今村ヶ原の当主は24代目。 巨大財閥の一端を担う家で、古くは室町時代から続く名家だ。 代々、執事をつとめる実池は89代目。 彼らは子どもの頃から執事として教育され、20歳になると今村ヶ原の当主に仕えるが、その任期はとても短い。 「みけはどっちがいいと思う?」
メイドが両手に掲げたスーツを見比べ、尋ねると、実池は「あかつき様には、どちらもよくお似合いです」と、あたりさわりのない答えを返した。
つまらない思いを抱えながら、色の濃い方を指した。 正直、どっちでも良かった。かまってほしかっただけだ。 実池がスーツを受け取り、俺の背後にまわって着せてくれる。 そでを通しながら、「タイはどうしたらいい?」としぶとく尋ねた。
「そうですね。あかつき様は赤がとてもよくお似合いですので、こちらの色味などはいかがでしょう」
俺の不服そうな空気を感じ取って選んでくれた。 艶のあるえんじ色のタイは、俺も気にいっているものだ。
「前を失礼いたします」という声は固い。
実池は俺の前にひざをついて、えりもとに指をはわせた。 着替えを手伝う時は、いつもひざを折らなくてはならない。 その姿を見下ろしながら大変そうだとは思うけれど、実池が俺よりも小さくなって、俺に触れているこの瞬間は好きだ。
実池の髪は短く柔らかで、光に透かすと赤くなる。 1年前まではきっちりと黒に染めなでつけていたが、俺はこの色が好きで染めることを許さなかった。
「パーティなんて久しぶりだから緊張するなあ。ホテルじゃなくて梶の屋敷でやるんだろ?あそこ、財界の要人を呼ぶの好きだね。みけも来なよ。どうせ500人くらい集まってるんだから、1人増えたってわからないよ」
「戯れをおっしゃらないでください。招かれてもいない、わたくしのような者が参じては、今村ヶ原家のご当主のお立場を悪くしてしまいます。梶様のお屋敷まではお供させていただきます」
「疲れそうだなぁ。サボろうか、みけ」
「あかつき様…」
苦しげな実池の顔を、ちらりと盗み見た。「冗談だよ」
グループ傘下の会社がいくつか不渡りを出している。 まだ親会社にはたいした影響はないが、大手企業へのつなぎを作るため、パーティを欠席することはできない。
「帰ったら、みけが遊んでくれる?それなら頑張るけど」
実池は頭を下げた。 了承したというよりも、儀礼的な態度にすぎなかったけれど、俺は鏡ごしにそれをしっかりと見つめて、言質をとったつもりでいた。
急に夜が楽しみになる。 実池になにをしてもらおう。 実池はなんでも叶えてくれる。俺の思い通りに動く、年上の男だ。 俺は学校すら通っていないので、世間にくわしくないけれど、『執事』などという存在がそばにいるのが特殊だということは知っている。
「みけはさあ、恋人とかいらないの。28だよね。普通なら結婚して子どもでもいる歳でしょ」
「どうなのでしょうか。幼い時から執事としての教育しか受けておりませんので、普通という概念にはうといのです。私の望みは執事としてお仕えすることですから、あかつき様のおそばにいられる間は、結婚はしないでしょう」
「それじゃ、一生できないだろ。あきらめて俺の恋人になったらいいのに」
「そのようにおっしゃっていただけるのは光栄ですが、あかつき様にはお幸せになってほしいのです。僭越ながら、あなたには一生添い遂げられる相手を選んでいただきたい。わたくしではお役にはたてません」
そう言ってまた微笑む。 実池は優しいし従順なのに、本当に残酷だ。 どんな願いを叶えてくれても、俺のことを好きになってという望みにだけはこたえない。 ガキのたわごとなんか聞いていられないって、切り捨ててもらったほうがまだましだ。
子どもの頃から実池が好きだった。 実池は俺の父親の執事だった。けれど父は早世した。 たった数年の付き合いなのに、俺が止めなければ、実池も一緒に死んでいただろう。
俺は浅はかにも当主になれば、なにか変わると思っていた。 だって、実池の人生には、今村ヶ原の執事以外の道は、ほんのわずかも残されていない。
この仕組みは、大昔にはじまった。 今村ヶ原家を興したのは、幕府を支えた守護大名のひとりで、実池は大名の抱えていた忍びだった。 実池の祖先は大名に仕え、大名の命令で死んだ。 以後もこの主従関係は続いている。
「みけはさあ、不幸だと思ったことはないの。ただ、実池の家に生まれただけで、執事なんて時代錯誤な責任を負わされてさ。もうやめたいって思わない?俺なら、みけを自由にすることができるよ。実池にはまだたくさん執事候補がいるんだろ。執事は別にみけじゃなくてもいいし、この家で暮らしながら好きなことをしていいよ」
