「厭な天気ですね。降りそうで降らない」 多湿性の雲が重く垂れ込めた空を見上げ呟く後輩に、眼鏡を押し上げ不機嫌に答える。 「そうだな」 「いつまで時計と睨めっこしてるんですか」 分刻みで深まりつつある俺の眉間の皺を面白そうに眺めやり、そつのない口調で涼しげに言う。 「来ないものは仕方ない。気長に待ちましょう」 「わかってる」 「先方にも事情があるんでしょう」 昼下がりの喫茶店で待ちぼうけを食う。 先方と打ち合わせの約束をとりつけていたのだが予定の時間を大幅に過ぎても現れず、さらには携帯に連絡を入れても繋がらず、心配が頭をもたげる。 「そのうち来ますよ。待ちましょう」 宥めるように言う後輩に苛立ちつつ、携帯をしまう。 「渋滞にひっかかったのかもな」 短気は損気だ。 営業には柔軟な思考と対応が求められる。 昼飯を兼ねて交渉をまとめるつもりが、腕時計を見たら既に二時を回っている。 「あ、降ってきた」 テーブルを挟んだ対岸、スティックシュガーの空き袋を手慰みに細かく裂きながら千里が窓の外を見上げる。 つられて目をやれば、虚空を横断した最初の一滴が窓ガラスに付着し透明な軌跡を曳く。 後を追うように次々と雨粒が滴り落ち硬質な窓の表面に凝結、五分もせずどしゃ降りとなる。 不可視の散弾がアスファルトを穿ち、黒い染みが一面に拡散していく。 小波から波濤へ、激しい勢いで舞い立つ飛沫がガラスを白く曇らせていく。 「天気予報ハズレですね」 「傘もってきてねえよ」 バケツをひっくり返したような大降りに気が滅入り始めたところで携帯が鳴り、直感に従って即座に出る。 「先方からですか」 「ドタキャン」 ピッと携帯を切る。 「古いですね先輩。死語ですよそれ」 「現役だよ」 「死語ですって。世代間格差を感じました」 この野郎。 「トラブルがあったんだと。当分片付きそうにねーから後日日を改めてって事だ」 「仕切り直しですね」千里が鷹揚に頷く。 待ちぼうけを食わされた上すっぽかされたのだが、怒りよりは疲労まじりの倦怠感の方が大きい。 というか、数年営業をやってりゃこの程度の行き違いは日常茶飯事でトラブルの内にも入らない。 「帰るぞ」後輩を促し席を立ち、勘定を済ませ外へ出、突然の雨に逃げ惑う通行人を辟易と見渡す。 鞄を掲げた外回りの営業や腕で頭を庇った学生が行き違う情景に舌打ちひとつ、スーツの肩が濡れないよう窓に面した庇の影にひっこむ。 「駅までひとっ走りするか」 「ここからだとかなりありますよ。雨宿りするのが無難です」 「予報士にクリーニング代請求してやる」 「誰にだって間違いはあります」 とりなすように微笑む。この面だけ見りゃ文句なしの好青年だが、どっこいこっちは本性を知り尽くしている。 雨は止まない。 止みそうにない。散弾銃の一斉掃射に似た雨音が遠近感を狂わす余韻を帯びて鼓膜に響く。 慎重に、千里と離れて立つ。 間違っても肩や指が触れぬよう警戒し、有刺鉄線を張った本能で距離を測り、窮屈に身を強張らせる。 千里は目を細め篠突く雨を眺めていたが、ふとその顔に波紋が広がる。 「犯罪者を見るような目はやめてください。傷付くな」 「……犯罪者だろうが」 甦る記憶がもたらす恥辱に体が燃え立つ。 「忘れたのかよ、この前の」営業で組んでなきゃこいつとなんて口をききたくない。やり場のない苛立ちが胸の内を燻す。 「怒ってます、よね」 機嫌を伺う千里をそっぽをむいて無視する。 気まずい雨宿り。庇の下に並んで佇みながら、どこか悄然として哀愁漂う千里の横顔を盗み見る。 反省している、と見えなくもねえ殊勝な態度。 「もう二度としませんて約束できるか」 「できません」 即答かよ。 「反省してねえなお前」 「先輩が甘いんです」 困ったように苦笑し冗談めかして訊く。 