朝の『怪PR社』は喧騒に塗れている。 沢山の会議や業務連絡で忙殺されている社員達は、要たち外部の清掃員などにいちいち気を留める余裕がない。 挨拶は社訓なので、廊下を走って行く女性社員や、数人でガヤガヤと言葉を交わしながら通り過ぎて行く集団に、返って来ないと決まっている「お疲れ様です」を投げるのは苦ではない。そういうものだとわかった上でやっているため、別段この一方的挨拶が、壁打ちであろうが要は気にならない。 しかし、入って来たばかりの後輩が、あの人達は僕等の事を景色としか思っていないんだろうなぁと感慨深く呟いたのを聞いた時は、少しだけ寂しい気持ちになった。
11時半か、と腕の時計を見て思う。 この頃になると、社内の空気も落ち着きだし、人の行き来も減って、ぐっと作業がしやすくなるのだ。日中の光射す窓の掃除は気持ちが良い。地中にある妖怪タウンに、天候庁の役人がわざわざ持ってきている麗らかな陽光を味わうのがこの仕事の楽しみでもある。陽光は、地中一層目で暮らす妖怪しか味わえない贅沢な公共サービスだ。要の家は地中遥か四層目の暗い場所にあるため、仕事で地中一層目まで来ている時じゃないと、その恩恵に預かる事が出来ないのだ。 「要さん」 後ろから声を掛けられて、振り返ると狗賓種の管理部部長、滝神が立っていた。 「あ、滝神さんお疲れ様です~」 にっと笑って流れ作業のような挨拶をした要に対し、滝神はゆっくりと目を合わせ、お疲れ様、と律儀な返事をした。それから、いくつもの会議室に続く広い総合ロビーで、沢山あるソファのうちの、よりにもよって要が作業する傍のソファに座った。 「面談ですか~?」 そんな傍に座られては、声を掛けざるを得ない。 「…はい」 管理部の部長が、この時間に総合ロビーで人を待つ用事はほとんどが面談だ。後ろに滝神の視線を感じつつ、窓を拭く。自分の舌の細胞から生物化学で作った万能スポンジが、みるみる窓を美しくして行くのは気持ち良いのだが、見られていると爽快感が半減する。 「今日は良い天気っすねぇ」 「はい」 滝神は狗賓種らしい穏やかさで、のんびりと構えている。もう他を向いたかな、と振り返った。いや、まだこちらをじっと見つめて来ている。こんな風にじっと見つめて来る癖に、何を話しかけても、はい、という返事しか寄越さないから、要がいつも何かと話題を探さなければならなかった。 「メトロ、遅れてるんですかねぇ、それともJRで人身事故かなぁ」 「どうでしょう」 「人身事故は、晴れた日の方が多いらしいですからね、心配ですねぇ」 「はい」 まったく埒があかない。もう言葉が見つからず、頭が痛い。 滝神の相手がなかなか来ない事に、どうして要が苛立たなければならないのか。一つの窓が終わり、スポンジの洗浄のため床に置いた機械の前、屈むと、滝神が目の前にやって来て、同じ目線にしゃがんだ。 「そういえば、最近、野平さんと小柄な鎌イタチ種の女の子、よく一緒に居ますよねぇ、知ってますか?第二営業部の野平さん…、前は巨乳のろくろ首と仲良くしてて」 「はい」 「二人の間を行ったり来たりかよぉ~ってね、あぁ、羨ましいな、あんな美女達と一緒のお仕事」 「はい」 「って普通に流しちゃいましたけど、何ですか急に目の前に座ってみたりして、清掃業に興味あるんですか?」 「…」 少し、強い口調だったからだろうか。伝わらないよう、細心の注意を払っていた、うざい、という空気が漏れ出てしまったのだろうか。滝神は黙り込み、表情も口元も凍りついたように動かなくなった。清掃業者を選ぶのは管理部で、滝神は管理部の部長である。贔屓客に対して、心配りが足りていなかった。そろそろ業者を替えようかなどと思われてはまずい。 慌てて笑顔を作って、腿に手をつくと頭を下げた。 