危ないだろと再三言ったのにもかかわらず、まだ生意気な中学生の恋人は俺に逆らって、ずんずん上へと登ってゆく。見ているだけで冷や冷やして、ただでさえ丈夫ではない心臓の動悸が激しくなりそうだ。
「高所恐怖症の気があるのに大丈夫かよ……」
なぜだか陣野は今日になって急に、学校の敷地から側に建つこの家まで長く枝を伸ばしている木を剪定すると言い出し、わざわざ校長の許可まで取りつけて、高枝切りバサミを片手に今に至る。葉から垣間見える陣野の顔は真剣そのもので、なにをそこまでムキになっているのか解らない。陣野に加え俺の母さんもなぜか乗り気で、冬の今はともかく夏には虫害で悩まされているのと大袈裟に言い、陣野の剪定熱をさらに煽ってしまったのだ。 俺が息を潜め見守る中、ある程度の高さまで辿り着いた陣野は、安定した木の股に腰を据え、そこでやっと俺に向かって手を振った。
「危ないだろっ。枝から手を放すな」
俺が慌てて二階の自室から大声を出すと、陣野は笑みを浮かべた。
「これでも運動神経は悪くないんだ。心配しなくても、そう簡単に落ちっこないって」 「怖くなって下りられなくなっても知らないぞ」 「そのときは雫久を呼ぶから大丈夫」 「それじゃ大丈夫じゃないだろ……。俺はそこまで迎えに行けないからな」 「だったら、俺が落ちないように祈っててくれ」 「祈らせるな」 「じゃあ、その代わり、風邪引かないように窓閉めて、冷気が入るからカーテンも締めて、温かくして寝ててよ。時間かかるからさ」 「……なにが『その代わり』だ」 「いいから、いいから」
陣野はそう言いながら、シッシと俺を追い払うように手を振った。こっちは心配しているというのに、まるで邪魔だと言わんばかりの態度だ。 俺は悔し紛れに「本当に落ちても知らないからな」と捨て台詞を吐き、邪険に窓をぴしゃりと閉めた。カーテンに手をかけたところで陣野の表情を見やれば、反省どころかむしろしてやったり顔で、今度はバイバイと手を振っている。俺はさらにムカムカきて、目の前で隙間なくカーテンを閉めてやった。 怒りのままに床を踏み鳴らしながら、ベッドに戻り横たわる。だが、目を閉じた途端、恋人の冷たい態度が脳裏を過ぎり、一気に虚しさが胸を占めた。
「こんな寒い日になんで……。ほんと馬鹿だ」
陣野の態度を寂しく思いつつ、胸を押さえる。
「この心臓がもう少し強けりゃ、手伝えるのに……」
今の自分には窓の内側から応援するくらいが精一杯だ。あとほんの少し心臓が丈夫であれば木の下まで行き、せめて落ちた枝や葉を箒で掃き清めるくらいできるだろう。陣野が俺の身体を気遣って寝ていろと言ってくれているのは嬉しいが、恋人としてはたとえ窓越しだとしても、たかが木の剪定だとしても見守っていたいと、そう思う。
「窓からでも見ていてくれ、くらい言ってくれよ」
そもそも陣野が俺に対して言う我儘など、いつも高が知れている。二つも年上の俺(しかも高校生)に、早く寝ろだとかたくさん食えだとか、概ね俺の身体を慮ったものばかり。これでは、我儘というか説教、へたをすれば躾だ。お前は俺の親かと言いたくなる。
「……それでも俺は、陣の言う事を聞かざるを得ないんだ」
――恋人らしい事を一つもしてやれないから……。 身体が弱いから遠出はできないし、寒暖が極端な時期は外すら出られない。デートと言えば、それこそ老夫婦のように部屋でじっと寄り添うくらいしかすることがなかった。これでは、デートと言えるかどうかも怪しい。 俺はそっと溜息を吐いた。
「その内見捨てられるのも時間の問題かもしれないな」
厭きられるのが怖くて、不安を心の奥に閉じ込める。こうして俺は大人しく陣野に言われるままベッドの中、無理やり意識を眠りへと誘なった。
次に意識が浮上した頃にはすっかり部屋は暗くなり、学校の照明が微かに窓から射し込んでいた。慌てて身を起こす。窓に駆け寄って外を見れば、案の定、陣野の姿はそこにはなった。
「当たり前か……。もう帰ったよな」
不意に泣けてくる。 ――お前の言う通り、ちゃんと温かくして寝てただろ。終わったなら一言声をかけてくれてもいいじゃないか。 口を手で押さえて、ぺたんと床に座り込む。その時だった。
「……え」
急に部屋が明るく照らされて、けれどそれは外からの光で……。俺は思わず立ち上がり、窓に手をかけ身を乗り出した。
「うわ……」
そこにあったのは巨大なクリスマス・ツリーだった。母さんが虫害の元だと言った木が、今はもみの木まではゆかなくても円錐型に切り揃えられ、電飾がきらきらと輝いている。テレビでしか観たことのなかった大きなイルミネーションにただ呆然と見惚れた。
「気に入ったか」
