歯軋りをする。またやられた。 せっかく昨夜から電柱の陰へ張り付いていたのに。いつの間にか転寝をしてしまい、目が覚めた時には目当てのものが無くなっていた。桜並木から白い花弁が降ってくる様を呆然と眺めてしまう。 次の燃えるゴミの日は木曜日だ。まだ一度も手に入れられていないのに今回もチャンスを逃してしまった。 欲しい。いけないことだとはわかっているのだが、羽島君が捨てたゴミをどうしても持ち帰りたい。その中身を、宝箱を開く子供のようにわくわくとしながら漁りたい。それなのに、絶対に犯人はあいつだ。 いつも俺の邪魔をしてくる学ラン姿の多分、高校生。まだ幼さを残すその顔は妙に小奇麗でこんなことをするようには見えない――ああ俺も同じ穴の狢か。 自分をストーカーだとは思いたくないのだが、第三者的立場より見てみたらきっとそうとしか考えられないだろう。けれど、止められない。 同性を好きになった事なんてこの三十九年間一度も無かったんだ。まずは彼がどういう人間なのかをリサーチしてからアタックをしたいと考えることはそんなにおかしくは無いだろう。その方法がこんなものになってしまうのも仕方が無い、と思いたい。 こうなったらとりあえずこのまま羽島君が家から出てくるその姿だけでも目にしよう……と思いつつも、腕時計で時刻を確認するとすでに九時。会社に遅刻してしまう。 諦めのため息をついたその時、背後からふっ、と笑うような息遣いが聞こえてきた。これはもしかして、あの糞餓鬼か。
「いい朝ですね」
振り向くとそこには綾部の姿。さほど高くない身長と細身な体つきは電柱の影に隠れる事を安易にさせている――正直今はそれが羨ましい。俺のこの、百七十七センチある身長を彼の頭に乗せてやりたい。
「お前が持っていったのか」
顔をしかめながら吐き捨てると、無表情のまま頷かれた。
「だって岡本さん、ゴミが出された瞬間寝ていたじゃあないですか」
糞。まさか同じ人物をストーキングする奴がいるなんて、予想もしていなかった。
「子供はそんなことをしていないで早く学校へ行けよ」
「岡本さんだって、出勤しないと」
その通りだと、腕時計の針が伝えてくる。 ああ、今朝は羽島君を見られないのか。あの糸目。常にやさしげに微笑んでいる唇……無念だが、致し方なし。
「じゃあ途中まで一緒に行こう」
提案をする。この場にこいつだけ残して去れるか。
「いいですよ。それにしても岡本さんはいつになったら羽島を諦めるんですか」
横に並ばれ、歩き出す。桜の花びらが視界を邪魔してきた。
「綾部こそさっさと羽島君を諦めろ。それと、彼は大学生なんだぞ? お前、年下なんだからちゃんと敬語を使えよ」
鼻から息を吐きながら言うと、首を傾げられた。
「人の勝手でしょう」
――糞生意気な奴。拳をお見舞いしてやりたくなるのだが、年齢差がそれを止めさせる。 駅まで歩いてゆくと、改札の前で綾部が立ち止まった。
「俺は定期を買わないといけないので、ここで失礼します」
「そう言いながら現場に戻るんじゃあないのか」
「まさか。遅刻するようなことはしませんよ」
肩を竦めながら言う彼を見て、心の中で、よく言うぜと悪態をついた。
****
通勤列車の中で思い出を脳裏へ蘇らせる。 羽島君と最初に出会ったのは去年の秋だ。 残業続きでふらつく足を必死に動かしながら帰宅路を歩いていたのだが、どうしても体が思うようにいかなくなり、公園のベンチへ倒れこんでしまった。 意識を取り戻した時、額に濡らしたハンカチが当てられており、すぐ傍に覗き込んでくるような視線を感じた。 起き上がると胸にかけられていたらしきジャケットが地面へ落ちて……羽島君が、困惑したように微笑んでいて。 彼が介抱してくれたのかと礼を言おうとしたのだが、頭を下げられそのまま走り去られてしまったんだ。 あの奥ゆかしさを、綾部も見習えばよいのに。 その日から羽島君を探して、家を突き止め……ああ、気がついたら干してあった下着へつい、手を伸ばしてしまい――どんなものを着用しているのかがどうしても気になって。 その瞬間手をがつりと捕まれた。あの時の心臓が喉から飛び出るような驚きはもう、一生涯味わう事はないだろう。 そろりとその手の先を見てみると綾部がそこに居た。表情の無い顔で俺に言ったんだ。それは駄目ですよ、と。 そこから戦争が勃発した。何度も羽島君の家に足を運んで、電柱の影へ必死に身を隠し、けれど、その後ろへ綾部が現れる日々。邪魔な事この上ない。 下着もゴミも、先に彼が持ってゆく。年下に出し抜かれるなどプライドが許さないのにあいつは何でこうも抜け目が無いんだ。 ため息をつきながら目的駅へと降りるのだが……まぁいいと、気分を持ち直した。 ポケットの中に手を突っ込む。そこにある封筒へ思わず顔がにやついた。 昨夜のうちにポストを漁っといてよかった。まさか高校生の身で、外へ一晩中出てはおられないだろう。ああ、羽島君が下着を夜干すような男だったならば。