――届かない、と思っていた。
隣で眠る恋人に、鹿原 恒(かはら わたる)は腕を伸ばした。体の触合う距離で横たわる恋人には、いとも簡単に手が届く。 鳶色の瞳は、まだ閉じられている。この瞳が開き、細められて自分に笑いかけられる度に、未だにどきまぎする。
鹿原にとって、この柳川 圭史(やながわ けいじ)は、ずっと気にしながら言葉を交わせない相手だった。 同じコートでバスケットボールを追いかけたのは、高校時代に1度のみ。しかし、それ以来、鹿原にとって柳川は特別な存在だった――あの頃、誰にも取ってもらえなかったパスを取ってくれた、唯一の選手だった。
現役引退を機に会いに行った柳川は、最初は苛立しか見せなかった。だが、途中から、やすやすと友人を飛び越えてきた。最後は、互いに求め合って恋人になった。 全部夢みたいだ。思わず、自分の頬を抓ってみる――大丈夫だ、ちゃんと痛い。だから、きっとこれは現実だ。
柳川の顔が目の前にあるのも、不思議な心境だ。 ガードの鹿原とフォワードの柳川の間には、20cmほどの身長差がある。普段なら、鹿原が柳川を見上げている。 だが、共に横たわれば、同じ目線で見つめ合える。柳川と体を重ねる様になって、気がついた。
まじまじと、恋人の顔を見る。 普段は、こんなにしっかりと顔を見る事は出来ない。柳川が向けてくれる優しい目、そして笑顔――意識をすると、心臓が早鐘を打ってしまうのだ。 そして、照れ隠しで、自分はつい表情が硬くなる。柳川には「お前は、もうちょっと笑ってくれてもいいと思う」と、ため息をつかれてしまう事もある。鹿原自身もどうにかしたいと思うけれど、なかなか上手く行かない。
だが、今なら別だ――鹿原の表情は、知らず柔らかくなっていた。
恋人の顔を、指先で辿る。 開くと二重の、大きな瞳。通った鼻筋。やや角張った、男らしい輪郭――柳川は、目を閉じていても格好いい。顔の一つ一つのパーツが大きく、全体として華やかだ。 そして、唇。右の人差し指で、そっと唇を撫でる。
途端に口が開いて、指を咥えられた。
「……!?」
思わず、手を引っ込めようとする。だが、素早く伸びて来た柳川の手が離してくれない。
「起きた、のか?」 「起きてた。恒がオレの事見てる、って気がついたから」
気がつけば、鳶色の瞳が悪戯に輝いて、こちらを見ていた。年と苦難を重ねて落ち着いたと思っていた柳川が、時折見せる屈託のない目だ。 人指し指が口から離された。だが、代わりに舌が指に這わされた。 赤い舌が、一本一本と指を濡らしていく。唾液が滴り、指の股まで伝う――明確な意志を持った動きに、段々と体がカッと熱くなる。 必死で、手を引っ込めようとする。渋々、柳川も指から顔を離した。
「お前、いつもは、あんなにオレの事見てくんねえだろ。だから、もったいないから目閉じてた」
――バレていた。見られていた。 顔に熱が集まるのが分かる。思わず、柳川の肩に顔を押し付けていた。
「何で、顔隠すんだよ」 「……狡い」 「ズルいのは恒だろ? 見せろよ――お前だけ、オレの顔見てんだから」 「嫌だ」 「じゃ、嫌でもオレの方を向かせてやる」
再び、右手首を取られた。今度は中指を、生暖かい感触が包んだ――しゃぶられている。啜る濡れた音が、耳まで届く。唇だけで扱かれて、キツく吸われて、顔から火が出る思いがする。 顔を柳川に押し付けたまま、左右に振る。その仕草が気に食わないのか、今度は指を甘噛みされた――少し痛い、でもこれぐらいで顔は上げない。 柳川も諦めたらしい、中指が口から解放された。
「で、何で嫌なんだ? オレの顔を見るのが嫌か?」 「違う!」
思わず顔を上げる。柳川と目線が合った。にやり、と笑う柳川の目は、してやったり、と語っている。 手首から手が離される。だが、今度は両手で頬を挟まれた。いつもは見上げていたはずの顔が、真っすぐに自分を見ていた。
「じゃあ、何で?」
柳川が顔を近づけて来る。 額と額が触れた。吐息も肌に届く。この距離では、逃げられない。
「嫌な理由を教えろ」
恋人になった時、柳川が求めて来た。 ――オレに教えてくれよ、お前の事。分かりたいけど、言ってくんなきゃ分からねえだろ。
鹿原は、元々他人から誤解を受けやすい。普段は言葉が足りないし、表情も出ない。 柳川に対してもそうだった――初めて会った高校の時も。1ヶ月ほど前に再会した時も。そして、つい先日、身辺整理を終えて柳川の元へ来た時も。
昔は、自分の態度で、柳川を怒らせてしまった。 でも、恋人となった今は違う。柳川は、鹿原の事を知りたがってくれる。
