この日珍しく坂崎は風邪をひいていた。
「……さ、んじゅう、くど…くぶ…ぅ…?」
殆ど40度じゃないか。
よくもまぁこれだけ熱が出るものだ。己の肉体構造に僅かながら疑問を抱くよまったく。
腕が気だるげに瞼を覆い隠す。
「……広い…」
高級マンションの最上階のこの部屋は、普段でこそ全く気にならないのに今日に限って嫌に広く
感じて落ち着かない。
不安になる。
室内の僅かな脂臭さが今は遠い。五感が鈍っているようだ。
だるい。
昨日から髭もそってないから顔周りが鬱陶しい。
剃りにいく体力など到底ないし、治るまでこのまま不快な思いをしたままってことか。
しかたがない。
溜まっている有休を使えばいいのだが、と歯噛みする彼はそのうち考える事も億劫に
なってきた為、そのまま少し寝ることにした。
シンと静まり返った部屋。
「…雅人…」
眠りに陥る刹那、自分でも気づかないうちに呟いた。
愛してやまない恋人の名。
‡‡‡ ‡‡‡ ‡‡‡
「――――ん…」
流しの方から物音がする。
それにいい香りも。
少しだけ食欲が戻ってきたのか、腹が小さく鳴った。
だが一人暮らしのこの部屋にほかに誰がいようか。
その疑問に到達するまでそう時間はかからなかった。
パッと目を見開き、カウンター越しに見える人影を凝視した。
ひょっこりと頭が見え、そこでその人物が誰か判明したのだ。
「…ま…さと…?」
その小さな呟きに気づいた綾瀬はこちらに目をくれ、柔らかな笑みを湛える。
「あ、起こしちゃいました?すみません、勝手に上がらせてもらいました」
手を拭きながらキッチンから出てくる人物は紛れもなく自分の恋人。
「雅人…どうして…」
私服姿の彼を始めてみたのが今日だから笑える。
今までスーツ姿と裸しか見たことがなかったから。
「体調崩したって聞いてから…今日早引けして様子見にきたんですよ、お節介やいちゃって…
ごめんなさい」
こちらをどこまでも気遣って、何度も部屋にあがって合鍵まで渡してあるというのに、
こうやって遠慮がちな彼に微苦笑する。
それでも先に口を突いて出るのは強がり。
「…別に…構わなくてよかったのに………でも……」
続けるのは感謝と愛しさ。
「…来てくれて…ありがとう…」
その言葉に一瞬驚きの表情をする綾瀬だが、すぐに柔らかな笑みをむける。
「雑炊作ったんですけど、食べれますか?」
‡‡‡ ‡‡‡ ‡‡‡
「はい、あーん」
いっぺんやってみたかったんだこれ。
ニコニコとさじを差し出してくる綾瀬に、坂崎は固まってしまう。
こんな恥ずかしい事、弱っているからと言ってできるわけがない。
「…雅、人…自分で、食べるから…っ」
「ろくに動けなくせに何言ってんですか、『あーん』って言わないにしろとにかくほら、
口あけて」
普段より強気に見える綾瀬に、弱っている坂崎はしぶしぶ口を開く。
何も口にしていなかったから本当はおかゆが一番イイのだろうが、味のあるものが食べたかった
のでこの雑炊はじつに嬉しいものだった。
すると綾瀬は雑炊を平らげた坂崎にふと告げるのだ。
「…風邪ひいた時に…卵雑炊作ってくれたのが…母なんです…」
刹那的な瞳でそう語る綾瀬は、室内の淡いライティングに艶かしく映る。
「…そうか…」
それ以上何も聞かず、坂崎は重だるい腕を上げ、綾瀬の頬に触れる。
「昇…さん…?」
「美味しかった、デザートもいただきたいんだが…いいか?」
そう言って綾瀬の頭を引き寄せ口づけようとすると『だめですよ』と初めて口づけが未遂に
終わった。
「そんな元気があるならすぐによくなりますね、サッサと寝て早く仕事に復帰してください」
トンッと軽く押されただけで上体がベッドに沈む。
とことん弱っているなと恨めしげに唸った。
明らかに怒っている綾瀬をなだめ様にもこの忌々しい身体はいう事を聞かない。
くそっ…!