不意に声をかけられ見下ろせば、陣野が家の壁面に背を預けて立っていた。灯りに照らされて浮かび上がった彼の瞳は、満足気にツリーに向けられている。
「本当はさ、校長から木を飾りつける許可は貰ってないんだ。だから、今日だけ内緒な」
対外的な事があるから、きっと電飾を点けられるのは数分の間だけだろう。たったその数分の為に、こんな寒空の中一日かけて剪定し、しかも飾り付けも彼の事だから一人でこなしたに違いない。
「あ、雨……」
陣野が呟き空を見上げた。けれど、空には雲もなく、月も明るい。
「……陣、上がって来いよ。一緒に見よう」
俺は目を擦り、飛び切りの笑顔を彼に送った。
***
「雫久……」
頭をさわさわと撫でられて、意識が急浮上する。
「……陣」
邪魔だと取った手は、予想以上に大きなものだった。
「起きたか……。泣いたと思ったら、急に笑い出して……、驚いたぞ」
いつの間にか彼の膝枕で眠っていたらしい。膝から見上げた彼は、中学の時より格段に背が伸び、俺よりガタイの良くなった、現在大学生の陣野だった。
「今の陣だ……」
転寝する前、部屋にある一メートル程の小さなクリスマス・ツリーに、陣野と二人で飾り付けしていたのを思い出す。
「……どうかしたか」
陣野が怪訝そうに首を傾げた。
「ううん、ちょっと夢見てただけ」 「どんな」 「昔の、素敵な夢だよ。ツリーの飾り付けしてたから、そんな夢見たのかも」 「昔の、ねぇ……。そう言えば、昔、学校の木を無理やりクリスマス・ツリーに仕立てた事があったな」
あの日の後、近所からの密告があって、陣野は先生からこっ酷く怒られたらしい。だから、巨大クリスマス・ツリーがお目見えしたのは、その年限りとなってしまった。
「覚えてたんだ……。あの時のこと、ちょうど夢に見てた」 「……だったら、笑うのは分かるが、なんで泣くんだよ」 「そりゃあ、感動したから」 「……ならいいけどさ」
陣野は言いながら、俺の身体に腕を差し込むと、力強く抱きかかえた。 それは、中学生の彼には出来なかったこと――。
「なに笑ってる」
肩を震わせた俺を、陣野が軽く睨んだ。
「だってさ、昔は陣の方が俺より小さかったのに、今となれば俺を抱っこ出来るくらいにまでなったんだと思うと、時の流れはすごいなってさ」 「確かにお前より華奢だったな……。歳も下だしその分必死だったよ、あの頃は。お前に見限られないように」 「え……」
陣野は俺をベッドに下ろし、横に身体を伸べた。
「当たり前だろ。年下のプレッシャーってやつ。健気にツリーの飾り付けして、金がないから気持ち勝負みたいなさ。可愛いよな、俺って」
仮に陣野が女ならば、年下であることに悩まないだろうけれど、彼は男だから対等でありたいと思って当たり前。俺だってそうだった。病弱だからといって彼に負担をかけたくなかった。今となれば、持ちつ持たれつだとか、協力という言葉を覚えたけれども……。少なくとも、当時はその事に不安を持っていた。
「俺も、自分が恋人らしい事をぜんぜんしてやれなかったから、それがすごく……、悲しかった」
ついさっき夢見て昔の事を鮮明に思い出す。恋し始めの初々しい気持ちと何もできない自分のやるせなさ。今も陣野に頼ることに寛容になったとは言い切れないけれども、高校生だった頃のような差し迫った感情は和らいでいる。
「恋人らしい事」 「あまり外出できなかっただろ」 「ああ、そういうことか……。だから、俺はクリスマス・ツリーを作ったんじゃないか。街のイルミネーションを見られない代わりに、家でクリスマス気分を味わってもらおうと思ってさ。俺は別に苦じゃなかったぞ。方法はいくらでもあるからさ」 「うん……、本当にうれしかった」
陣野は小さく微笑んで、飾ったばかりのクリスマス・ツリーを指差した。
「あのツリーのオーナメント、昔外に飾ったものの一部なんだ」 「え、そうなんだ」
俺はまじまじと部屋の片隅にある小さなツリーを眺めた。誰が買ってきたのかは聞いていないけれど、もしかしたら陣野なのだろうか。そういえば、あの年以降にこの部屋に現れたような気がする。
「ああ。あの時と気持ちは変わらないっていう、俺のささやかな意思表示」 「それは……」 「他所の恋人と比較することはない、俺たちなりの過ごし方があるだろ。それを実践してゆこうっていう意味」
不意に心が軽くなった。いくら陣野に気にするなと言われても、そのことで僅かなりとも申し訳ないという気持ちを持っていたから。
「陣……」
ほろほろと涙が零れてしまった。陣野が途端に呆れた顔になる。
「昔から変わらないよな、そういうところは」
けれど、彼は優しい声音でそう言うと、俺をしっかり抱き寄せた。
Fin.
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