「あ、すみません、変な質問しちゃって、どうぞお気になさらず」 何故、謝っているのだろう、俺、別に悪い事してないのになぁ、と思った心の内で、プライドがコロンと小さく欠けた。少し下の角度から見た滝神の顔は、良くも悪くもない、普通の顔で、そういえばこんな顔をしていたなと、今思い出した程だった。やや大きな口に、天狗特有の下がり目がなかったら記憶に留めるのが難しい類の顔。 それでも、厚めの一重に細い眉、鋭い三白眼の揃った、柄の悪い自分の顔に比べるとマシだ。格好良い顔を作ろうと、頑張っていた時代もあるが、どうやっても柄の悪い顔になるだけなので、前は拘っていた髪型も今はモミアゲをスッキリさせる程度に留めている。 「あの、要さんは、オシャレですよね」 「へっ?!」 滝神の澄んだ目が、耳のピアスやネックレスの絡んだ首元を順々に捉えていく。 「や、単に、女好きなんすよ、…ウケるから、こういうの付けてると」 「ウケる?」 「あ、ええっと、引っ掛けやすくなる?ナンパ成功率が上がるっていうのかな、んーっと」 想定外の指摘と、久しぶりに人から褒められた事でテンションが上がり、耳に熱が集まった。褒められなれていない人間は、少しの肯定にも舞い上がってしまうのである。 「今度、僕にもオシャレを教えてください」 「え、いいっすけど、俺別にそんなオシャレじゃ…」 「ここに連絡をください」 すっと名刺を渡されたが、随分前に一度貰った事があるので要らない。 「や、名刺ならもう貰ってます」 やんわりと受け取りを拒否すると、滝神の顔が僅かに曇った。 「…では、二枚目を」 持ってるつぅの、と心の中で唸り、こちらも顔を顰める。 渡した方は忘れても、貰った方は覚えていた。 『怪PR社』の現場が、要の妖怪社会人初現場だった。挨拶は社訓なので、今より大きな声で、あの時は返事を貰える事を期待して、感じの良さにも拘りつつ声をはり上げていた。 応じてくれる人の少なさにがっかりしながら、しかし、こういうものなのだろうな、と一種不貞腐れた気持ちで納得し始めていた、その時だった。初めましての人だね、とわざわざ足を止め、名刺をくれた人がいた。それが滝神だ。じんと来て目に涙の膜が出来そうになったが耐えて、貰ったその一枚の名刺のためだけに、要は名刺入れを購入したのだった。 「滝神さんって、案外、薄情?」 「え?」 ぽろりと言ってしまった厭味に、滝神は不思議そうな顔をした。覚えても仕方のない憤りに、要は唇を噛み、言ってしまおうか迷ったが、先程頭を下げた時欠けたプライドの事を思い、言うことにした。 「俺、滝神さんに初めて名刺貰った日が初出勤日で、誰も、挨拶に返事さえくれない中で、初めましてって名刺くれた滝神さんの好意に、超感動したんだけど、渡した本人はその事覚えてないんだもんな」 何百枚も刷って、バラ撒く名刺について、一々誰に渡したかなんて覚えている人間は少ないと思う。日々外部の業者と沢山の商談を重ねる滝神に、無茶な期待を掛けてしまっていた事に気がついた。 俺の事は特別に覚えているだろうなんて思ってたのか俺は。 ふとして、自分の浅はかさに驚いてまた耳に熱が集まる。 「でも、僕は君の連絡先を知りません」 滝神はぽつりとそう言って、立ち上がった。丁度、面談の相手が来たようだった。近頃、子どもが入院したとかで遅刻早退が増えている短髪の威勢が良い女妖怪が、走ってこちらに来るところだ。 「すみませんでした、滝神さん、お待たせして」 キュッと体育会系の素早さで滝神に頭を下げる。 「お子さんの具合は如何ですか?」 滝神の質問に、厳しげだが整った渋い姉御フェイスを綻ばせ、短髪の女妖怪は経過を報告した。順調に回復しているらしい。中庭ランチをしていた女妖怪社員達の噂では、彼女はパートナーに女性を選んだため、子どもは土から作っている。