「もし本気で反省したら許してくれますか。本気で謝罪したら、また後輩として接してくれますか」 突然、雨の中へと歩き出すスーツの背中にぎょっとする。 「おい、」 通行人は屋内に逃げ込んだと見えて通りには人けがない。 俺が言葉少なに止めるのも聞かず舗道の真ん中へ歩みだし、プライドも世間体も一切合財切り捨てるようにこちらへと向き直る。 「ここで土下座したら許してくれます?」 口元は笑っていた。目は笑ってない。どっちを信じたものか判断に迷う。 「……高いんだろ、そのスーツ」 「洗えばいいですから」 「靴も。泥ハネしたら大変だ」 「洗えば落ちます」 きっぱり言いきる後輩に対し、せこい文句しか思いつかねえ自分が情けねえ。 おもむろに膝を屈める。 こいつ、本気か? 降りが一層ひどくなる。水を吸ったスーツがどす黒く変色する。通りの真ん中に立つ千里が懺悔するように笑い、水浸しの地面に片膝つく―
「バカ野郎っ!」
思わず叫んで飛び出していた。 乱暴に肘を掴み、足縺れよろける千里を庇の下へ憤然たる大股で引きずっていく。 「謝ろうとしたのに、なんで邪魔するんですか」 拗ねたように口を尖らす千里を忌々しげに睨みつけ胸を突く。 「謝れとは言った。恥をさらせとは言ってねえ」 「……人なんていませんよ。久住さんだけだ」 「窓から見てる奴がいるかもしれないだろ。あと、車」 「心配性ですね」 力なく笑う。 「僕を心配してるんですか。それとも自分が恥かくのがイヤなんですか」 「俺が恥かくのがイヤなんだよ」 断言し、背広から取り出したハンカチを心ここにあらずな後輩に投げつける。 「明日も外回り入ってるだろ。風邪で休まれちゃ迷惑だ」 起きながら夢を見てるような虚ろな顔。 「悪い事したらごめんなさい、親切にして貰ったらありがとう。基本だろ」 ハンカチを畳んでしまい空を仰ぐ。 いつのまにか雨足が弱まってきた。もうすぐ止むだろう。 「……ハンカチ洗って返します」 律儀な申し出を鼻で笑って一蹴する。 「断る。ヘンな染みつけて返されたら困る」 「……信用ないなあ」 シトシトと雨がアスファルトを叩く。 雲間から漉されたような薄日が射し、空が仄明るく光る。 雨と晴れとの中間、晴天へと移り行く端境のひと時。 「行くぜ」この位なら大丈夫だろうと判断、千里を促し駅へ向かおうとして 背後に回る気配。振り向く暇さえ与えず、拒否を表明する間隙さえ許さず、スーツの背中に唇が落ちる。 「っ、」 上擦った声が漏れたのは不可抗力。慌てて奥歯を噛む。 背広の上から肩甲骨の突起をなぞるように、窪みを滑るように柔い唇が滑走し、衣擦れの音に紛れて熱っぽい吐息を紡ぐ。 慈しむような哀しむようなキス。 背をなぞりゆく唇がかすかに動き、音の乗らぬ言葉を呟く。 躊躇いがちに触れ、再び離れていく唇。繊維越しの愛撫に肩甲骨が火照り、悪寒と快感が背筋を貫く。 「てめえ何さら」 「……ごめんなさいって言ったの聞こえました?」
ご め ん な さ い。
ああ、そうか。そう言ったのか。 俺の顔を直接見る勇気はなくて、わざわざ背後に回って、背中に顔を埋めて。 臆病さ故に勘違いされるような行動をして。 「………確信犯だろ、ぜってえ……」 ぎたぎたに張り倒してやりたい。 「顔赤いですよ、先輩」 天然ぶって小首を傾げ、晴れ渡った空の下、先に立って歩き出す。 「さ、会社に戻りましょう」 タクシー拾わずに済んで助かりましたねと無邪気に喜ぶ千里をよそに、俺はまだ、肩甲骨をぬくめる微熱と疼きを持て余していた。
「~謝れよ、ちゃんと……」
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