目の前で、すぐ目の前で、 カルロがエリックに引っ付いている。 エリックは黙って引っ付かれている。
俺がやったら怒るんだよね。
見るものを焼く勢いで、 二人を睨んでいたら、
「リオネ不機嫌」
横でチェコがぼそりと呟いた。
エリックはチェコの言葉を気にせず、 リオネをないもののような態度で、ページを捲った。 せめてこっち向けよ。
座ったエリックに、カルロが被さって、 エリックとカルロは雑誌を見ていた。
「なんで?」
チェコはリオネを横目で覗きながら、 白々しい質問を投げて来た。
「わかるだろ」
エリックにカルロが引っ付いているから。 エリックがそれを許しているから。 俺がやったら怒るくせに、カルロには怒らないから。
「んん・・」
チェコはリオネの顔を見て、下を向いて、 エリックにチラッと目をやった。
「わかんない」
意図して、わかろうとしない。 というチェコの意思を感じて顔を顰める。 チェコはリオネに懐いていた。 人間を愛しているわけではなく、 ただその注意を向けておきたいために、 人間に構う猫のよう。 チェコは気まぐれに人に懐く。 これまでリオネは、チェコが懐くのは女だけと思っていた。 懐かれた女は、大体、 チェコの持つ奇妙な色気にやられて、 のぼせ、チェコに構い倒し、 チェコに飽きられて捨てられる。 リオネ・・・男友達に懐く、というパターンは初めてだ。
エリックの雑誌を捲る手が止まって、 その細く滑らかな指が移動する。 ゆるく丸く、握られて、頬杖。
「リオネ、居心地悪いからあっち行って」 「え・・・」
「変な目で見ないで」
「・・・見てない」 「見てなくても、俺には、ちょっと不快な視線だったの」 「な・・・!」
かっとして、言葉を失う。
愛しくてたまらない存在から、無碍にされる苦しみを、 こいつは味わったことがあるのか。
悔し涙、堪えて顔を隠すように、 ぎゅっ、とエリックに抱きついてみた。 ビクッとエリックの身が震え、 脇腹に肘鉄の痛みが食い込む。
「ちょ?!リオネ乱心!俺挟んでる俺挟んでる」
カルロごと抱きしめたので、感触はまばら。 カルロが暴れて逃れた。
と、同時に頬に拳骨が来た。 エリックに殴られた。 跳ね飛ばされ、教室内の全てと視線が合う。 チェコが庇うよう、抱きとめてくれて、どうにか転ばず。
パシンと音がして顔を上げる。
チェコがエリックをぶっていた。
「え?!」 「わっ」
俺、カルロが短い悲鳴を上げた。 チェコとエリックはあまり仲良くない。 そんな二人がぶつかるのは宜しくない。
「抱きついたくらいで殴ることないじゃん」
チェコの主張に、
「俺の勝手」
エリックの答え。
「おまえちょっと自意識過剰」 「君みたいな鈍感にはそう映るかもね」 「リオネが本気でおまえのこと好きとか思ってんのかよ、 遊び、冗談、なんでわかんねーかな」 「そう思いたい気持ちはわかるけど、 こっちは一歩間違えば・・・、 ・・・リオネに抱きつかれるのは怖いんだよ」 「わけわかんねぇ、リオネが何したんだよ」 「欲情してるから、俺に」 「は・・・!・・・だから、それが、自意識過剰だって、 おまえ見てると苛々すんだよ!!!!」
「じゃぁ見なければいい、・・・俺に、関わらなければいい」
「そんなのわかってる、それが、できたらいいけど」 勝者はエリック。チェコはリオネを見た。 助けて欲しそうだが、どうしたものか。 「二人とも仲良くしろよ」 咄嗟、出た言葉にチェコは顔を顰めた。 「まぁ、ダダも最初はこうだったよな」 カルロが場を和ませようと、軽い声を出した。 カルロの明るい表情に、 教室が視線の包囲を解いてくれた。 四限の自習時間は、まだ始まったばかりだった。 皆、この一時間半、何をしようか考えるのに忙しい。
「あ、リオネこれ」
エリックが唐突に、折畳んだ紙を取り出した。 受け取って開くと、お菓子のレシピ。 エリックの趣味は料理で、前にエリックの作った菓子を、 家に持ち帰ったら母親が気に入り、 レシピをもらって来て、と頼まれた。
「ありがと!」
「うん、・・・さっきは流れで嫌な言い方してごめん」 「いいよ・・・本当のことなんだろうし」 「まぁね、あ、気を悪くしないでね、 早く他に好きな相手探して」 「・・・あの、口癖みたいにフるのやめてくれる? なんか麻痺しそうだから」 「・・・」 「俺、うざい?」 「別に」 「・・・ホント?!」 「友達じゃん」 「・・・」
熱く、太い縄が目の前にドン、と落ちて来たような。 エリックの澄んだ青の目がじっと見てきていた。 呆然とその目を見返している隙に、手から何かをもぎ取られる。 気が付けば、レシピの紙を、チェコに奪われていた。
