フィオーレ所有の岩山の切れ間を、 風がビュウビュウと走り抜けていた。
どこもかしこも泥と灰の色をした走行訓練場。 夜間訓練のラストは、 ここを終着点にする走行訓練といつも決まっていた。 岩肌にはり付いて乱れた呼吸に振り回されている者、 帰り支度を始める者、 闘技場に個人的な練習をしにいこうと、 約束を取り付けている者。
チェコ・トルーニは星空を見上げながら、 友人のことを考えていた。
中等部で同じクラスに居て、 学力の近さから仲良くなった。 学園は学力別にクラスを編制するので、 テストの点が近ければ近い程、 教室移動などで顔見知りになる。
高等部は、案の定同じクラスになった。 学園からクラス名簿を含む案内書類をもらいに行った時、 名簿の中に名前を見つけて、嬉しくて、 その帰り、自転車を早漕ぎして事故に遭いかけた。
リオネ・シュトールという男は、 癖の無い性格と顔で、文武の力量も中の上。 好青年で、不快さを感じさせる要素はゼロだが、 ある人間がある人間に感じる、 近さだとか、気が合うだとか、気になるだとかの、 属性というか、磁石力、 その者にとっての、「誰か」を引き寄せる力が弱い。
だから、誰とでも仲が良いが、 特別に誰か一番、仲が良い、 という人間が出来ないのだろう。
無味無臭の空気みたいな奴。
そう思いながら、チェコは中学時代、 リオネを同グループの、遠くから眺めていた。 チェコは彼女と二人の行動が多い上に、 同性にあまり好かれるタイプではなかった。 チェコにとってリオネは盾のような存在で、 リオネを通じて、男社会と繋がっていた。
普段、付き合いが悪いくせに、 気になる集まりには、 リオネが親友を作らない所につけこんで、 リオネの親友のふりをして、参加した。 人の良いリオネは、チェコにグループのイロハを、 一々教えながらチェコがその集まりで、 楽しめるよう世話をやいてくれた。
色欲の強いチェコにとって、男の付き合い程、 面倒なものはない。 しかしたまに、男同士の、冗談が飛び交う明るい場所に、 存在したくなることがある。
「どした」
ふいに声を掛けられて、 振り向くとゴドー・ジェキンスが居た。 将来の上司だが、 今は歳の近い先輩。 ゴドーの気安さに甘えて、 他の訓練生同様、 チェコはこの先輩に、 時々悩みの相談などをしていた。
ゴドーは黒い髪と、黒い目をした、 肩のしっかりした大柄な男で、 いつも、この人には絶対に適わない、 と思わせる、巨大さを持っていた。
「帰らないのか?」
見るとあたりには、もう誰も残っていなかった。 ゴドーはチェコの、よく「何を考えているのかわからない」 と言われる顔を見て首を傾げた。 何を考えているのかわからなかったのだろう。
「何か、あるのか?」
大雑把な質問に、対する答えはイエス。 何かある。自分でも良くわからないもやもやがある。 「エリック・ヴェレノは、まだゴドーさんのところに?」 「・・・エリック?・・・あ、同じクラス、だったな」 「ヴェレノに帰ったりする予定とか、は・・・」 「ねぇな」 「そうですか」
はぁ、と溜息。
寂しいのだな、と自覚した。 リオネをエリックに取られてしまった。 エリックに無償に反感を覚えるのは、 そのためか。
