「――名前」 「え?」
久々に僕たちは重なった休みを利用して――と言ってもどこかに出掛けるわけでもなく家で怠惰に過ごしていただけだが。 そして今は動けない僕に先輩がかいがいしく世話を焼いてくれていた。リビングで軽食にパスタを食べていた時だった。 その時、どんな流れだったかはもう覚えてはないが僕たちが勤めている会社の社長の子供たちの話になった。 個人的に社長の奥さんとその子供に世話になっていたことがある僕は今でも時間があれば会いに行っていた。秘書としてご自宅へ迎えにうかがう事もある。 数日前にも迎えに行き、そこで少しそこの双子の遊び相手をした。その時のことを先輩に話していた時だった。 突然、話しを遮るように言ったのだ。
「あの……先輩?」 「やっぱり理不尽だ」 「え?」
向かい合って座る僕たち。先輩はテーブルに組んだ腕を乗せその上に頭を預け言った。 突拍子もない事を言うのは今に始まったことではない。だが主語ぐらいはいれてほしいものだ。
「今、何気に失礼な事考えなかったか?」 「……いえ」
頭を伏せたままつぶやく先輩に僕は慌てて首を振る。せっかく一緒に居られるのに険悪な空間にはしたくなかった。
「あの……それで名前って言うのは?」 「……なぁ、知博」 「? はい」
僕の質問がスルーされた。今更どうこう言うつもりはないけど。もう少し。
「俺の事呼んで」 「え? ……う、宇佐美先輩?」 「はぁ~」
頭を腕に預けたまま上目使いでこちらを見るなり変な事を言い出す先輩。それに戸惑いながら返したら返事は深いため息だった。
「名字じゃなくて名前の方で」 「え…………えぇ!?」 「なんだよ。そんなに言うのが嫌なのか? っていうかお前、俺の名前、知ってるよな?」 「知ってますよっ」
不信気に眉間にしわを寄せ先輩は聞いてくる。いくら抜けてるだ注意力散漫だなんだって言われる僕だけど、こ、こ、……付き合ってる相手のフルネームを知らないなんてことはない。
「だったら、ほら」 「ほらって……そんな。急に言われても」 「別に急じゃない。常々思ってたことだ」
いつの間にか先輩は頭を持ち上げ僕の目を真っ直ぐに見つめて言ってきた。
「前も結局俺の事2、3度しか名前で呼んだことなかったよな?」
前って学生時代の事だろうか? ……たしかにあまり先輩の名前を言った記憶はない。でもだからって言えって言われてすぐに言えるものではない。そもそも、
「そもそもなぜそんなことを」 「ふと思ったんだよ。あの子たちのことを名前で呼んでるのに俺は呼ばれたことあったかって」 「…………」 「それにお前、最中も『先輩』だろ」
そう、だろうか? ……いや、その時はたいてい意識が飛んでることが多くてあまり覚えていないけど。 そういえばいつだ? 最後に先輩の名前を呼んだのは?
「だから、ほら」 「ほらって……先輩だって僕のことお前、じゃないですか」
お前、でも構わないけども。 そんなことを考えている間に先輩はテーブルの上に乗せていた僕の手を取ると、
「“ともひろ”」
手の甲が上になるように指先を軽く包むように持ち上げ、そこに唇を押し当てる。
「…………」 「“ともひろ”」
僕の目を真っ直ぐに見つめたまま先輩は呼ぶ。唇が動くたび、吐息がもれるたび背筋がムズムズとした。 呆気に取られる僕に、
「ほら」
と、先輩は口の端を持ち上げ促してくる。それに僕は、
「……ぃつき、せん……ぱい」
掠れた声でそうつぶやくのがやっとだった。 しかし、
「…………」 「……? あの……」
今度はなぜか先輩が固まってしまった。僕の指先を掴んたまま何度も瞬きを繰り返している。 言わない方がよかったのだろうか。
「知博」 「あ、はいっ」
指先は掴んだまま唇を外し先輩は僕を呼ぶ。僕は続きを待つ。
「もう一回、ゆって」 「……い、いつき、せん、ぱい?」
改まって言うとなるとそこはかとなく恥ずかしい。 言ってくれと言った本人である先輩はまたしても固まってしまった。違和感があるならば言えばいいのに。
「……知博さん」 「は、い?」 「知博」
なぜ、さん付け? 先輩は僕の名を呼ぶと席を立ち手をにぎり引っ張っる。それに僕も席を立つ。
「あの、先輩?」
先輩は無言のまま僕をどこかへ引っ張っていこうとする。状況がいまいち理解できない僕はとりあえず大人しくついていく。 そして向かう先が分かると、
「ちょっ! 待って下さい、先輩っ。もう無理ですっ」 「俺も無理だ」 「は? 何言ってるんですかっ」 「……さっきのめちゃくちゃキた。我慢できるかよ」
寝室へ入っていこうとする先輩に踏ん張るがいかんせん体格が違う、なにより足に力が入らなかった。
「結構、くるもんだな」
ぶつぶつとつぶやきながらも先輩の足は止まらない。 そして、寝室に入りすぐにベッドへ押し倒される。
「なぁ知博、俺を呼んで」
僕の視界には先輩の顔だけが映る。真っ直ぐにどこか懇願するかのようなその眼差しに引き込まれた僕は、
「ぃつき、せんぱい」
音となって出たのか僕にはわからない。バクバクと鳴る心臓の音が煩く僕の耳には聞こえなかったから。 でも目の前にいる先輩は微笑みを浮かべ、
――チュ。
軽く、僕の唇に先輩のそれをあててきた。
「ともひろ」
そう艶やかに僕の名を呼び顔を近づけてくる樹先輩に僕も微笑みその首に腕を伸ばすのだった。
fin
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