実池は虚をつかれたように、きょとんとした顔をみせた。 年齢不詳の微笑が常で、そんな風に素顔をみせるのはめずらしい。
「あかつき様はやはり御父上にとても似ていらっしゃいますね。前代からもそのようにお声をかけていただいたことがございます」
「父さんに?」
「はい。執事の職を辞して、好きに生きてもいいと言っていただきました」
「なんでその時に逃げ出さなかったの?実池のしきたりってそんなに厳しいんだ」
「いいえ、前代にはこうおこたえしました。わたくしの幸せは今村ヶ原のご当主にお仕えすることですと。逃げ出した先に、行きたい場所などありません。一生を捧げるのに、悔いのない仕事だと思っております」
俺は実池の落ちついた声が好きだ。 とても好きだ。ふせたまつげも、色の薄い肌も、あわれなところも全て好きだ。
手を伸ばす。 実池はまるで、幼い子どもを見守るようにおだやかに微笑むだけだ。 無遠慮に頬にふれられても身動きひとつしない。 そう訓練された成果なのか、少しの危機感も感じていないのか、俺にはわからない。
しかたないのだ。 俺の背丈は実池の肩まですらないから、それで子ども扱いするなというほうが無理だ。 けれど、俺は父親が生きていた頃から、かたわらに静かに控えている男が好きでしょうがない。
「俺がいくつだったら、みけの恋愛対象に入ったのかな。20歳だったら?18歳なら男は結婚できる歳だろ。それとも、高校生くらいなら相手にする?15なら来年だよ」
わざと軽く言ってのけた。 教育課程だけでいえば、すでに大学卒業程度の知識はあったが、それでも家名をとりはずせば、未成年のただの子どもでしかない。
間に合わない。 それでは、全然間に合わないのだ。 焦燥感が身を包む。 成長痛にきしむ手足や骨の浮く薄い身体では、実池には釣りあわない。 心を手に入れることなどできない。
「お車の用意ができました」
コートを羽織って屋敷を出る。 今村ヶ原の屋敷は、都内にありながら広大な土地を所有している。 外から見ただけでは、建物の輪郭もわからないはずだ。 屋敷の外にひろがる所有する企業のすべても、今は当主である俺が背負っている。 重いとは思わなかった。 実池が執事に誇りを持っているのと同じで、俺はこれ以外の生き方を知らないし、選びたいとも思わない。
黒塗りの車には、約束通り実池が同乗した。 運転席と後部座席には仕切りがある。俺たちのいる後部座席には2人だけだ。 実池は俺の向かいに座って、ひっそりと空気のように存在を消していた。
「お暇をいただきたいのです」
そう、切りだした。 ある程度、予想していたことだったのに、俺はひどく動揺した。
「みけに好きなことしてもいいとは言ったけど、出て行ってもいいとは言ってない。もう戻ってこないつもり?」
「いいえ、そうではありません。実池の家から新しい執事の教育をと言われております。あかつき様のおそばを離れるのは心苦しいですが、後継者を育てていくことも、今村ヶ原のお家のためには必要なのです」
「今村ヶ原のため?みけは俺に仕えているんだろ。それならずっと俺のそばにいなよ」
「わたくしが留守の間、かわりにお仕えする者は、実池でも特に優秀だと評されております。おそらくその者がわたくしのあとを継ぐことになるでしょう。今から少しずつでも仕事を任せておけば、後のためにもよろしいかと思います。おそばにおいていただけませんか?」
「そいつをそばに置いたとして、みけは本当に戻ってくるの?」
俺の質問に、実池はためらわず「はい」と答えた。
嘘だ。もう戻ってこないつもりだ。 顔色のかわらない実池を見て、俺はそう悟った。
好きだと告げた時から、こうなることはわかっていた。 執事として仕えている彼が、当主の負担になると判断すれば、気に病まないはずがない。 自ら身をひくだろうとわかっていた。
一年前、父親が死んだ。 実池は涙のひとつも見せなかったけれど、死にそうにみえた。 泣き叫ぶより辛そうにみえた。 子どもの時から実池のことしか見ていなかったから、自分の答えには自信があった。 今よりさらに背の小さかった俺は、実池の手を握って、「待ってて」と言った。
「みけが恥ずかしくない当主になる。みけが執事で良かったって思うような、立派な男になるから心配しないでいいよ」
「…それなら、あかつき様は長生きしてください。わたくしは、それだけであなたにお仕えして良かったと思えます」
