いつもにぎやかにキケロ宅に押しかけて来る、 両隣の住人が留守。 サリトは自宅に戻っており、ルキノは迎賓館に泊まり。 キケロ一人の部屋の中は広く静かで、 夜の空気が色濃い。 夕飯のために、フライパンを手に持ち、 キッチンに立っていたキケロの視線の先には、 窓の外の星空とおぼろ月があった。
出来上がった一品を皿にのせ、耳に無音が痛かったので、 テレビを付けようと、エプロンのポケットを探る。 リモコンを取り出し、最近新しくしたばかりの、 液晶画面に電波を送る。どっと人の笑い声が部屋に響いた。 拍子に手が滑り、リモコンがフライパンの上に落ちて大惨事。 「うっわ?!」 シューと音を立てるリモコンに顔を顰め、舌打ち。 「・・・クソッ、」 木ベラを使い、そーっとリモコンを救出すると、 並べていた皿に安置した。 ふと皿の上に乗ったリモコンにシュールさを感じ、 口端が上がったが、 報告する相手がいないので、 顔を顰め、笑いを封印する。
テーブルの上にはパンとレモン水と野菜の肉巻き。 冷蔵庫を開け、昨日の残りのクリームシチューを出し、 電子レンジに入れ、付けっぱなしのテレビを眺めた。 チャンネルを変えようとエプロンのポケットに手を入れ、 あ、と今は皿の上、油っぽいリモコンに目をやった。 やはり皿の上にあるリモコンに口端が上がりそうになる。 それに耐えて、温められたシチューを持って、 テーブルに向かうついで、テレビを消した。 エプロンを脱いで、椅子に座ったところで、 扉にノックの音。
席を立ち、扉を開け、笑みが湧いた。 「ゴドー・・・」 黒髪黒目。 がっしりと力強い友人、ゴドー・ジェキンスの来訪。 「邪魔して平気か?」 飾りのような伺いを立て、勝手に入って来るゴドーに、 苦笑いつつ、友人の登場に、キケロは浮き立った。 「またエリックとのチャンネル争いかよ」 「や、もうちょい深刻」 「・・・?・・・どした?」 部屋の、キッチン前、テーブルの方へ、 進んでいくゴドーの背に問うが、返事がない。 ゴドーは無表情な男で、 その機嫌を察するのは難しい。 ゴドーのほうで意図して、 分かりやすく訴えてくれるか、 特別気を緩ませてくれなければ、 感情が読み取れない。 「エリックと何かあったのか?」 ゴドーが盲目的に、想いを寄せているエリック・ヴェレノに、 キケロも昔、夢中になっていた。 ゴドーとは、このエリックへの気持ちが共通し、友人になった。 「喧嘩か?」 エリックは美しい男だったが、鋭い言葉で人を傷つける。 小さな頃からエリックの傍にいたキケロは、 それで何度も泣かされてきた。 「おい、」 返事の要求に、声を掛けるとゴドーは振り返り、 柔らかく笑った。 「聞いてる」 「じゃぁ、応えろ」 「ああ」 ゴドーの無言に不安を覚えるのは、 キケロがゴドーに秘密を持っているため。 ゴドーには決して、知らせられない過去。 できることなら洗いざらい、過ちを告白し、 審判をされたいが、キケロにその権利はない。 キケロがゴドーにそれを打ち明けたら、 エリックの誇りを傷つけることになる。
「夕飯か?」 ゴドーはテーブルの上の、 料理をじっと見つめながら聞いてきた。 「食うなよ」 「ん?」 ゴドーが肉巻きを一つ手に取ったので、 注意すると間の抜けた、笑いの含んだ顔をされた。 「食うな」 ゴドーは躊躇いなく、それを口の中へ放り、 顔を顰める。 「しょっぺぇ」 「だから食うなッつッたろ」 「・・・、聞こえなかった」 コノ野郎、とばかりにキケロが片眉を上げるのを、 無視して、さらにシチューの入ったコップを掴む。 そっと口に含み、もう一口、と飲み進めて、 「・・・、・・・、これは、好きだ」 と漏らし、コップを解放。コップは空になっていた。 「もうないのか?」 「・・・それで全部」 夕飯が荒らされ、不機嫌になったキケロを、 気に留めず、ゴドーはさらに奥へ。 「なんか他にねーか?」 キッチン周りをきょろきょろ。 「やりたい放題か」