「エリックが、嫌いなのか?」 「や、嫌いというか、 前にも話しましたけど、 リオネが可哀想で」 「可哀想?」 「ほら、エリック・ヴェレノにはもう、 ゴドーさんっていう、 立派な相手がいるじゃないっすか、 それなのにあいつ、 尽くしちゃってるっつぅか、 あんま、気ぃ合ってないのに、 エリック周辺でなんかごちゃごちゃ、 こないだも、 うんこの落書きとかしてたし、 うんことか、 喜ぶタイプじゃなかったのにな、 と思ったらなんか、 なんかモアーッと、 カルロ・ルネとか、ダダとか、 あそこらへんの笑い、 あいつとはちょっと違うんですよ、 面白いけど、 それは、あいつらだから面白いんであって、 俺等はもっと・・・もっと静かだし、 なんか、・・・あんなの違うっつーか、 俺と喋ってる時は・・・、 あ、まだ結構あいつ、 普通に俺のとこ来るんですよね、 やっぱあいつらのとこだと、 疲れるみたいで、 ・・・で、やっぱ、俺と居る時は、 もっと・・・こう、素なんすよ、 だるいのを、だるいまんまにしとく、 みたいな、無理にアホなこと言ったり、 しねーし、うんことか書かねーんすよ、 それが俺等なんすよ」
「でも書いたんだろ」
「・・・書いたんです、 しかもその後、 言ったんです、 「うんこ」って、 ・・・笑っちゃったんすけど、 笑った後こう、モアーッて、 何だ今の、って、 何か、・・・何からしくねーな、 って、もう・・・こう、 モヤモヤして、 うぜーんすよ」
ゴドーは下を向きながら、 耳だけこちらに傾けていた。 腹の中にあったものを、 いざ吐き出してみると、 恥ずかしいぐらい、 リオネへの執着が言葉の端々に、 現れていて呆れた。
「うんこ」
ゴドーが呟いて、地面を見ると、 うんこが描かれていた。
「っ」
思わず噴出して、 口を抑える。
「おまえも好きじゃねーか」 「男は大概好きだと思います」 「俺は普通だな」 「俺も普通ですけど」
「乱入したらどうだ」
「は?」 「カルロ君やダダ君が反対しても、 リオネは受け入れてくれるんじゃないか、 リオネと一緒に居たいなら、 おまえもあのグループに入れば良い」 「・・・邪魔じゃないすか」 「邪魔?」 「あいつは、ほら、エリック・ヴェレノに、 近づきたいわけだから」 「おまえ、 さっき自分で言ったこと忘れたのか? エリックには俺が居るから、 リオネは脈のない相手に尽くしてるって、 それが可哀想なんだろ、 だったら止めてやれ」 「・・・ああ」 「俺のためにも」
「なるほど」
「リオネは好青年だからな」 「確かに、あいつと女取り合うのは嫌っすね」 「女じゃないが」 「尚更タチ悪いっすよ、あいつ同性ウケいいから」 「近頃学校の話をやたら楽しそうにするから心配だったんだ、 楽しいのはいいが、楽しそうすぎると、不安になる」 「ゴドーさんも・・・根回しとかするんすね」 「するつもりじゃなかったが、 いつのまにか、・・・まぁ、何だ、頼んだ」 「頼まれました」
ゴドーの頼みなら、とチェコの心は踊った。 理由があれば、動きやすい。
翌日の教室で、エリックグループは静かだった。 チェコがリオネに声を掛けて、グループに一瞬入って来るのは、 いつものことなのだが、出て行かない。
カルロがチェコに遠慮をして喋らず、 ダダが苛々し、エリックがリオネをちらちらする。
「チェコ?」
リオネに全てが託された。リオネがチェコに伺いを立てた。 ここが正念場だ。
「話入れて」 「・・・」 「はぁ?!」
ダダが大声を出し、カルロが盛大に困り顔を作った。
「何かいつも面白そーじゃん、 彼女と別れてから孤独でさ」 「チェコも孤独とか感じんだ」
カルロの声はどこか上滑り。
「リオネも居るし」 「じゃリオネと二人で居ろよ、 俺おまえ苦手なんだよ」 「克服して」
ダダの主張に、緩く噛み付く。
「俺、チェコ居てもいいよ」
まさかのエリックの助け舟。 カルロがダダを伺った。 カルロの顔は、困り顔から、 好奇心に輝く顔になっていた。
「まじかよ」
ダダがうんざり声を出し、 チェコはこの闘いへの、勝利を確信した。
*