妖怪は種が違うと男女でも子を為す事が難しく、互いの特徴を切り取り合って土から新しい妖怪を作る。百年生きると本物の妖怪になるが、それまでは育てるのに苦労するのだ。若い妖怪は同じ種同士の男女で良く子を為すが、年を取った妖怪は、別種の妖怪と、苦労して土から子を育てようとする。男同士や女同士の子の作り方も、この種の違う男女のやり方と同じだ。 しかし、要の両親も知人も、大体が垢嘗種同士で普通に子作りをする。そのため、要は土から子を作るという話に、そんな事出来んのかよ、などと思っていた節があり、あの短髪の女妖怪の話には少なからず衝撃を受けた。
午後五時。要の働く『あかなめ清掃』は、夕方には大方の業務を終わらせる。大家族で同居している要は、家の手伝いを言い付けられており、今日は食事当番のため、スーパーに寄って帰る。 地中四層に続く大型エレベーターに乗り込み、自宅傍の大型エレベーターホールから出て来ると、四層の薄暗い世界と、オレンジの壁灯りに迎えられる。壁一面を覆うコケが、淡い光を放っており、年中オレンジのこの世界には陽光の概念さえ知らない妖怪が多い。 要はまだ生まれて三十年にも満たない若い妖怪で、幼い頃、一層で働きたいという夢を抱き、二層の大学に猛勉強をして入った。地中四層にある垢嘗の多い地域、垢嘗区の世界では『あかなめ清掃』に入社して一層世界で働くという事は大変なステータスである。 「お疲れ様です」 ホール前の賑わいの中から通りがかかった後輩に声を掛けられた。 「ああ、お疲れ」 スーパーの袋を手に持っているにも関わらず、後輩たちはキラキラした目で要を見て来る。 石やごつごつした岩で出来た長屋の連なる住宅地の景色に、地元の清掃会社に就職した、現場帰りの後輩達がいる風景は癒しだ。 後輩達は近くに寄って来て、今お帰りですか、早いんですね、と適当な事を口にした。 中学の時に同じ部活で面倒を見てから、高校受験の際は家庭教師をしてやった後輩たちの数は、年々減って来ている。垢嘗の中でも弱い種は、肝を取らずにいると二十年そこらで消えてしまうのだと、初めて知ったのは一番手に掛けて可愛がっていた後輩がある日、急に消えたという知らせを受けた時。歴史上、類を見ない悲惨な時代が来ている、と実感したものだった。 弱い妖怪は、持って生まれた妖力が尽きると消える。 大妖怪は、肝を取らなくても百年二百年余裕で生きるし、肝を取り続ければ永久に生きるかもしれない。しかし、妖怪には大小があるのだ。 四層の妖怪は、大抵が肝を摂取する事を諦め、自然に消えるのを待って生活している。その意味では、人の暮らしにより近い周期で生きていた。五十年から百年。生きられれば良い。そういう考えで居るから、誰かが突然消えても、寿命だったと簡単に受け入れる。もっと生きよう、もっと生きたい、と上を目指す気持ちにはならないのだろうか。 上を目指したところで、上には上が居て、予め決まった生まれ種という運命や妖力の差には勝てないのだが、それでも、少しでも現状を打破したいという気持ちが、この四層の住人には足りていないような気がする。 要は給料の一部を、四層の住人が少しでも肝にありつけるようにと寄付しているが、垢嘗区に限っては、肝の味を知らぬまま、持って生まれた妖力が尽きて百年も生きずに消える者が相変わらず多数だ。 「あ~ぁ、俺も要さんみたいに一層に就職して、沢山肝を貰える生活、してみたかったなぁ」 別に今からでも、勉強して二層か一層の大学に入り、一層の職を探せば良い、と言う言葉は何度も口を酸っぱくして言って来たのでもう言う気が起きなくなっていた。 「要さん天才だもんなぁ」 「凄いよなぁ、一層で働いてるんだもんな」 「一層にはもっとすげぇ人達が沢山いるぞ~」 後輩達の言葉を流しながら、木製の家々が並ぶ狭い路地を進む。