エリックと喧嘩、エリックに叱られた、 エリックの友達が来る等々、 自宅から逃げて来る他、 普通に遊びに来るなど、 ゴドーはキケロの部屋をよく訪れる。 何の躊躇もなく、冷蔵庫を空け、 中を物色し始めたゴドーの尻を蹴る。蹴り返される。 今朝、ルキノが作ったホットケーキが見つかり、 ゴドーは「ん」、と無造作に、 キケロにそれを渡す動作で、 キケロにそれの暖めを要求。 「自分でやれ」 「ああ・・・」 恐らくエリックは今の動作で、 世話してくれるのだろう、 渡せば暖めをやってもらえると、学習している。 「甘やかされやがって」 「あ?」 ゴドーに、母親のように愛情を注いでいるエリック。 キケロには鬼のように厳しかった。 心中で舌打ちつつテレビの前に移動。 「テレビ付けるか?」 「おぉ、・・・そーいや付いてなかったな・・・?」 「・・・さっきフライパンにリモコン落としてよ」 「それは、」 ゴドーが言葉を失ったのを見て、愉快な気持ちになる。 「そこ、皿に乗ってる」 「なんで皿に乗ってんだよ」 聞かれてまた笑いが込み上げ、ふっふ、と息を吐く。 「や、何となくっ・・・」 「食うのか?」 「おまえの餌にどうかと思ってよ、」 「フライはちょっと・・・」 ゴドーの口端がいくらか上がっている。 「茹でたほうが良かったか?」 「ああ、次は茹でといてくれ」 ゴドーとの冗談の応酬は心地いい。
キケロが食事を開始する横で、 ゴドーは今度は、 床下に仕舞っていた巣入りのハチミツを出した。 「ハチミツ派か」 「まぁな」 レンジが鳴り、テーブルに温かいホットケーキが加わる。 ゴドーの武骨で巨大な手が、巣を切り分け、 小さな固まりをケーキの上に乗せた。 巣を潰して、蜜を溢れさせる作業に入る。 見守っていたら、にやりと笑われた。 「にやっとすんな」 「してねぇよ」 「思い出し笑いかよ変態が」 「・・・おまえと一緒にすんな」 言いながら、パクリと口に運ぶゴドーの、 食べっぷりに誘惑される。 「それ、俺の分よこせ」 「おまえは今食ったろ、夕飯」 「そっちも食うことにした」 「横暴な・・・」 「俺ん家にあったもんだろ、俺には食う権利がある」 「・・・」 ゴドーは再びにやりとし、ケーキを切り分け、 キケロの皿に分けた。 「さっきからよ、なんでにやっとすんだよ?」 「楽しんでんだよ、この空気を」 「あ?」 眉間に皺を寄せたキケロを他所、 ゴドーは数秒でホットケーキを片した。 それから、 「おまえと友達で、要られなくなるかもしんねーからな」 と呟いた。 「・・・」 言葉の意味はすぐにわかった。 酔いの醒めたような、すっとした感覚。 互いの顔面から、表情が消えていく。 ああ、ついに。 ゴドーはある程度の、確信を持って、 キケロの悪事を問い詰める気でいる。 足元がヒヤリとした。これからゴドーに憎まれる。 ゴドーとの関係が終わる。
ゴドーの言葉を最後に、会話の死んだ食卓で、 二人は友人として顔を合わせていられる、 最後になるかもしれない時間を共有した。 エリックのキケロへの当たりの酷さと、 当時付き合いのあったモラルの低い友人に、 打たれた薬物の影響で、 キケロは精神異常を起こし、 エリックを強姦している。 そのことをゴドーは知らない。 「エリックから聞いた」 正確に言えば、知らなかった。 「・・・ああ」 数時間前か、数日前か、 ゴドーはキケロの罪を知った。 友人をやめる気で、 真相を知るため、やって来た。 「本当なのか?」 「本当だ」 「・・・」 ゴドーは深く息を吐いて、横を向いた。 「本当か・・・」 「ああ」 1分か2分、沈黙が続き、 胃がキリキリと音を立てた。 「おまえに痛みを与えることを禁じられてる」 テーブルの上、ゴドーの手は開かれていたが、 指先が震えていた。 「誰に?」 「あいつに」 「・・・」 聞くまでもなかったが聞いた。 キケロの身を案じる、エリックを実感したかった。 しかしエリックの名を口にできず、 眉を下げて苦しげなゴドーを前、 聞いたのを後悔した。 「俺は・・・この衝動を、 どうしたらいい?」 ノド奥から、今にも枯れそうな声を出し、 宙を睨んでいるゴドーに覚悟を決める。 「殴れよ、好きなだけ」 「・・・」 「痛めつけろよ、」 「駄目だ」 「気が済むまで、やれ」 「っ、」 「ゴドー・・・」 「初めて会った時から、 おまえとエリックとの間に、 何かあることは、 ・・・わかってた」 耐えようと必死に、キケロから目を逸らしているゴドーに、 目頭が熱くなる。ゴドーとの距離が、どんどん遠くなっていく。 「最悪の出来事があってごめんな、 俺は・・・、」 感情の高まりで、心臓に痛み。 