「長生き?それでいいの?みけは若いのに、なんかおじーちゃんみたいなこと言うなぁ」
泣きそうな実池を励ましたくて、俺は笑った。 思えば実池が弱音をこぼしたのは、あの時だけだった。 その時はまだ知らなかったのだ。 実池といられる時間が、あとわずかだということに。
正式に当主となっても、若すぎることを理由に後見人がついた。 誰にも負けぬよう、子どもだからとなめられ操られぬよう、それまで以上に経営にのめり込んだ。 表向きには叔父の名で傘下企業を調べ上げて、経営不振が続く会社の重役の交代も命じた。
実池は優秀な秘書でもあった。 彼の力を生かすため、俺は身の丈に合わない努力でもあってもしなくてはならなかったが、実池と一緒だからつらくはなかった。 当主としての役目をはたせば、子どもの頃からずっとあこがれていた彼を、ひとりじめしていけるとばかり思っていた。
そして半年がたった頃、実池に恋人になってくれと告げた。 今までどおりに返事をはぐらかすのか、それとも俺のことを少しは大人扱いしてくれるのか、内心でわくわくして彼の反応を待った。
はじめて、実池が俺に笑顔以外の表情をみせた。 どんなふうに思っているのか少しも読みとれない、冷やりとするほどの無表情だった。
「ご当主になられたからには、お伝えしなくてはなりません。実池の者は昔から長く生きられないのです。おそばに長くお仕えすることはできません」
「…生きられないって、どういう意味?」
「実池に生まれる男子は短命なのです。病で死ぬ者も事故に遭う者もおりますが、かならず30歳をむかえずに、死んでいます。開祖から続く呪い、と呼ばれています」
なにを言っているのかよくわからなかった。 ただ、実池がいなくなってしまうかもしれないという恐怖に、俺は怯えた。
ありったけの書物を漁り、これまでの今村ヶ原の歴史を調べてみれば、やはり年老いた執事はひとりもいなかった。 当主しか立ち入れない部屋で、古い書も見つけた。
大名は忍びのひとりをある儀式につかい、その見返りに栄華を手に入れた。 儀式の生け贄としてささげられた忍びの男には、妻も子どももいて、死んだ時は30歳だった。 20歳で執事になり、たった10年。 実池はそれだけしか生きることができない。呪いという他なかった。
揺れを感じさせずに走っていた車の、速度が落ちる。 実池が素早く携帯電話を取り出し、助手席のボディガードに確認を取ったが、自然渋滞ということだった。 車窓には夕暮れの街並みが流れる。 窓は外から覗きこまれないようになっているが、行き来する学生が物珍しそうに車に目をやる。 俺の視線を気にした実池が、窓に色をつけようとしたけれど、それをとめた。
夕陽に照らされた実池の指は綺麗だった。 そろえた指先が、黒いスーツのひざの上に置かれている。 力が入っているようには見えないのに、少しも動くことのないそれを美しいと思った。 車が建物の影に入ると、陽の光が届かなくなって、薄暗い中ではまるで消えてしまいそうだと思った。
キスしたら驚くだろうかと思ったけれど、俺にはできなかった。 そんなたわいのない想像だけでも、目まいがする。 たぶん俺はキスしたら泣いてしまう。
「みけ、休むのは許さない。仕事もやっと軌道に乗ってきたんだから、みけがいなかったら困る。夏休みならそのうちまとめてとらせてあげるから、今はそばにいなよ。実池の教育係なんて、それこそ他に誰だってできるだろ。それともなにかしたいことがあるの?それは、俺よりも大事なこと?」
実池は少しだけ、困ってしまった。 けれど、俺が『仕事』を切り札に使えば、断ることができないとわかっていた。 恋人になってほしいなどと言いださず、当主の顔をしていれば彼はそばにいてくれる。
あともうすこしだけだとわかっていても、俺はその残りにすがっていた。 早く早く、大人になりたい。 実池を好きでいられる時間は、好きになってもらうには、時間が足りない。
実池が俺に話をしてくれた後、俺はまた好きだと告げた。 二度目の本気の告白は、実池の予想を超えていたようだ。 あの時だけは悲しそうに顔をゆがめた。
俺はあれを見て、彼のことをあきらめなくてはいけなかったのだろう。 けれど、子どものわがままのように、好きだという思いを断ち切ることはできなかった。 実池はあれからいつも、俺のそばで苦しんでいる。
「仰せの通りにいたします。わたくしには、あかつき様のご命令以上に大切なものなどありません。この命が尽きるまで、おそばに仕えさせてください」