鼠の住処のように、でこぼこした岩の長屋が見えて来た。十四人兄弟で暮らしているため、長屋を丸々要家で使っている。 「せっかくだ、上がってくか?」 ホールから付いて来た三人の後輩に声を掛けると、やった、と三人は手を叩き合い喜んだ。一層のスーパーで買ったものを食えるのが嬉しいのだろう。肝入りの食品も多い。 「要さんのところでご馳走になると、寿命が増えます~」 「そーかそーか、じゃぁ俺に感謝して、俺の留守にはうちのチビどもを頼むな」 末にはまだ十にも満たない兄妹が五人居る。 その時、こっちだ!という声がしてドヤドヤと人の声や足音が近づいて来た。よく見ると、祭りの時のように興奮した様子で隣人達も窓からこちらの様子を伺っている。 「要さん、何すか、何かあったんすか?!」 後輩達が不安気に聞いて来るので、要もまた不安になって来た。近所の者から見知らぬ別地区の人間まで、数十名がザワザワと何かを期待した顔で集まって来ていた。 見物人の声に耳を澄ませる。「天狗だってよ」「品の良い狗賓でスウツを着込んでてよ、俺ぁ後つけて見たんだから間違いねぇ、浩二の家んとこ曲がって行ったんだよ」「一層のもんが遊びに来るってんなら浩二んとこが一番ありえそうだしなぁ」「誰が来てるって?」「天狗!」「神様じゃねぇか」 四層では、一層の妖怪が来るというそれだけの事がこんな大騒ぎになる。無邪気な同郷の者達の声を聞きながら、要は頭が痛くなって来た。 誰が来てるって? そもそも、天狗は神物と同一の力を持つ者が多いのは確かだが、はっきりと神と言うとそれは違う気がする。が、それより。この騒ぎ。誰が来てるって? 「要さん」 家の中から、ひょっこりと滝神が顔を出した。見物人達の間に、どよめきが走る。 「滝神さん?!どうしてこんなとこに・・・!」 要もまた、全身に鳥肌が立つ程驚いた。 「いえ、昼間、要さんと喧嘩をしてしまったでしょう?謝ろうと思いまして」 「喧嘩ぁ?!」 喧嘩なんかしただろうか。滝神に要が腹を立てた覚えはあるが、滝神と何か言い争うような事はしていなかったと思う。
そこで、「よっ、垢嘗の星!」と見物人から野次が飛んだ。「天狗と喧嘩したんだってよ」「さすが要家の浩二は違うな」「スゲェよなぁ浩二は、普段から一層で天狗とか鬼とかと渡り合ってるんだもんなぁ」「狗賓に謝りにこさせるぐらいだから、結構、活躍してるんじゃねぇか」 恥ずかしさで頬が真っ赤に染まって行く。好き勝手言いやがってと胸の内で恨む。 「あの、すいませんが、ちょっとこっちで話を!」 家の中や近くには、落ち着いて会話が出来る環境がない。ぼんやりしている滝神の手を取り、家の中から外へと誘い出した。足元は既にきちんと革靴を履いているので、滝神は家の玄関に腰を掛けて、要を待っていたらしい事がわかる。良かった、滝神に汚い家の中を見られなくて。 「え、でも、要さん今日は夕飯係って・・・」 「そうですけど、貴方が来てしまったんだから仕方がないでしょう」 エレーベーターホールまで戻り、喫茶店に入ろう。そこは改札を通らないと一般の人間は入って来れないから安全だ。 「でしたら僕、待ちますから、先に夕飯のお支度を整えてください、末の弟さんがお腹が空いたと泣きそうにしていらっしゃったので」 「母さん、悪い、夕飯明日やるから、安栗に代わりに作らせといてくんないかな」 突然押し掛けておいて、家の事情を一方的に知り、見当違いに気遣われても腹が立つばかりだ。家の奥から、安栗は今日は塾よーと母親の声がして、ついに泣き出した末の弟の愚図り声も、うえ、うえええ、ぐす、ぐす、という続いた。 仕方がないので滝神の横に腰を掛ける。 