それから血流が音を立てて、全身に回りだした。 指先が震えている。恐らく舌先も。 「俺は生きてて恥ずかしい」 グシャグシャの声が出た。 すぐに欲望に染まる、己を心底、 恥ずかしい人間だと思っている。 エリックの他にも、被害者はいる。 常にこうして反省していれば、 無害で要られるのだが、 生きていると目先の出来事にすぐ、 意識を持っていかれる。 そしてまた罪を重ねてしまう。 たまに生命活動を、停止するべきじゃないかと、 本気で考えるが、悲しむ人間の存在を思うとできない。 「後悔してんのか」 「してるけど、治らねぇ・・・、 さらに、性質の悪いことに、俺は俺を殺せねぇ。 誰かに殺されるまでずっと、 俺は人に苦しみを与え続ける、 おまえにさせることになって、 申し訳ねぇけど、 ここらで社会悪は、消されたほうがいいかもな」 「・・・」 ゴドーはキケロに、殴りかかることはせず、 ベッドまで歩き、ベッドに座り下を向いた。 「・・・、・・・、・・・なんで治らねーんだ?」 下を向いたままの、ゴドーからの問い。 「弱ぇんだよ・・・」 痛切な声が出た。 「・・・人間として、 弱ぇ奴なんだよ、 理性が足りねぇ、 頭が可笑しいんだよ」 ゴドーは冷静で、寂しげだった。 落ち着いたゴドーの、その身に縋りつきたい。 己を省みる度、己への酷い失望と軽蔑で、 もがき苦しんで精神異常を起こす。 定期的に医者に、生活の様子を、 報告しに病院に行く。 その帰りに、どうして、自分はまともじゃないのか。 と考え出して劣等感にこの世の全てを呪い出す。 「こっちに来い」 命じられ、キケロはゴドーの前に立った。 立ってすぐ殴られ、床が目の前に迫った。 床に着く前に蹴られて次は棚。 バサバサと本が降って来て、頬に紙の感触。 ジンジンと殴られた頬骨が痛み出し、 髪を掴まれて棚のでっぱりに鼻の骨をぶつけられる。 鼻から血が出て、鉄の味が口内。 またぶつけられる。痛みよりも熱が顔面を覆った。 息ができない。 骨を砕かれる。 意識が飛びそうだ。 気絶寸前、ぎゅっと後ろから抱きしめられ、 暴力が止んだ。 「・・・っ?!」 ゴドーの顔が当たっている肩が、じわりと熱く濡れた。 ハァ、とゴドーの息が響く。涙の合間の吐息だった。 ん、・・・だとか、ふ、だとか弱弱しい嘆き声を、 たまに立てる他は、只管、 静かに泣くゴドーに言葉が掛けられなかった。 破壊したい対象が親友。 抑えられない殺意を、抑えなければならない。 その辛さにゴドーは今耐えている。 ポタポタと、床に雫を垂らしながら、 ゴドーは泣き声さえ封じ、 石のようにキケロを抱きしめたまま、 衝動をやりすごそうと、ただ息をしている。 時間がゆっくりと、ゆっくりと過ぎて、 やっとゴドーがずるりと動いた。 棚に手をついて、よろめきながら、 その場にへたり込み、また下を向く。 「どうしておまえだった?」 問われて、頭が白くなる。 「ゴドー・・・」 呼ぶと、ダン、と拳を床に打ち、 ゴドーは顔を上げた。 涙で頬を行く筋も汚し、 目を潤ませ、 無念を瞳で訴えて来ている。 床に膝を着き、ゴドーの目線に合わせ、 正面からゴドーを抱きしめた。 どうしてゴドーのような男が、 キケロを友人として愛したのか。 ゴドーもキケロも、命令があれば命懸けでぶつかる。 その時は、ゴドーは決して途中で、 攻撃をやめたりはしないだろう。 今日のものは、ゴドーの心から来る攻撃だった。 ゴドーの気持ち一つで、無くすことのできる暴力。 ゴドーは理性で、暴力を殺した。 「ゴドー」 名を呼んで、腕に力を込める。 「俺はおまえを許したくない・・・」 湿っぽい声が耳の傍に聞こえた。 「ああ」 「けどおまえが好きなんだ」 「・・・」 「だから、許すしかないっ、悔しくて吐きそうだ」 ガチガチと歯が、ぶつかる音。 ゴドーはやりきれなさに震えていた。 そんなゴドーの感情の激しさに寒気。 ゴドーの意思の力が、キケロを生かしていた。
その夜遅く、家に帰るゴドーを送り届けて、 玄関口、あの日苦しめてしまった、エリックと顔を合わせた。 エリックは何でもない顔で、ゴドーの身を受け取ると、 キケロと軽い挨拶を交わして扉を閉めた。
6:22 2011/03/11
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