「ダダはさ、 エリックの時も結構あからさまに、 嫌いとか言ってたんだよな、 でもカルロがエリックかまってる間に、 なんだかんだほだされてったから、 おまえもカルロと仲良くしてたらいんじゃないのかな、 ていうか、寂しいなら、しばらく俺一緒いようか」
昼休みに昼食を買いに行く廊下。 リオネは相変わらずの優しさを披露した。
「どうせまた彼女できて付き合い悪くなるだろうし、 そうなったらこっち、寂しくなったりする空気、 やだし、・・・エリックがおまえに影響されて、 作ろうとか考えたら厄介だからさ」 「してくれる友達いっからたぶんここしばらくは、 大丈夫」 「・・・」 「俺が彼女つくんの、性欲でだし、 これからは友情優先でやってく気・・・、 おまえと一緒にいたい」 「え、何、してくれる友達って」 「わかるだろ」 「わかるけど、それどうなんだよ、 俺そういうの微妙かも、 なんか、好きじゃない」 「おまえほんと好青年な」
昼の廊下は賑やかで明るい。 軽口のつもりで、言った言葉に、 リオネは返事をしなかった。 黙ってしまったリオネの心が怖い。 嫌われたのだろうか・・・。
買い物を済ませてもまだ、無言のままの帰り道。 こんなに、嫌われることに怯えたのは初めてだ。
「ごめん」
食堂と校舎の渡り路、コンクリートの日陰道。 渡り路を囲む木々が音を吸い込むのか、 交通量の割に、静かな道で、咄嗟に謝った。
「あの、なんか、俺、悪かったよな? ちょっと不真面目、だったかも、 なんか、言われて気づいた、 考え直す、・・・から・・・付き合い方」
気に入らないなら、直すから。 嫌いになったりしないで欲しい。
「いいよ別に、おまえの好きにしろよ」 「・・・そういう突き放した言い方すんなよ」 「突き放してる?」 「なんか不安になる」
前を向いていて、ふいにこちらを向いた、 リオネが笑った。
「チェコってさ、なんか、俺に懐いてるけど、 なんで?」
懐いてるなんて、思われていたのか。
「おまえに構われるのが、心地よかったから、かな」 「俺、そんなにおまえに構ってたっけ」 「構ってたよ、構うなら責任持って永久に構えよ」
「リオネ」
ゴドーの声がして、チェコとリオネは自然と背筋を正した。
「お、チェコも一緒か、 悪いけど今から、 バスケ部集合掛けてくれ、 おまえ学年部長だろ?」 「はい」 「このメモの内容で、 連絡網」 「はい、あ、えっと」
買った昼食と財布と、ハンドタオルを、 手にしたリオネが慌てだしたので、 ハンドタオルと荷物を預かる。
「さんきゅ」
リオネは礼を言いながら、 ゴドーからメモを受け取った。
「頼んだぞ」
ゴドーは素早く去っていき、 リオネはメモを見つめた。
「先輩の字、相変わらずだな・・・」
メモには、でかくて力強い文字が躍っていた。 荷物は教室に着いてから返そう。
考えた矢先に、リオネはやんわりと、 荷物の受け取りをしようとして手を伸ばした。
「いや、いいよ教室で」 「や、悪いから」
メモを尻ポケットに突っ込んで、 受け取り準備万端。
「はっくし」
妙なタイミングでクシャミが出た。 鼻水もバッチリ出た。
「うわ、鼻水、 タオルだけ今度でいいわ、 使えよ」
言われて鼻にタオルを当てた。 ほんのりと、蜂蜜の薫りがした。
「ん・・・」
鼻を拭いてから、リオネの肩を嗅いだ。 同じにおい。
「なんか、・・・蜂蜜?っぽいにおいしね?」
「うち、母親蜂蜜狂だから」
「・・・無臭じゃなかったんだな、おまえ」
「え、くさい?」
「くさくはない」
無味でもないのかもしれないが、 それは噛んでみないとわからない。
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