ゴミを夜のうちから出すような奴だったならばどんな楽だったことか。しかしそれをしない彼にまた、好感を持ってしまう。きっときっちりとした性格なのだ。 はやる手を抑えられず、駅のトイレに入って封筒をポケットから取り出す。指が微かに震えた。これで、初めて彼の私生活に触れることができる……しかし見てよいものか。いや、今更だ。 白い封筒の頭を破り、中に入っている手紙を取り出す。 そこに書いてある文字へ目を走らせると――何だこれは。 華奢な文字からして女だろう。それはいいとして内容が問題だ。そこには羽島君への文句がつらつらと書かれていた。 ――五股!? 嘘だろう? あんなに優しげに微笑む奴がそんなことをする訳がない。自分が助けた人間に何も言わずにただ頭を下げて去っていくようなシャイボーイなのに、何かの間違いだ。 羽島君はもしかして嫌がらせを受けているのだろうか。 心配になりながらも、腕時計を確認すると――遅刻だ。 急いで手紙をポケットへしまい、走り出す。 これは悠長にしていられない。出勤もだが、俺が羽島君を守ってやらなくては。 会社が終わったら彼の家に訪ねてゆこうと固く決意をし、改札を潜り抜けた。
****
玄関のチャイムを鳴らす指が震えて仕方が無い。この俺がこんな風になるなんてと自傷し笑ってしまう。 はい? という声と共に、玄関の扉が開いた。ああ君、こんな無防備で本当に大丈夫なのか。せめてインターホンで確認してから出ろよ。
「誰です? 何の用事ですか?」
訝しげに見られた――覚えていないのか。少し落胆してしまう。
「君、五股かけているって本当か?」
直球で出る。というよりも俺は直球しか投げられないんだ。 顔を顰められてしまった。
「はぁ? いきなり何を――ああ、もしかして知美の彼氏か何か? あいつから抱いて欲しいって言ってきたんだぜ? 俺に文句を言うのはお門違いだろ」
……何だか抱いていたイメージと違うのだが。 とりあえず誤解は解かねばならない。ついでに、というかこの勢いで告白をしてしまおうか。
「違う。俺は羽島君が好きで心配なん――」
「何だてめぇ! 気持ち悪りぃ!」
叫ばれ、ドアを思い切り閉められてしまった。 慌ててそこを叩く。もしかしたら覚えていないかもしれないと思って、自宅からあのジャケットを持ってきて良かった。 細く開かれるドアの先から、糸目が見えた。
「あんだよおっさん!」
「このジャケット、君のだろう? 俺たちは初対面じゃあないよ」
薄い皮のジャケットをドアの隙間から見えるように突き出すと、はぁ? とまた訝しげな声が届いて――
「それ……あんた、財布をいただこうとしたあの時の――やべっ」
また、ドアを乱暴に閉められてしまった。 ――あれ、これは一体。今のこの状況はどういう事だろう。 ぼんやりと足を動かす。桜の花びらが足元へ落ちてきた。
「岡本さん」
綾部の声が聞こえる。 見られていたとは情けない。その、同情したような響き。
「はっ。笑いたきゃぁ笑えよ」
吐き捨てると肩をそっと叩かれた。
「俺の家、近くなんで寄っていきませんか?」
断る理由なんて無い。俺の恋は終わった……と、綾部の提案へ頷いた。
****
綾部の部屋は男にしてはとても綺麗に片付いていた。 示されたベッドへ座り、ため息をつく。持っていたジャケットを床に落としてしまった。
「勝手なことをするからですよ」
言われ、頭を掻き毟りたくなる。 綾部が隣に座ってきた。
「羽鳥君は同性を受け入れないようだし、お前も失恋をしたようなもんだなぁ」
目蓋を閉じながらそう呟くと……何か柔らかいものが唇に触れたぞ?
「もし失恋をするのだとしたら今から、かな」
声が近い。そろりと閉じたものをまた、開かせる。 綾部の顔が視界いっぱいに広がっていた。
「な、何でお前――」
と、続きの言葉は彼の口の中へ吸い込まれて――当たる、唇の熱。濡れた肉が隙間をつん、とつついてきた。 何なんだ。混乱していた頭へ新たな色が加わって、もうぐちゃぐちゃだ。 背中に手が回ってきた。そして体を反らされ……どうして、押し倒されるのか。 そのジャケットを触るな――って、何故それを羽織るんだ。
「やっと戻ってきた」
静かに言う、その唇の動きがやけに艶かしくて。
「あいつなんかをストーキングする訳がないでしょう。俺がずっと見てきたのは、岡本さんなんですからね。あの日、公園でいきなり倒れこんだ時には本当にびっくりしましたよ。それにしてもまさか貴方を助けたのが羽島の手柄になってしまうとは」
初めて見せる綺麗な笑み。艶やかな黒髪が、揺れる。微かに頬が赤らんでいて……窓の外から届いてきた燕の、ちゅちゅ、ぴ、ちゅちゅと鳴く声が――
「もう二度と間違えないように、俺のもので、尻の中をぐちゃんぐちゃんに掻き回してあげますね」
綾部の囁きに、かき消された。
End
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