「滝神さん、申し訳ないんですがちょっとホントに、待ってて貰えますか」 「はい、もちろんです」 滝神は心なしかワクワクしているようで、悔しいかな、四層で見かけると恐ろしく身奇麗だった。 朝、どこにでもいる類の忘れられがちな顔だと思っていた滝神の容姿は、良く見ると上品で目に心地よくまとまっている。 天狗だもんな、神様にも近い存在なんだから、凶悪な顔をしているわけがないんだ。 しみじみと滝神の向けてくれた関心に、不思議な気持ちになる。狗賓が、わざわざこの四層まで、自分との小さな諍いを気にかけて来てくれた。 改めて、自分は大出世をしたのだと思う。 「どうせなら、食べて行きませんか?一層のスーパーで買った食材なんで、そこまで口に合わないって事はないと思います」 声を掛けると、滝神は照れたように笑って頷き、革靴を脱いで長屋の中に入って来た。後輩達がその後に、びくびくと続く。 既婚の姉や、学生の妹達が一斉に黄色い声を上げたので、みっともねぇと叱り、素っ裸で取っ組み合いをしていた弟達に服を着るように指示をする。
夕食を囲んだ妖怪の数は二十にもなった。後輩達がちらちらと要に視線をくれるので、要は溜息をついて滝神に声を掛けた。 「あの、良かったら滝神さん・・・滝神さんの故郷とか、これまでの暮らしについて、話をしてくれませんか?家族や後輩が、知りたがっているので」 「要さんは?」 「あ、もちろん俺も」 滝神があまり会話上手ではない事を知っているので、無茶ぶりかな、と心配になったが、滝神はこくんと頷いた。 「・・・僕は、今年で八百五十歳になります」 冒頭から世界が違い過ぎて、父親が上座を譲ろうと腰を浮かした。それを、滝神は笑って制し、眉を下げた。 「こんなお爺ちゃんですが、要さんが好きです」 飲みかけた味噌汁を逆噴射し、横に居た姉に思い切りどつかれる。 「若い妖怪は、男女の、それも同種で子どもを作るのが普通ですから、きっと僕は酷く異端に映るでしょう・・・けれど、僕は要さんと土の子どもを作りたい」 何だ、何が起こったと味噌汁の具とこぼれた汁と、椀の底を順に見て行く。わけがわからない。 「初めて見た時から、素敵な方だなと思っていましたし、会話をしたくて声を掛けると、こちらを楽しませようと凄く気を遣ってくださる、・・・根の優しい方なのだと思います、それから、僕は会社で管理部の部長職にあるのですが」 ぶ、と今度は母親が味噌汁を吹き出した。 「あ、『あかなめ清掃』のですか?」 「いえ、『怪PR社』という広告会社のです」 「やだぁー!お母さん!広告会社だって!お兄ちゃんよりきっと凄い稼いでるよこの人!!」 母親と妹の容赦ない女の声に、要はずぅんと頭が石のように重くなった。 「管理部の部長職は、人の観察が仕事です、・・・けれど、僕は要さん程上手く、人の心が読めません、例えば、ある有能な女性社員が辞めたいと言った時、僕は給料を上げようとか待遇をよくしようとか、申し出て、仕事の悩みがあるのかもしれないと色々悩みました、・・・しかしそれは同じ部署の同僚と一晩を明かしてしまい気まずかったという話で、少し部署を移動させるだけで済む話だったんです、これは要さんに教えて貰い、気がついたのです」 そんな事もあったな、と思い出す。そういえば、良く担当階を変えられる度に、わざわざ滝神が挨拶に来たなと思い出す。あれは、要に会いに来るのと、要を頼って来るのとで、滝神なりに意味があったのだ。 「僕は要さんの気の優しいところや、人の困っている事にすぐ気がつけるところが好きです、お父さん、お母さん、僕は今日、要さんに謝るのと一緒に、告白をしようと思っています、お許しを頂けますでしょうか」 いつの時代の男だ、おまえは。と突っ込みを入れながら、自分のこれまで何とも思っていなかったところを、美点として上げてくれる男に、要は少しだけ興味を持った。