動けっ
「…まさ、と…雅…人…」
身体を無理に動かし、起き上がると眩暈がして前のめりに倒れそうになったところで、
慌てて綾瀬が彼の体を支えた。
「……無理して起きないで下さいっ……早く、寝て…」
肩肘をベッドについて、すぐに寝かされそうな状態で綾瀬のセーターを引っ張る。
「昇さん?」
「――――ずっと…」
息が上がる。
頭がボーッとして、しかも視界までぼやけてきた。
やばい。
「……朝まで…傍にいてくれ……」
「…え…あ、あの…」
回答に躊躇すると、坂崎は弱々しい声でお願いだと彼の肩に顔を埋めた。
初めて目にする恋人の弱々しい姿に綾瀬は当惑する。
いつも自信に溢れた、堂のいった姿しか見たことがない為に今の彼には驚きを隠せない。
「の、昇さん…?」
恐る恐る名前を呼ぶと、彼は昏倒していた。
しかも何かうわ言をいっている。
「……一緒に居て、く…れ……一人は…淋しい…」
「!?う、嘘だろ…」
とにかく早く寝かさなければ。
しなだれかかっている彼をベッドに寝かせ、後片付けをしようと台所へ向かう。
手早く済ませ、様子を見に行くと眉間に深く皺を刻み込んで魘されている。
汗ばんだ額を拭い、首周りをしっかりと清拭してやり様子を見ることにした。
「昇さん…」
こんな一面が見られるとは思わなかった。
心配だったけれど、本当はからかい半分の所もあったのだ。
いつも強気な人が弱っていると、どんな様子なのか好奇心が先にたった。
眠る恋人の額に手を当てるとひどく熱く感じる。
申し訳なさで目頭が熱くなる。
「…昇さん…ごめんね…」
‡‡‡ ‡‡‡ ‡‡‡
朝が来た。
ベッドサイドの大きな窓から差し込む光が眩しい。
瞼に力がこもり、薄っすらと目を開け、その光量に目を鳴らす。
昨日より視界がはっきりしている。
まだ身体はだるいが昨日ほどではない。
少しは治ったか?
「!」
もう少し眠ろうと寝返りうつと、すぐ目の前に綾瀬が眠っているのだ。
「まさっ…!?」
「――――ん…?」
ベッドが僅かに揺れたことで目を覚ました綾瀬は目を擦りながら顔を上げた。
「…あ…昇さん、起きたんですね…具合はどうですか?」
「まさか…ずっと…?」
すると綾瀬は『何言ってんですか』と一笑した。
「傍にいてって言ったのは、昇さんですよ?」
何だと?
俺が??
言っただと!?
「そっ…!?」
「言いました、結構汐らしくて可愛かったな―――――……Σあ。」
言わんでいい事を言ってしまう彼は、その日はお決まりの……
「ひ…っ…ぁ…」
ベッドの中で身じろぎする綾瀬は、いつまでたっても達する事を許されず、泣きながら
いかせてくれと懇願する。
「駄目だ」
少し体調が良くなった途端これだ。
やっぱり見舞いにこない方が良かったかも、と今更後悔する綾瀬は、長々と達する事を
許されず坂崎に犯されつづけた。
達する事ができなくて、それでも与えられる快楽は凄まじいもので、今にも気が狂いそうだ。
なんでこんな仕打ちをうけなければならないのかと、坂崎を睨めあげる。
「あっ…あああっ!」
坂崎の体力不足でいつもより早めに切り上げられたが、それでも綾瀬にとっては甘い地獄で、
ぐったりと坂崎の隣で突っ伏していた。
「…ひどい、です…っ」
「要らんことを言うからだ」
汗を流した事ですっかり体調が良くなり、動きも滑らかになった坂崎はふふんといつもの
余裕顔で綾瀬を見下ろす。
そしてそれに頭に来た綾瀬はだるい身体を一気に起こし、勢いそのままに服を着始める。
「雅人?」
「帰ります、明日の会議遅れないで下さいね、坂崎さん・・・・。お邪魔しましたっ」
煙草を吸おうとしていた坂崎の手が止まる。
今なんと言った?
呼ばせ始めた頃と違って今では普通に呼べていたはずだ。
これは。
「なっ…?…雅人!?」
呼んでも一度も振り返りもせず早々に部屋を出て行ってしまった。
いつもこのぐらいのことであそこまで切れたりする事はなかったはずだ。
いったい何が原因で…?
よくよく昨夜の記憶を反芻してみると、ところどころ抜け落ちている所がある。
もしかすると、その抜け落ちている部分がさっき怒らせたことに繋がっているのか!?
何だ。
俺は何を言った!?
