元々、アイツに告白されて始まったつき合いだった。
出会いは一年前の夏。 その日は野球の練習試合の帰り道、突然の土砂降りに、あわてて走った俺に傘を差し出してくれた。背の高い大人の男に見下ろされてにっこり微笑まれ、わけもなく俺の心臓は高鳴った。なんの間違いだと焦ったが、俺の髪からぽたぽたと垂れる雫を指で掬われて、胸の動悸はいつまでも収まらない。目に入る道端の紫陽花がやけに色鮮やかで、弾けて光る水玉がいつまでも記憶に残っている。
アイツは女なら誰でもうっとりするような容姿を持ちながら、どこをどう見初めたものか俺がいいのだと言う。前から俺ばかりを見ていたと。俺は野球のことしか頭にない平凡な学生で、しかも男だ。一流会社のサラリーマンだというアイツの言葉をどこまで信じていいものか。
それでも二人で過ごす夏は楽しくて、プールに海に花火大会。必ずアイツが迎えに来てくれた。キャッチボールの相手もしてくれるし、ナイター観戦にも付き合ってくれる。年上のこともあって、いつも優しく寛大だ。涼しげな顔でどんな要求にも従ってくれる。
俺は、以前付き合っていた子が相当な我儘で、いつも振り回され疲れ果て、結局大喧嘩の末別れた過去がある。俺が野球のことばかり話すのが原因だったかもしれないし、お互い子供だったし。そんなことを思い出し俺は身構えた。今度は相手の言い成りなんかになったりしない。
アイツが俺に、献身的なまでに接してくれることをいいことに、いつしか甘え、その内ぞんざいに扱ったり冷たくするようになっていた。アイツが電話をくれても面倒くさそうにすぐ切ったり、メールも毎回は返さなかった。約束をすっぽかしたのも一度や二度のことではない。それでもアイツは困った子供の面倒を見るように笑って許してくれた。
いつしか俺は、アイツから盲目的に好かれているのをいいことに、自分の方がアイツより優位に立っていると錯覚をした。仕事で忙しいのを見計らって我儘を言う。直ぐに来てくれなきゃ別れると言う。いつでも俺の後ろに居ろと言う。俺のルールは唯ひとつ。『俺が王様。俺には絶対服従』だ。 人の前ではわざと冷たい態度を取り、時にはほかの子と遊んでいるのを見せ付けた。セックスでは無理なことをさせて、焦らしたり困らせたり。俺はアイツがオロオロするのを見ては楽しんだ。どんなことをしてもアイツは俺のことを嫌いやしない。
それでもアイツは、俺に会うといつも嬉しそうに笑ってくれたんだ。
季節は巡り再び夏へ。
この夏は初めから予感があった。降り続く雨に、ちっとも顔を出さない太陽。家で過ごすのも大概飽きた。野球が出来ないのにもうんざりだ。アイツには何故か連絡が取れないし。やっと通じた電話も、アイツは会えない言い訳ばかりだった。
その日も、梅雨空はどんより垂れ下がり、雨は降ったり止んだり。久しぶりに待ち合わせた喫茶店で、アイツはぽつんと切り出した。
「実家に戻らなければなりません」
アイツの実家のことは以前から聞いていた。なんでも地方ではかなりの旧家で、今は揉め事でアイツは家を出ているが、いずれは戻らなくてはならないとも。 「へぇー。よかったじゃん。ようやく決着がついたんだ。」 強がりではない。予想はしていたし本音だし。「この夏は誰と遊ぼうか。そんな事より、来年の就活に備えてセミナーはまじめに出なくちゃな」なんて、喫茶店の窓越しに見える、雨に打たれた紫陽花を見ながらぼんやりと考えた。
別れの日もやっぱり雨だ。駅まで見送る俺は何気なく口にする。
「新幹線で3時間ぐらいだろ?また・・・」
隣を歩く傘の中のアイツは、立ち止まるとまっすぐ俺の方に向き直っった。
「または・・・無いんです」
真剣に俺を見下ろす茶色の目。ふいに初めて会ったあの日の紫陽花の道を思い出す。二つの傘、小糠雨が二人を隔てるように降り注ぐ。
「きっと、もう会えません」
え・・・もう、会えないのか?一生?多分?・・・本当に? ・・・もう、会えない・・・
急に頭の中がグルグルしてきて、心臓がバクバク鳴り出した。
「あなたと夏を過ごしたかった」
寂しげな声に、急にヤツの事が一番大切だと気がついた。全身で ブルブル震えながら驚くヤツの手を引いた。傘は飛んで、昼間だって人目だって気にしない。濡れたまま駅前の人ごみを行く。どうしても抱きたくなって、裏通りのホテルに飛び込んだ。
服を脱がしてむしゃぶりつく。押し倒して馬乗りになり俺から求めた。俺からなんて初めてだ。「今まで冷たくして ごめんな!」なんて言いながら、ギリギリの気持ちで抱きしめた。最後だと思うと悲しくて辛くて遣り切れなくて。知らずと涙が滲んでくる。
その時もヤツは、いつものように俺を優しく愛してくれた。予定の電車に遅れて迷惑な筈なのに、嬉しそうに笑ってくれた。 本当に、ずっとこのままでいたいと思った。 そう、ずっと・・・
それでも、疲れ果て眠る俺の、涙で汚れた頬に口づけをひとつ落とすと、ヤツはホテルの部屋から出て行った。寝たフリをする俺の背中は、微かな雨音と遠ざかる靴音だけを聞いていた。
雨が止んだら虹が出る。虹の向こうには青い空と沸き立つ白い雲。灼熱の太陽に抱かれる真夏はもうすぐだ。
結局。
「あんた、・・・なんで戻って来たんだよ」
数日後、俺の隣にはアイツがいる。
「あなたが『行くな』って泣いて頼んでくれたんじゃないですか。」
凄んで睨み付けても、澄ました顔でにっこり微笑む。 ・・・嘘を吐け、俺はそんなコト言ってない。あの時は、わけがわからず、どさくさにまぎれて「好きだ」ぐらいは言ったのかもしれない、けど。
「あなたのために何もかも捨ててきました」
考えてみれば元からこういうヤツだった。『あなたのためなら何でもします』だなんて嘘くさくって。騙されたような、諮られたような。
それでも俺が王様なのには変わりない。これからも黙って俺の言う事を聞け。あんたは俺の従者だ、下僕だ、そして大切な恋人だ。そう、ずっと・・・
久しぶりに顔を見せた太陽は眩しくて、この夏はもっともっと熱くなる。そんな予感を込めた、雨上がり。
|