先生のスイッチを入れてしまったのは僕です。 高校に入学して、クラスの担任になったのが先生だった。担当科目は数学だ。先生はいつも、黒いセルフレームの眼鏡をかけていた。髪は少しだけ長めの黒髪で、毛先にだけパーマがかかっていた。先生は考え事をするときに、眼鏡のフレームを触る癖がある。僕は先生のそのしぐさが好きだった。先生の締めているネクタイは、いつもセンスがよかった。革靴はぴかぴかに磨かれていた。僕はそんな先生にすぐにとりこになった。でも、実際は違っていた。 先生は自分で宿題を出しておいて、忘れることが多かった。スーツのポケットにアイロンのかかったハンカチが入っているのに、手を洗ったあとはぶんぶん振り回して乾かしていた。ホームルームの時間になっても、教室に来ないことは何度もあった。それでも、僕が先生を好きな気持ちは変わらなかった。結局、自分でも先生のどこが好きなのかわからない。
「僕、先生のことが好きです」 放課後の図書室で、先生はテストの採点をしていた。僕は先生がいつもここにいるのを知っていた。図書室に誰もいないことを確認して、僕は告白した。 「あっちゃー……」 先生から返ってきたリアクションは僕には理解できなかった。先生は眼鏡を外して額に手をやった。しばらく沈黙が続いて、僕はらちが明かないと思い、続けた。 「先生は僕のことどう思っています?」 「どうって、好きに決まってるじゃん……あーあ、言っちゃった」 「それはよかったです」 僕は笑った。先生は笑わなかった。 「それが、よくないんだよ」 先生は真面目な顔をして言った。僕は教師の立場を気にしているのかと思った。今思えば、そんなことはあまりにも些細なことだった。
先生のネクタイのセンスがいいのは、いつも選んでくれる人がいたからだった。先生の革靴がぴかぴかなのは、いつも磨いてくれる人がいたからだった。先生が使いもしないのにアイロンのかかったハンカチを持っているのは、いつも持たしてくれる人がいたからだった。 先生には奥さんと子供がいた。 先生は僕に「教師になって可愛い教え子ができた。でも、俺はどこか満足できなかった。だから結婚した。まだ、満足ができなかった。そうしたら、子供が生まれた。それでも、俺は何かが足りない気がした」と話した。 「それは君だったよ」 そう言って、先生は僕にキスをした。でも僕は、先生はきっと僕だけがいてもやっぱり満足しないんじゃないかと思った。先生はそういう人だ。どんなに大切なものを手に入れても、満足できない可哀想な人。こんな関係を続けたって、僕も先生も奥さんも子供も誰も救われない。不毛な関係だ。でも、恋愛に意味を求めたって仕方ないのかもしれない。
僕と先生は毎日、放課後の図書室で会った。先生はいつも一番奥の席にいた。入り口からは、この席は死角になっていて見えない。万が一、誰かが入ってきたときのためだ。先生は今日もテストの採点をしていた。僕は先生の隣に座った。 「あ、関口また赤点なんだ」 僕は二十六点と書かれた関口のテスト用紙を見ながら言った。 「関口君は数学ダメっぽいね。それに比べて、春樹(はるき)は頭がいいよ」 先生は苦笑いしながら言った。丁度、僕のテストの採点が終わった。点数は七十五点だった。 「全然、可もなく不可もなくって感じだよ。大体、頭よかったら先生と付き合ってないし」 「そう? 春樹はやっぱり頭がいいよ」 先生が言っている「頭がいい」はテストの点数のことじゃない気がした。僕は先生の家庭のことに口を出さない。僕は先生に何も求めない。ただ、こうやって図書室で一緒に過ごすだけだ。僕は社会のルールを侵している。だから、今以上のことを求めちゃいけない。苦しいけど、自分を被害者にしてもいけない。先生ははっきりと「妻とのことは大人同士だからどうとでもなるけど、子供は傷つけたくない」と言っていた。僕は先生のそんな気持ちを大切にしたい。先生はずるい。ずるいけど、そんな先生との関係を断ち切れない僕は最低だ。だから、せめて僕は物分りのいい大人を演じている。大人の恋愛をするなら、大人のルールを守るしかない。先生は僕のそんなところを「頭がいい」と言っているんだろう。