「・・・え?」
「これ、捨てるから」
そう言って、チェコは足早に教室の出口に向かった。
「え・・・!ちょ・・・!」
追いかける。前を行くチェコが走り出して、舌打つ。 ああもう、手の掛かる奴。 「チェコ・・・!」 名を呼ぶと、振り返ったチェコの顔は曇っていた。 「返せよ!!」 ぐん、とチェコの速度が増し、焦る。 階段を降りようと、曲がったチェコを追った先、 ジェキンス寮生であるチェコの身体技に、あっと息を飲まされた。 階段の手すりを飛び越えて、一段下の階段の手すりに、 さらにその下の手すりに。
チェコは一階まで、階段をショートカットしてしまった。 対するリオネはまだ三階。
見失う。
エリックがくれた、エリックの書いた字が書いてある、 エリックがリオネのために作成したものが、捨てられてしまう。
チェコの真似をして、手すりを飛び越える。 ヒヤリと嫌な予感がして、腕に力を込め、手すりにぶら下がる。 下の手すりまで、二m程。
綺麗な着地・・・できる気がしない。
踏み外したら・・・どうなる。 手すりは幅細く、滑る。目が回る。 階段の、規則正しい景色がリオネの心臓をどくどくと鳴らした。
「何してんだ馬鹿」
下から、チェコの怒鳴るのが聞こえた。
「手、離すな、今そっち行くから」
もし今、怪我をしてもチェコが居るなら、 救急処置なりしてくれるし、人も呼んでもらえる。
安心して、急に、手すりが近く見えた。
思い切って、手すりに降り、バランスを取る。 チェコは階段を使って登って来ているらしい、 カンカンと音がする。
登って来たチェコが、あっ、と声を上げ、 逃げ出した。
リオネは手すりに腰を掛けて、悠々とチェコを待っていた。
人間に騙されて、驚いた猫の後姿。 可笑しくなり、笑いを抑えながら、追いかけた。 この時間は移動教室が多く、空の教室が目立つ。 通り過ぎた授業中の教室の中に、ダダの姿があった。 目が会って、手をふると怪訝な顔をされた。
廊下を歩いていた教師の叱りを受けながら、 高庭に出た。
あまり来たことのない、いつもは女子生徒で溢れている高庭。 二階の右端から行ける、 噴水が綺麗な、洒落た空間。 二階より長い一階の屋上を利用している。 緑に囲まれて、花々が一年中咲いている。 風が吹いて、花の香りを運んだ。 空をバラバラとヘリが飛んでいて、 授業をしている教室もある学校の、 緊張感に襲われる。
背徳感と、高揚。
リオネはチェコを追い詰めた。 チェコは紙をしまった手を、後ろに隠して後退し、 大きな体を前のめりに、左右を見た。 そして、紙をポケットに仕舞うと、今度は前進。 前進されると、急に不安になり、 リオネは逆に後退。
「リオネ」 「返せよ」 「なんで逃げるんだ」 「返せ」 「止まれ」
「返す?」
「返す」
チェコがまた一歩、こちらに来る。 この焦燥感は何だ。
「チェコ・・・」
目の前に来たところで、たまらずに名を呼んだ。 瞬間に抱きつかれ、驚いて言葉を失った。 何だ何だ、何が起こってるんだ。
「俺だって抱きつきたい」
耳もとで、チェコの高いとも低いとも取れぬ、 わがままな響きを持つ声がして、腰が痺れる。 冬の朝のような、例の、冷たい香りがする。 チェコにこの香水を送った女は、今どこで何をしているのだろう。 猫の気まぐれに付き合って、捨てられた女は。
「キスするけどいい?」
鼻先一㎝、猫科の男は許可を求めた。
「駄目」
駄目に決まってる。
「なんで」 「駄目だから」 「きもい?」 「きも・・・くはないけど・・・変、 っていうか、ん、きもいか?」 「きもいのかよ」 「難しいな」 「どっち?」
少し顔を離して、間近で見つめられる。 チェコは無表情に、黒い目で、リオネを観察して来ている。 リオネの次の動きを待っている。 猫のよう。獲物をじっと、夢中で、眺めている。
「きもいっていうか、駄目?」 「・・・俺は駄目なの?」 「は?」
俺は、の「は」とは。 他は良いのに俺は駄目、という意味だ。
そうか、そういうことか。
チェコはリオネの男色に触発されている。 ふらふらと、何を考えているのかわからない男チェコ、 実は、何も考えていない可能性がある。 これまで、うすうす、チェコは単純なのかもしれない、 と感じていた。その確信を得た。 チェコは男色というものを、リオネを通して知った。 リオネがエリックに恋をする様や、ブルーノを買う様を見て、 どういうものだろう、と興味を抱いたのだ。
つん、と唇に唇が当てられた。そのまま唇を舐められる。
「・・・」