「言えないなら、隠すなよ? 真っ赤な顔も、恥ずかしがってる所も、全部見せろ」
柳川は狡い。自分が嫌と言えない様な事を言ってくる――そうだ、嫌なんじゃない。ただ、恥ずかしいだけだ。でも、やっぱり恥ずかしいのは恥ずかしい――詰る代わりに睨む。
「やっぱり、ズルいのは恒だって。その目がズルいだろ、苛めてるつもりじゃねえってのに。……しゃーねえ」
耳元に顔を寄せられる。自分の顔も、見せなくてよくなった。――けれど、息がかかるほど側にいるのは変わらない。優しい囁きが、吹き込まれる息が、堪え難いぐらいに頬を熱くする。
「真っ赤なのも可愛いけどさ、あんまし恥ずかしがらねえで欲しいんだけどな。本当は、どこでも名前で呼びたいのに」
恒、と、柳川が名を呼ぶ。低い声が耳をくすぐる。 普段は名前で呼び合わないのは、鹿原の希望だ。最初に名前を呼び合ったのは、セックスの最中。そのせいで、名を呼ばれる度、柳川の名を呼ぶ度に思い出す事が多くて、普段は無理だ、と言った。
「なあ、呼んでくれよ、オレの名前も。今ならいいだろ?」
慣れない。この現実に、まだついていけない。 だけど、恋人が自分を求めてくれる声は、甘くて切なくて。だから、鹿原からも名を呼んだ。
「圭史」
恋人の反応が知りたくて、首をひねって横顔を覗く。そのつもりだったが、柳川もこちらを見ていた。 互いの目線が絡む。そして、どちらともなく顔を近づけ、唇を重ねた。
片手で頭の後ろを、くしゃりと掴まれる。もう片手を腰に回されて、引き寄せられる。鹿原からも、背中に手を回して応えた。 柳川の体格は、鹿原よりも一回りは大きい。体を寄せれば、簡単にすっぽりと抱き込まれてしまう。 誰かの体温が、これほど安心させてくれるなんて。柳川に触れるまでは知らなかった。
――嗚呼、いつだってそうだ。高校の時も、そして今も。この男は、オレの世界を変えていく。
寝起きに加えて、求められる心地よさ。次第に、頭が霞む。快楽が、羞恥心を上書きする。 体はいつの間にか柳川の下になり、覆い被さられていた。ねじ込まれる舌に、舌で応える。角度を変えて、何度も唇を啄ばまれる。キスの合間に、柳川の顔が、その唇が離れるのが寂しくて。気がつけば、鹿原から強請っていた。 舌を出す。焦らす様に、触れる寸前で止まった柳川の唇を舐める。柳川が舌を覗かせた。触れる先が唇から舌へ、そして再び深い口づけへと移っていく。
互いの口を散々味わった後に、柳川が体を離した。自分を見下ろすその口元は、唾液で濡れていた。朝日を受けて艶やかに輝く唇は、自分たちの秘め事が白日に晒されているようだ。 恥ずかしい――頭の片隅ではそう思う。だが、目が離せない。その唇からも、目の前の男からも。
「そうそう。恥ずかしがってないで、そういう顔をオレに見せればいいだろ?」
キスの後や、セックスの時の、力が抜けてしまった時の顔。 柳川は、この自分の顔を見るのが好きだ、と言ってくれた。いや――今、髪を撫でてくる手つきが、自分を見てくれるその目つきが、言葉にされなくても伝えてくる。 だが、その手が下へと降りて来る。髪から頬へ、耳の後ろから首筋をくすぐる。触れるというより、体の熱を煽ろうとするその動き。そして、Tシャツの裾から手を入れられた所で、声をかけた。
「柳川」
あえて、名字で呼んだ――牽制だ。そうでないと、このまま、なし崩しに手を出されそうな気がした。
「……ダメか?」 「ダメだ」
自分だって、柳川も、柳川とそういう事をするのも嫌じゃない。触合うのは、心地いい。 今だってそうだ。互いが互いを求めて、体が反応し始めている。 だが、ものには限度がある。柳川の求めるペースには……正直、ついていけない。
「練習は?」
それに、これから鹿原は、まだ現役である柳川の練習に付き合う事になっているのだ。 無言で見つめ合う。鹿原は真っすぐ鋭く、柳川は強請るような熱を孕んだ視線で――そして、今回は柳川が折れた。
「あーもう! 分かった、ゆっくりしてやれる時間もねえしな。……オレは起きるけど、もうちょっと寝てるか?」 「寝る」 「じゃ、朝飯出来たら起こすから。本気で寝るなよ」
名残惜しげに、髪を梳かれる。そして、柳川が身を起こして、寝室から出て行った。 1人になったベッドの上で、枕に顔を埋める。そして、呻いた。
「圭史は狡い」 あの顔は、心臓に悪い。至近距離で見つめられれば、心臓が飛び出てしまいそうだ。
煽られた熱を持て余す。自分から拒んだとはいえ、落ち着くには少し時間が必要だった。 狡い、と、鹿原は再び不満を漏らす。だが、その声は柔らかかった。
|