少しだけうれしそうに残酷なことを言う、彼の手をもう一度強く握った。
「ありがとう。みけのことがとても好きだよ。忘れないで」
じっと見つめると、わずかにその目が揺らいだ。 まばたきをするのが、まるでなにかの返事のように思えた。 ただの想像にすぎない合図に、胸がきしむ。 心のどこかで、実池がそれをくちにしないことも、わかっていた。 完璧な執事は、当主におかしな期待などさせはしない。
それでも、と。 俺は未来を思いえがく。 それでも、実池が俺を好きだと言ってくれたら、たとえすぐに終わってしまう恋であっても、俺はむくわれるのだ。
「みけは実池に生まれなかったら、なにをしていたのかな。やっぱり、秘書とかしていそうだね」
「そうでしょうか」
「頭も良いし上品だし、スーツもとびきり似合うし、秘書がさまになるよ。中学生に懐かれたって、冷たくあしらうだけじゃないの。たとえば俺が、あんなふうに外を歩いている学生のひとりだったら、実池は俺の名前すらおぼえてくれなかっただろうね」
実池は俺の戯れに驚いて、また瞳をまたたかせた。
「そうでしょうか」
「そうだよ。何、同じ言葉繰り返してるの。みけらしくない」
「別の人生を歩んでいたら、などと考えたことはありませんが、たとえばあかつき様があの中のひとりであったとして、わたくしはあなたを見つけられないでしょうか」
そう言って、窓の外をながめる。 どこか不思議そうな様子の実池を見て、怒鳴りたくなった。
「当たり前だよ。だいたい、みけがどうやって俺に気づくの。ああ、今村ヶ原って名札ぶら下げてれば、俺でなくても『当たり』だと思うってこと?」
「あかつき様が、わたくしを見つけてくださるのではないですか?そんな気がいたします」
「は?」
「わたくしは、あなた様が名を呼べば、どこにいてもお側に参ります」
「なにそれ。たとえ地球の裏側でも?」
「地球の裏側にいても、あなたが呼べばわかります。わたくしは、あかつき様のために存在する執事です」と、実池はやっぱり柔らかく微笑む。
ああ、やっぱりキスしたら泣いてしまうだろうな。
実池は知らない。 俺は世界の時間をとめたいと願っていた。 実池と少しでも長く一緒にいるため、時間なんかとまればいいと願っていた。
それと同じくらいに、早く早く早くと、時間が過ぎ、結果がでるのを待っていた。 俺は実池に大きな隠し事をしていた。 知れば、彼が絶望してしまうような大きな隠し事。
半年前のあの日。 実池からすべてを聞いて、俺は実池にかけられた呪いを解く方法を夜が明けるまで考えた。 そうして、これしかないと思いついた。 呪いをかけられたのが『主従関係』自体なのだとしたら、実池の代々の執事が犠牲となり、守り続けたものを俺が断ち切る。
今村ヶ原の家を、俺がつぶす。
そのために、傘下の会社がさりげなく業績不振になるように差し向けている。 そして、実池以外の側近に、今村ヶ原の汚点を過去にさかのぼり洗い出させていた。 準備が整えば、すべてをつまびらかにするつもりだ。 そのために、俺の後見人である無能な叔父を表に立てて、いざという時には彼からの告発というかたちをとる手はずを整えている。
このことを知れば、実池はきっと俺を止めるために、命を絶つくらいのことは平気でする。 それとも、と俺は微笑んだ。 それとも実池は、『今村ヶ原』を守るために、俺を殺すだろうか。
これは崖のふちにゆらぐ、賭けだった。 もしも、俺のやり方で呪いが解けなかったら、実池はあと2年で死ぬ。 必ず呪いを解かなくてはいけない。 そうして同じくらいの必死さで、彼に好きだと言って欲しかった。 もしも呪いを解けなかったら、俺は永遠に実池を失ってしまう。
車が到着して、実池は先に降り、女性にするように手を差し出した。 西日は彼の赤い髪を照らしていた。それがまぶしかった。
「あかつき様?」
たとえ遠くない未来に実池がいなくなってしまっても。 最期のたった一秒、うなずくだけであったとしても、実池が俺の思いにこたえてくれれば、俺はきっと幸せだと思える。 当主としてではなく、俺を好きだと言ってくれたら。 そうすれば、何度だって実池が俺にこたえてくれた一秒を思いだして、永遠のように積み重ねることができる。
「いま行くよ、みけ」
俺はいつでも息を殺して、はじまりの一秒を待っていた。
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