どう反応しようか、と迷っていたら目の前に、 悪戯っぽい猫の微笑。
「駄目なのにしちゃったけど、怒る?」
呆れて、全身から力が抜けた。この男・・・。 無邪気だが面倒だ。ああ。
ふいに、いつかの教室の朝、面倒を掛けるかも、 と呟かれたのを思い出す。
「お」
喋ろうとして開いた口の中に、舌が差し込まれた。 がっつりだな・・・。 背に回された手が、ぎゅっと身を締め付けてきた。
深いキスを終えて、チェコは少し満足気にリオネを解放した。
「なんかスッキリした」 「あっそう」 「あっそうって」
「さっき言いかけたことだけど・・・」
「ああ、何?」
怒らない?って質問に答えてやろうというんだぞ。 何、じゃないだろ・・・。
「怒らないからお金貯めろ、 ブルーノさん紹介してやるから」 「・・・」
す、チェコが寂しそうな顔をして、 まずいことをした気分になる。
初心者にいきなり男娼はまずかったか。
「いや、冗談」 「うん」
チェコは、リオネにその道を求めている。 リオネが引き摺りこんだようなものだから、 当り前かもしれないが。 このままではチェコと恋人同士のような、 関係になってしまうんじゃないか。 チェコに限って、そんなことはない気がする。 でも。
もしそんなことになったらエリックが喜ぶ。 リオネがエリックを諦めたと。 そんな場面嫌だ。泣いてしまう。
「俺・・・抱くのしかできないよ?」 「だ・・・、そんなことまで考えてねーから」
やってしまえば気が済むだろうかと、 提案したら一蹴された。 良かった、友人と肉体関係を結ばずに済みそうだ。 そうだろう、少し興味がある程度では、 キスで満足だろう。 これでチェコの気まぐれも近々終わり、 またエリックに甚振られる日々に戻る。
憂鬱だ。
リオネに懐いてくるチェコは、愛しかった。 チェコの存在は、リオネを慰めていたのだ。 気が付かなかった。チェコは、リオネを癒していた。
「おまえのこと好きだな」
チェコが呟くので、
「うん・・・俺も」
答える。
「あ、変な意味じゃなくて」
慌てて付け足す。
「うん」
チェコの、表情から気持ちが窺えない。 何を考えている?
*
結局授業の終わりまで、高庭ですごし、 教室に戻ると、エリックとカルロに、ダダが加わっていた。 そして、リオネとチェコの追いかけっこについて、 二人から事情を聞き、にやにやしていた。
「リオネはもうチェコとくっつけよ」
何を言い出すんだ。エリックの前で。
「チェコ嫌いのダダが言うぐらいだから、 相当お似合いってことなんだよ?」
エリックもにやにやしている。泣くぞ。 カルロはチェコとリオネを交互に見て、にまっと笑った。
「そういや前にさー、 自習あった時さー、 いつだったか忘れたけど、 リオネ、 チェコのこと何で好きなのって聞いたら、 かっこいいからって答えたよな」 「・・・っ」
今、ばらすなよ。今。
「そーそー!チェコのことかっこいいって、 やたら言ってた!」 「言ってたけど他意はねーし、 何だよくっつけばって、 俺が男で好きなのはエリックのみだし」
ばん、とエリックが机を叩く。
「白けた、話題変えよ」 「っ・・・」
「チェコも照れちゃって顔赤いし」
振り返ると、本当に顔の赤いチェコが居た。 ぎょっとして、カルロの肩に捕まった。
「かっこいいとか、言われ慣れてないから」
チェコが言い訳し、ダダがけっと鼻を鳴らした。
「はい嘘ー、はい照れー、はいラブラブー」
エリックが面倒臭そうに仕切る。 カルロがわー、と叩かない拍手をして盛り上げた。
「歴代彼女は言ってくれなかったの?」
すっかり吸い辛くなった空気に参りながら、 リオネは質問した。 チェコは、もてていたし、 かっこいい、という言葉が似合う。 雰囲気がかっこいいのだ。 友達の欲目を捨てても、 街中で、ああ、かっこいい人だ、と思えるぐらいには。
「かっこいいとか、言われたことない・・・」 「・・・へー」 「猫っぽいって言われる」 「ぶっ」 思わず噴出して、鼻が出た。
確かに猫っぽい、とエリックが言う。
猫っぽいチェコの、 猫っぽい仕草。 手に、すりっとチェコの手が寄って来た。 心臓が跳ねて、思わず避ける。 避けたのに寄って来る。どくどくと脈が。 少し意識してしまっている。当たり前だ。 高庭でいちゃついた後だ。
手の中に、紙が入れられた。
あ。
返してもらうことを、忘れていた。 忘れさせてもらえていた。エリックのことを。
気が付いて、チェコを、とても愛しく思った。
0:50 2011/12/08
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