「………思いだせん…っ」
悩みはするのだが、それより先に綾瀬に謝らねばならないと考えない坂崎なのであった。
そして一方的(坂崎が見て)な仲たがいは続く……
出社してすぐさま綾瀬の姿を探した。
すると何食わぬ顔をしてチーム内で打ち合わせをしているのだ。しかも笑っている。
少しホッとして歩み寄ったが、途中で坂崎の足は止まる。
「あ、常務。おはようございます」
他の二人がにこやかに挨拶すると、すぐ隣で一瞬思いっきり睨みつけられたのだがそれに
チームの二人はおろか周囲の人間も全く気づいて
いない。
「おはようございます、坂崎常務」
その笑顔は実に爽やかで、先ほど見せた顔とはまったくの別物だった。
しかし、それだからこそ怖さを感じ出てしまう。
あまりにも普通すぎるのだ。
ここまで切れてるとは…
良くなった体調が一気に悪くなっていく。
仏の顔も三度までとはよく言ったものだ。
チームの二人が各々の席へ戻って今しがた打ち合わせた内容を纏めに入り、綾瀬が一人になった
ところですかさず話す約束をとりつける。
誰もこない喫煙スペースで、坂崎は綾瀬を抱きしめようとした。
だがあっさりと避けられてしまう。
「何の用ですか?常務、用がないならもう戻らせていただきます」
「待てっ!雅人!昨日の何を怒ってるんだ?」
「…別に、何も思っちゃないですよ」
「嘘をつくな、昨夜の二人のやり取りの中で俺が覚えていない所がいくつもあって…
その時言った事を気にしてるんだろう?」
全然違う。
傍にいてくれと言われたから、傍にいたのにあんな風に酷い事をした彼が許せないだけ。
しかし本人はそう言葉を漏らしたことをまったく覚えていない。
覚えていないだけならそれでもいいと思う。囁かれた誰にも聞かせたくない彼の弱音は
自分だけのもの。
自分だけに弱音を吐いてくれたことが嬉しくて、彼が眠りに落ちるとずっと傍から離れず
時折その頬や額に口づけた。
愛してると何度も囁いた。
だが無理やり抱いてあの要らん事を言うからだと…俺は話の流れ+それに腹が立っている。
「…昏倒してからの呟きはいいとしても…その前にまだ意識がしっかりしているうちに
言ったじゃないですか…あれ覚えてないなら、
俺が怒ってる理由も絶対わかりゃしない」
「…俺が覚えているのは…飯食った直後にキスをしようとモーションかけたまでだ、
それから先はまったく覚えていない」
「…そうですか、覚えてないならいいです。それじゃあ」
「だからっ!待てというに!!」
腕を強くつかまれ抱き寄せられると綾瀬の、会社で使い分ける顔が一瞬揺らぐ。
坂崎と二人きりの時の顔が一瞬覗かせる。
「ぁ…」
「無理やり抱いたことは…当然ながら…怒ってるんだろう…?それは謝る。すまなかった…」
あれだけ怒っていたのに、この消え入りそうな謝罪に心が大きく揺れる。
結局のところこの人に甘いし弱いんだなぁ…
憤慨しきれないところがまだまだ甘いんだろうな。
それにこの人も当然気付いているだろうに。
だからちょっとやそっとのことで機嫌が直らない時には、自分から折れて謝罪することで
事なきをえようと、そしてなし崩しにやってしまおうと…
あ、言っててなんかムカッ腹が立ってきた。
「雅人…愛してる」
「!」
そう告げ様に肩を抱き締めていた手が下肢に移動する。
「ほらっ!」
やっぱりだ。
「雅人?」
抱き締めている両腕を振り解き、対峙して彼を睨めつけ、あまり大きくなり過ぎないように
声を張った。
「そうやって謝った後すぐに手ぇ出してなし崩しに仲直り…そんなんばっかりだっ!
それも腹立つんだ!だからっ……」
「だから…?」
珍しく彼が反論してこない。彼の性格上ここまでいうと売り言葉に買い言葉で切れるのに。
「……何で、怒らないんだよ…」
「いや…言われてみればそんなことが多々あったような…他には?他にも、あるんだろう?」
神妙にこちらの言葉を聞こうとする彼に思わず自分の中の張り詰めていた糸が緩んだ。
「雅人?」
「―――――もういいよ」
そう言って彼は先ほどとはうって変わって柔らかな笑みを零す。
「ちょっと待て、もういいって何だ!?まさか…」
「違うよ、別れるなんて思ってない。思えない…」
綾瀬の態度に困惑する坂崎は、彼の一挙一動にハラハラしている。ひどく怒って怒って、
そして今のように微笑んで…
自分はどう対処したらいいのかわからない。
坂崎が戸惑っていると見た綾瀬は彼に歩み寄り、その双肩に手をかけ、少し背の高い彼の
耳朶の真下に印をつける。
「!?まさ…っ」
「…忘れちゃったんなら…何が何でも思い出してもらうところだけど、熱のせいで何言ったか
覚えてないんだもんね。それは誰でもしょうがないよ」
「しかし、さっきはそうだと言っても…」
「今しがた、キチンと俺の言い分聞こうと真面目にしてたから…許してあげる」
にこやかにそう告げると、綾瀬は彼のネクタイに指をかけ少し緩めて第一ボタンを外す。
そして見えた鎖骨に歯形をつけた。
「!…っ」
血こそ出ていないけれど、赤々と歯が食い込んだところが点線を描き、それを確認すると綾瀬は
その痕を舌先でなぞった。
「っ…ま、雅人…?」
「だーめ、手ぇ動かしちゃ駄目。許しはしたけどまだ俺流のおしおき、してないもんね」
おしおき??
「そ、おしおき」
「…何をするつもりだ?」
「三ヶ月、手ェ出さない事。これがおしおき」
三ヶ月…
三ヶ月だと!?
拷問か!!?
「ただし、俺が誘った時はオッケーね。俺だってそうそう我慢できるもんじゃないし…海外研修
行ってんなら平気だけどさ」
それを聞いて少しだけホッとしたが、このときの坂崎はまだ気づいていなかった。
彼はもともと負けん気が強いことを…
|