真人は昔から自分の力をよく弁えているので滅多なことでは怒らない。何の力か、それは真人の姿を見ただけで大抵の者が理解できる。 ヤクザ以外の職には就けないと自認せざるを得ない強面と、子供の頃から同世代の人間を上回って、今や身長190センチ、体重100キロを超える体つき。長年の夢が叶って、職業は関東随一の人員を誇る広域指定暴力団・東郷会の4代目会長だ。加えて、腕っ節も強い。どのくらい強いかというと、愛刀一本でアサルトライフルの弾丸が飛び交う戦場を縦横無尽に駆けれるレベルである。 だから怒らない。怒らなくても皆、黙って従う。勝てるケンカはしない主義だ。弱い者いじめは見ていて気分が悪い。威張り散らしたってシノギは上がらないし、恐怖政治は仕事の効率を悪くする。頭の足らない極道は淘汰されるご時勢、何事も暴力沙汰で解決できる時代はとっくに過ぎた。常日頃から幅広い視野と冷静沈着な判断力を持ち合わせておかなければならない。 しかし締めるところは締めておくべきだ、とも思う。ヤクザになる人間は血の気の多い単細胞だけではない。構成員1万人を誇る東郷会には悪知恵が回る、腹の中にどす黒い思惑を秘めた人種もいる。いなければ組が成り立たないし、彼らの行うインテリ事業に細々と口出しするつもりもないが、ヤクザはプライドの高い生き物なのだ。ここまでコケにされたらキレてもいいはずだ。いい加減、このクソガキには――といっても今はもう20代後半に差し掛かる立派な大人なのだが――それをわからせるべきだろう。今後のためにも。 と、懸命に自分に対して言い聞かせてみたものの、イマイチ怒りのボルテージが上がらない。黙って、休日の映画鑑賞に勤しんでいる。もう何度目になるだろうか、毎度毎度、人が「好きだ」と告白する度に茶化して貶して、冗談で流そうとして、最終的には「あー、もう、うるさいなぁ!」と逆ギレしてくるクソガキ、もとい、フェイを膝の上に抱えて。 「真人さん、飲み物取って」 「空だ」 「じゃあいい。いらない」 ハリウッド映画の英会話に混じって短い会話が交わされた。外はまだ明るいが重厚な遮光カーテンに遮られて部屋の中は薄暗い。大きな液晶画面に映し出されている映像だけが光源だ。フェイの要望どおり、映画館に近い雰囲気だが、映画館ではこんなに寛げない。2人が飲んでいるのはウォッカとラムで、真人はフローリングの床に敷いたクッションの上に陣取り、グラスを置いたガラステーブルに肘をつきながら、イマイチ現実感に欠けるアクション映画を眺めている。 フェイは画面に顔を向けたまま、一切動こうとしない。DVDプレイヤーにディスクを押し込んだ後、何も言わず、当然であるかのように真人の膝の上に鎮座した。 別段、特に普段と変わらない行動である。2人の関係は親子に等しい。血の繋がりは一切なく、年も10ほどしか離れていないが、真人がフェイと出会った時、フェイはまだ10歳にもなっていなかった。対する当時の真人は19である。 フェイは出自が武装ゲリラで、偽装戸籍しか持っていない世界規模の犯罪者で、人並み外れた高知能で常に悪巧みを練っている腹黒の性悪だが、昔から変わらす甘えたがりのクソガキだ。いくら成長しても根本は変わっていない。 その証拠に真人が何気ない風を装って「渋谷に越したんだが、一人暮らしにゃあ広すぎて落ち着かねぇな」と零したら、あっさりとこの家に住み着いた。 この家は渋谷のド真ん中に建つ高層マンションの最上階にある。ワンフロア一室のかなり贅沢な居住空間だ。平均的な価値観を持つ人間ならば、誰しもが「一人暮らしには広すぎる」と思うだろうし、フェイの性格は非常に面倒くさがりな仕事の虫だ。フェイの職場である紅貞組事務所は渋谷にある。加えて、上野のフェイの自宅は居候に占拠されている。 甘えたがりな本性を認めていないフェイでも、これだけ過分に理由を取り揃えれば住み着く。頭の回るフェイのことだから目論みは全てバレてしまっているだろうが、バレても真人はフェイがこの家に住み着くと考えていた。フェイは真人のことを家族だと認識している。甘やかされることに一片たりとも疑念を抱かない。 真人は昔から、フェイがそうなるように仕向けてきた。 フェイのことが好きだからだ。 かれこれ20年ほど前に出会って、しばらくしてから惚れ続けている。そして未だに少々、自己嫌悪を感じざるを得ないが――フェイが小学校に通っている年齢の頃から性欲の対象として見てきた。 ショタコンと言われても好きなものは好きなのだからどうしようもない。どうしてこうなったのか、せめてもの救いはフェイ限定であることだろうか。成長しようが、身体に傷を負おうが、フェイ以上に抱きたいと思う人間は現れない。20年間、一度たりともだ。どれだけ他の人間と身体を交わしても、最終的に行き着くのは脳裏に描いたフェイの痴態である。 いい加減にどうにかしたい。だから「好きだ」と告げたのにマトモな返事が返らない。 否定されないのだ。煙に巻かれるだけで。 取る行動も今までとまったく変わらない。だから余計に対応に困る。たとえば今だってそうだ。 フェイは抱えた膝の上に顎と手を置き、腰に真人の片腕を巻きつかせたまま、テレビ画面をじっと見ている。取り立てて美人ではないが十分に整っているといえる横顔だ。短く艶やかな黒髪が頬を掠めて密着した背中からは深く静かな息遣いが伝わってくる。寝巻き代わりの使い古したYシャツから垣間見える鎖骨、力を込めたら折れそうなほど細い腰が手元にある。 