家の習いだった。 ご維新以来、落ちぶれかけた朔良の家は、少ない使用人に暇をやったりしたが焼け石に水で、しがみついた武家の体面を保つにはどうしても金子が必要だった。 武士は食わねど高楊枝といいながらも、新しく、城ではなく県庁に出仕するのにくたびれた格好で出かけるわけにもいかず、さりとて余分な金はなく、貧乏士族の父は頭を抱えていた。
明治と時代は変わっても、まだ古臭い武家社会はそこかしこに染み付いている。 その頃、朔良の故郷では、東京から器量の良い娘を買いに来る女衒の数が増えた。東京では、女子と同じように男も春を売るらしい。武家の男色も知らない田舎者たちが、野良でそんな噂話をしていた。 白くなるほど握り拳を固めた父が、朔良に胸の内を明かし引導をわたした。
「因果を含めてはくれまいか。このままでは代々続いた由緒ある我家が、父の代で絶えるようなことにもなりかねん。奉公に出てくれれば前金が貰えるのだ。それで、当面は助かる」 「わかりました、父上。ご奉公に参ります。ご家名に傷の付かぬよう、これからは縁の無い者として朔良を勘当なさってください。心置きなく一切、お見捨てくださいますように」 「済まぬ。朔良。父は家名を取って、お前を捨てる」 「あい。これまで、お育ていただいてありがとうございました。父上のお役にたてるなら、朔良は本望、果報者でございます」
朔良はこうして、新しい時代に馴染めない古臭い家長と武家の名残の、犠牲になった。 色ごとのいろはも知らない朔良が、「さくら」と名を変え、廓の弁柄格子の向こうで紅を付け白粉をはたくまでには、どれほどの涙をこぼしたか菖蒲には十分わかっていた。 名ばかりの士族とは言いながら、まだ幼い朔良は念兄も持たず男色の作法も知らずにここへ来た。 破瓜される水揚げの前日、怖気て震えるさくらの後蕾に、そっと丁子油を垂らして解してやったのは菖蒲だった。
「さあ、兄さんが、少しでも痛くないようにしてあげるからね。そうっと、油を送り込んでおけば酷くされても傷ついたりはしないからね。お客様の動く通りに、そうっと動くんだよ」 「あい……」 健気に涙を見せまいと、歯を食いしばるさくらの玉筒に細い紐を掛け、怖くないと教え、甘く溶けるまできつい後蕾を舐めてやった。 そして、いつか年季が明けたら、兄さんと一緒に小間物屋のお店を持とう、それまで泣かずに頑張るんだよと絵草子のような戯言をささやき、叶わぬ指切りげんまんをした。 そんな口約束がさくらを支えた。 「あぁっ、兄さまぁ……」 涙を零し、さくらは達った。
*****
あれから、どれほどの月日が流れただろう。 諦めることを覚えたさくらは、どんな男にも抱かれた。そしていつしか、脚気と肺病を患った。下級娼館では無理もなかった。 「さくらや。リオンさまがお見えだよ」 忘八が満面の笑顔を浮かべ、そっとふとん部屋の板戸を叩く。金にならないさくらに、この異人は忘れがたい人の面影を見つけ、湯水のように金を使ってくれた。 「あい。……今頃のお時間に?リオンさまは、一体、どうされたのでしょう」 急いでこしらえをしたさくらの顔を見るなり、紅毛人は嬉しげに声をあげた。傍に控えた通詞が言葉を伝えた。 「政府にお願いしてあった、さくらさんの国外移住が認められました。わたしの国に行けば、あなたの病はきっと良くなります。どうか一緒に、一刻も早く渡航してください」 「リオンさま。そのような申し出は、受けかねます。今でも十分、良くしていただいているのに。申し訳ないです……どんなに嬉しい申し出でも、必ずご迷惑とわかっているのに、ご一緒なぞできません。どうぞ、堪忍なすってください」 頑なに固辞するさくらに、リオンはほっと溜息をついた。 「リオンさまの国許の弟御は、貧しい幼少の頃に手当ての甲斐もなく同じ病で亡くなられたそうです。ですから、あなたを助けたいのだとおっしゃっています」 大切そうにロケットを開けて、セピア色のほとがらひぃ(写真)の弟の姿を見せるリオンにさくらは頭を下げた。 「このように穢れたわたくしが、弟さんと同じ病というだけで、お傍に参るわけにはいきません。お気持ちだけ有りがたくいただきとう存じます」
紅毛人のリオンは、硝子玉のような瞳に薄く涙を浮かべると、さくらの細い腕を取った。 「Un cerezo.イッショニイコウ。アキラメルノハイツデモデキル。ワタシノ……Hasta el minuto del hermano más joven, pensarás encontrar felicidad? ワタシハオマエガスキダヨ」 聞き取りにくい異国の言葉の混じったささやきを、通詞が説いて繰り返した。 「さくら。一緒に行こう。諦めるのはいつでもできる。わたしの弟の代わりに生きてくれないか?弟の分まで、幸せになろうと考えてくれないか?わたしはお前が好きだよ」 リオンの言葉を聞き、見上げるさくらの頬は上気して、涙が溢れんばかりになっていた。 親に棄てられて、諦め続けた日々の中で初めて優しくしてくれた異国の客を、いつしか足音だけでわかるほど毎日待っていた。 とん……と、リオンの胸にさくらの頭がもたれ、上等の絹のシャツをしとどに濡らした。
「ずっと心から、お慕いしております。リオンさま。さくらをお連れ下さいませ」 「セレソ。ありがとう。きっと、大切にする」 「お言葉が……?」 「あなたをお迎えするために、ずっとリオンさまはお勉強されていたのです。通詞のわたしが居なくても、ほとんど会話はできるでしょう」
「運命」というものは、もしかすると本当にあるのかもしれない。 遠く離れた異国の地の商人が、東洋の小さな国の娼館で、今はない弟とよく似た面差しでじっとこちらを見ていた少年に惹かれたのも、天が決めたことだったのかもしれない。 伸ばした腕に、おずおずと指先で触れた少年の白い腕にリオンは頬を寄せた。失った者は決して帰らないが、こうして新しく出会える命もある。 「セレソ……もう、離さない」 「リオンさま」
さくらの薄紅色の肌が、歓喜に染まりやがて蕩けた。 リオン(獅子)の背に、花弁が舞った。
|