先生は本当にずるい。そんな風に言われたら、先生を困らすことができなくなる。 「今週末、春樹の誕生日だよね。何が欲しい?」 先生はすべての採点を終えると、テスト用紙を片づけながら言った。僕は先生が誕生日を覚えていてくれるとは思っていなかったので、びっくりした。 「意外って顔? ホームルームは忘れるけど、春樹の誕生日は忘れないよ。俺は脳みその節約のために大事なことしか覚えないの」 そう言って先生は笑った。 「いいよ、覚えてくれていただけで嬉しいから」 僕は素直な自分の気持ちを口にした。先生の中にちゃんと自分がいるのが嬉しかった。 「春樹が大人すぎて怖いよ」 「だって、子供とはこんなことできないでしょ?」 誰もいないのをもう一度確認すると、僕は先生の唇にキスをした。 「そうだ、今週末は一緒に食事へ行こう」 長いキスのあと、先生は僕の好きな優しい笑顔で言った。僕はすぐに「うん」と言いたかったが、わざと迷ったふりをしてから「そうだね」と返事をした。
ちょっとオシャレなエスニック系のレストランで食事をすると、僕と先生は街中をふらふらしていた。 「先生、ありがとう。美味しかった」 僕はお礼を言った。 「俺こそ、春樹がこの世に生まれてきてくれてありがとう」 「……クサすぎ」 「はは、そうか」 僕と先生は顔を合わせて笑った。次の瞬間、ほんの一瞬だけ先生の視線が外れたことに気づいた。僕はその視線の先に何があるのか見た。視線の先にあったのは、雑貨屋のショーウィンドウに並ぶ可愛いクマのぬいぐるみだった。僕は心臓をぎゅっとつかまれたように、胸が苦しくなった。今、先生はきっと、自分の子供のことを思い出していた。自分では割り切っているつもりだった。それでも、何でこんなに苦しいんだろう。求めちゃダメだ、何も――。 「先生、やっぱり、欲しいものがあるんだけど」 「おおっ、いいよ。言ってみな?」 僕は後ろを振り返ってクマのぬいぐるみを指差した。 「あのぬいぐるみ」 「え? あんなのが欲しいの?」 「うん。可愛いから」 「まあ、春樹が欲しいならいいけど。じゃあ、買ってくるからここで待ってて」 「ありがとう。ちゃんとラッピングしてもらってね」 先生は不思議そうな顔をしていたが、「わかった」と言って僕に手を振ってクマのぬいぐるみを買いに行った。
「はい、どうぞ」 すぐに先生は、ラッピングされたクマのぬいぐるみを手に持って帰ってきた。 「――それ、先生のお子さんにプレゼントしてあげて。僕は今日、先生と過ごせただけで十分だから」 このとき、僕はちゃんと笑顔を作れていただろうか? 先生の目を見て話せていただろうか? 「春樹……ごめん」 「ううん、気にしないで。僕は平気」 僕は涙がこぼれそうになったので、先生から目をそらした。先生に泣いている顔を絶対に見られたくない。先生は僕の手を握った。 「こっち向いて」 先生は僕の顔を覗き込んで言った。 「やだ」 「いいから、ほら」 「もう、やだって!」 僕はそう言って、先生の手を振りほどいた。自分がぐちゃぐちゃで早くこの場から立ち去りたい。情けない気持ちでいっぱいだ。物分りのいい大人を演じるのももう限界かもしれない。やっぱり、こんな恋愛間違っている。僕は好きになっちゃいけない人を好きになっちゃったんだ。 「ハッピーバースデー、春樹」 先生の優しい声と一緒に、僕の前にリボンのかかった小さな箱が差し出された。僕は何が起こったのかわからず、先生と小さな箱を何度も見比べてしまった。 「開けてみて」 僕は言われるがままに受け取り、小さな箱を開けた。中にはシンプルな指輪が入っていた。 「嘘……でしょ?」 まさか、先生がこんなプレゼントを用意してくれているとは思わず、僕は信じられない気持ちでいっぱいだった。 「俺ってすごい? 惚れ直したでしょ」 先生は得意げに言った。 「うん……かなり」 「でしょ?」 悔しいけど、どんなに大人を演じても、僕はまだ先生にはかなわない。僕は先生に指輪をはめてもらうと、手をつないで秘密のデートの続きをした。
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