真人は爆発音と共に降り注いだ赤い光に目を細めて、ふと我が身を鑑みた。 同性愛者であることを知られていて、告白もして、同じ家に住んで、休日にイチャつきながら映画鑑賞している現状を客観的に見てしまった。 「……欧米か」 耳に覚えのあるツッコミが思わず零れた。39歳と推定27歳でこんな風に仲良しな父親と息子はいない。少なくとも日本国内にはいない。スキンシップ過多な欧米でも稀だろう。 声に反応して、フェイがチラリと視線を投げかけてくる。 「何、旅行にでも行きたくなった?」 ツッコミのセリフだとは思わなかったらしい。展開の読めた映画に飽きたのか、その展開自体が気に入らないのか、不機嫌そうな声音で「俺、アメリカには行きたくない」と続けてぼやき、抱えていた膝を崩して足を伸ばして真人の胸に頭を預けてくる。 「国内でよくない?」 「いいのか?」 「なんで俺に聞くの?」 「行くとしたら2人っきりだぞ」 「……それが何? どこに支障があるの? わかんないんだけど」 わざわざ2人っきりと言った意図が、まったく通じていないらしい。フェイはしばし間を置いてから疑問を発し、眉間に皺を寄せて小首を傾げている。 「おめぇ、俺が言ったこと覚えてねぇのか」 「何の話?」 「好きだっつってんだろ。2人っきりで旅行したら襲うぞ」 「なにそれ怖い。抵抗できなさそう」 茶化すような言葉がすぐさま返った。毎度変わらぬ応対だ。まさに無警戒そのものといった様子で、預けられた頭の重みは軽くなるどころか重くなっている。 しかも、どうやら眠たいらしい。 「暗いトコにいると眠くならない?」 「寝りゃあいいだろう」 「眠い時って動くのめんどくさいよね」 「運べってのか」 「まさか。東郷会の会長さんにそんな命令できるはずないじゃない」 しこたま呑んだラムの影響もあってか、トロトロと紡がれた言葉は本性丸見えで捻くれていた。フェイが所属している紅貞組は東郷会の二次団体で、紅貞組の若頭を勤めるフェイは真人よりも随分と格下のヤクザ者である。 だが、この文句はやっかみでも厭味でもない。 「旅行は無理だよ。明日からまた仕事だし。ねぇ、昨日の案件どうしようか? 4代目のご意見を聞かせてもらえない?」 スッカリ瞼を落として語る口調は幸せに満ちていた。フェイは紅貞組に所属してからずっとこうだ。どんな激務であっても楽しくて仕方がないらしい。 「おめぇに任せる」 「いいの?」 「信用してるからな」 言って、ガラステーブルについていた肘を持ち上げた。そうして腰と膝の裏に腕を回し、フェイの身体を俵抱きにして立ち上がる。 フェイは真人の肩の向こうに頭を垂らしたまま、「ふふっ」と上機嫌に笑った。フェイは何故だか、このろくでもない運び方を気に入っている。 寝室のドアを開けて、巨大なキングサイズのベッドに横たえてやると、緩んだ口元が何かを訴えるように動いた。 「なんだ?」 ベッドに片膝を乗り上げて覗き込んだ真人の顔を、半ば夢の世界に旅立っているような眼差しが見上げてくる。 何を訴えているのか、長年の親子関係で汲み取ってしまった真人は内心で大きくため息を吐いた。 期待と、その奥に不安を孕んだ双眸は、紛れもなくクソガキの性分を表しており――、 「おめぇはよくやってる。おれぁ大満足だ。これからもこの調子でシノギを上げろ」 真人は、本当は「休め」と命じたいところをグッとこらえて、こう言うしかない。 フェイが仕事の虫になっているのは真人に認められたいからで、楽しそうに仕事をこなすのは真人の役に立つことが嬉しいからだ。
――ねぇ、少しくらいは役に立ってる? フェイは紅貞組に所属してからしばらくして、ふと洩らした。 この時のフェイは役に立つどころの話ではなく、数千万の利益と後に繋がる事業を成功させたばかりだったのだが、当の本人はまったくもって手ごたえを感じていなかった。IQ200を誇る基本能力値と、数千人に上る難民の食い扶持を稼がねばならないという今までの目標が高すぎて、この程度の収支では達成感を感じられないらしい。 ――少しどころじゃあねぇ。凄まじく役に立ってるぞ。これからもこの調子で頼む。 上機嫌で応じた真人に、フェイはパチパチと瞬きを繰り返してから呆けた様子で「うん、頑張る」と相槌を返した。
味気ない、受け取り方によっては「この程度でいいのか」と慢心したような相槌が単なる真意であったことを、真人は後に思い知らされた。 この一件があってから、フェイは今まで以上に働くようになった。休みなく文句も言わず、まさに心血を注いでシノギを上げる。 そうして時折、今のような期待と不安を孕んだ眼差しを向けてくるのだ。 ――ねぇ、役に立ってる? 金でも地位でもなく、ただ言葉だけを欲しがって、噛み締めるように味わう。 そんなクソガキを性欲の示すままに襲えるならば、ガキの時分から我慢していない。 見ようによっては情欲を煽られる類の、酒と眠気で潤んだ瞳で見つめられても行動を起こせない理由はこの一点に尽きる。 「いつになったら親離れしてくれんだ?」 真人は、すぴょすぴょと間抜けな寝息を立てるフェイの鼻っ面を撫でて、小さく呟き、 「まぁ、その前に俺が子離れしろって話だが」 我ながら出来もしないことを口にするもんじゃあねぇな、と唇を閉じて、苦々しくも満ち足りた笑みを浮かべた。
終.
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