これまで、うざがっててすみませんでした、と心の中で謝る。 「わかりました、滝神さん、一回、友達から始めましょう」 提案すると、母親が駄目よと立ちあがって、寝室を指差した。 「うちのベッドをお貸しします、女性とのお付き合いはちらほらあったようですが、男性に対してはありません、処女でございます、どうぞ、もらってやってください!一層の人に、それも大妖怪にもらわれるんなら、手塩に掛けて育てた甲斐があります、手前味噌ですけど、この浩二は本当に良い子でして、普段からね、貴方、お母さん、俺が消えてもお母さんはずっと生きていけるぐらい、俺、頑張るから、これからも可愛い弟や妹たちを生んでくれよ、なんて言ってくれるんですよ、私、こんな大家族で、子ども達には苦労掛けてるから、そんな風に言って貰えるなんて思ってもみなくて」 「母さん、一旦、止めて貰っていいかな、俺もこれ初めて聞いた話だからさ!!滝神さんと俺、特別親しかったわけじゃないんだよ!ぶっちゃけ!!」 混乱する家庭内を、後輩に見られるという恥と、いきなり自分が若衆のような扱いになった違和感。そして滝神がじっとこちらを見てきている恐怖が重なり、俺はご飯を零した。 「要さん、ここは自分が片付けるんで、どうぞ、天狗とお幸せに!」 ささっとやって来た後輩がトチ狂った事を言うので、思わず耳を塞いだ。 「要さん・・・」 滝神がぐっと身を乗り出して来る。 「好きです」 「今言うな」 怒鳴ると、困った顔で停止した滝神に、八百年も生きていて、恋愛スキル低すぎだろと心の中で突っ込んで席を立つ。 「何もかもが急すぎます、ちょっと考えさせてください」 後ろで、お母さん、あたしも二層の大学に入って一層で働く!という妹の決意の声がした。俺も、私も、とわらわらと下の兄妹達が手を上げるなか、何故か要は暗い気持ちになった。どんなに頑張って一番良いと言われてる道を辿っても、いくらでも上には上が居るんだぞと思う。 八百年って何だよ、想像も出来ないよ、と呟いて玄関に蹲った。案の定、追って来た滝神が心配そうに覗き込んで来るのを感じて、また耳に熱が集まった。 「要さんに名刺を渡したの、最初に渡したの、忘れてたわけじゃないんです、要さんから、メールが来ないので、捨てられてしまったのかと思ってました、だからまた渡し直したんです」 「メールなんかしないですよ、ただの挨拶で名刺くれた人に」 「僕はビジネス以外の現場で誰かに名刺を渡す事はしません」 「知りませんよ」 「あの時、貴方の挨拶がとても元気で感じがよく、もっと貴方の事が知りたいと思って、名刺をお渡ししたんです」 要を好きだという癖に、要にメールをしろというこの男。どういう神経をしているのか。懐からメモを取り、自分のアドレスを書いた。それを、滝神に渡すと顔を上げた。 「俺はこれまで、狙った女の子は大体射止めて来ました、それは俺がオシャレだからじゃありません、俺がメールを送り、俺がデートのセッティングをし、ホテルの予約をし、こまめにプレゼントを送り、愛しているよと囁いたからです」 「・・・わかりました、全てやりましょう」 あれ、何だろうこの流れ。間違った事は言っていないはずなのに。 「あっぱれ!」 と声がして玄関が勢い良く開いた。集まった人達の数は減るどころか増えていた。 青ざめた要と、嬉しそうな滝神と家族達に、玄関から近所の人が声援を送っている。 「お疲れ様です要さん」 後輩達から声を合わせ、心の底からのお疲れ様を貰い、どっと疲れが増した。
後日、要は滝神とメル友になったのだった。
19:45 2013/10/03
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