俺の田舎の電車は単線だった。 都会の人は知らないと思うので説明すると、単線とは線路一本に上りと下りの電車が走ってるものだ。当然線路上ではすれ違えない。 じゃあどうするかというと、駅のホームに入るときだけ線路が二手に分かれるので、そこですれ違うのである。だから、片方の線が遅れているときはすれ違い予定の駅でもう片方も延々出発を待つことになる。そうしなければぶつかって壊れて脱線するだけだ。 今思えばそれほどの田舎ではなかったと思う。ちいさな無人駅ではあったが周辺には個人のケーキ屋やら写真屋やらもあったし、国道沿いには一面の田んぼの中ではあるが衣料品も売ってる二階建てのスーパーもあった。真夜中は閉まってしまうがコンビニもあった。 だが人は少なかったしゲーセンもカラオケボックスもなかったしで、テレビの中にある都会の暮らしとは全然違っていた。
俺はそんな田舎が嫌で、小学生の頃よく家出をしていた。 俺を迎えに来るのは決まって兄貴だった。 俺は兄貴が好きだった。かっこよかったからだ。見た目だけでなく、することもかっこよかった。 俺の家出先は、駅のホームと相場が決まっていたのだが──無人駅だったから、駅のホームまで入り込むのは造作もなかった──そのベンチで座っていると、ひとつ年上の兄貴が迎えに来る。そして、手品をしてくれたのだ。 子供の手品だからたいしたものではない。ハンカチに包んだ十円玉がハンカチの下に移動しますとか、手のひらの上にタバコを立てますとか、そんなものだ。 「成功したら帰る、って言ったのお前だからな」 というのが兄貴の口癖だった。そうしてその、簡単だけど、俺の帰宅の口実を作ってくれる手品をいつも成功させてくれた。 かっこよくて思いやりがあって、俺を好きでいてくれる兄貴。友人たちの粗野で横暴な兄とは違う、大事で尊敬できる兄。 暗いから、と手を繋いで帰ってくれるから、家に帰り着いて親や祖父母に叱られるのも全然平気だった。 中学になっても俺はたまに家出した。けれど、小学校の頃の理由とは違っていた。 夜中、暗い道を兄貴と歩ける。 いつのまにかそれが理由になっていた。 高校に入ってからは、兄貴に新しい彼女ができるたびに家出した。迎えに来た兄貴に女の悪口を言う。するといつのまにか兄貴は彼女と別れていた。 自分のしていることも気持ちも、無駄で意味のないことだとわかっていた。けれど兄貴は俺に甘くて、俺はそれが嬉しかった。
高三になり、兄貴は上京して進学すると親に相談し了承を得た。てっきり家から通える地元の大学にいくと思っていた俺には、それはひどい裏切りに思えた。 まだ肌寒い春、俺は半年振りに夜の駅へと家出をした。 相変わらず駅は無人で、それでもまだ終電は終わっていないので開放されている。勝手に入り込んでベンチに座り、ぼんやりと線路を眺めた。 この線路の先には、東京へ続く特急の出ている県庁所在地がある。ほんの二十分ばかり、単線で二車両編成で、冬場は手動でドアを開けなくてはならないこの電車に乗れば、そこそこの都会には辿り着ける。そのことを知ってから、俺は田舎を理由に家出することはなくなった。 けど、息苦しいことには変わりない。 すれ違うためだけにも、どこかの駅で停車して互いを待ち会わなくてはならない上りと下りの電車同士。どこかしら許される場所があって初めて行き交えるものたち。なんとなくそれは、兄に向かう俺の気持ちを彷彿とさせた。 いや。勿論俺たちに──俺に、許される場所なんてない。血の繋がった同性。この気持ちはどうしたってぶつかって壊れるだけだ。 ぼんやりとした閉塞感が自分を包んでいる。 今日は、兄貴が来ても、手品をしてくれても帰る気になれないかもしれない、そう思った。 「お前、いい加減家出先変えろよ」 笑い声が、俺に呼びかけてきた。 小さい頃見た目がいいと、大きくなってから間延びした顔になる奴が多いのに、兄貴は見た目のいいままでかくなった。昔はあんまりかっこよかったもんで、俺は兄のことを拾われっ子じゃないかと疑っていたが、大きくなってみると父親にも母親にも似ていた。俺も、兄貴とは違う部分が親に似ていた。 ──間違いなく俺と兄貴は血の繋がった兄弟だ。 そのことが俺の頭を押さえつける。 住んでいるこの場所が、たいした田舎でないと気づいた今でも息が詰まるのはこのせいだ。 「よっ、と」 兄が隣に腰を下ろした。俺がすぐには帰らないと知っているのだ。 だから、昔と同じように俺は、嫌だと駄々をこねる。 すると兄貴はいつもどおり、じゃあ、と譲歩した。 「俺の人差し指握ってみな」 「……え?」 躊躇する俺に、兄はポケットから輪ゴムをひとつ取り出して言った。 「お前が俺の右手の人差し指を握って10秒目を閉じると、この輪ゴムは俺の右の手首にはまってます。という手品をする。……成功したら帰るな?」 「……成功したらな」 どうせもう種は仕込んであるのだ。成功しないということは無い。 十年近く繰り返してきたこのやりとり。しかしもうそろそろ終わりにしないとならないのだろうなと思いながら俺は頷いた。 「じゃあ、指握れ」 意識して兄に触れるのが久しぶりで、俺はおずおずとその指先を摘む。もっとちゃんと、と言われて仕方なく指先をきつく掴んだ。 「目ぇ閉じて」 「ああ……」 兄貴にさわった手に集中してしまいそうで嫌だなと思いながら、俺は言われたように目を閉じる。灯りの極端に少ない駅のホームだから、閉じた瞼を貫き通してくるほどの光はない。 暗闇の中に、兄貴のぬくもりを感じる。いやだ。 せめて手が震えないようにと力を込める俺の気持ちなどおかまいなしに、兄貴のカウントダウンが聞こえる。 「じゅう、きゅう、はち」 温かい指先。 いつの間にか声変わりしていた甘い響き。 俺の気持ちは塞いでゆく。 しかし、なな、をコールする前に、握った兄の指先が少し揺らいだ。きっと、隠しておいた種で細工でもしているのだろう。そんなことを思った瞬間──唇に何かが触れた。 俺の吐息が空気に溶けるのを遮るものがある。カウントダウンする声は途切れている。それらのことが何を意味するのか全部繋がる前に、俺は目を開けてしまった。 ゆっくり離れていく、兄貴の顔。 困ったように眉を寄せている。 どんな顔も好きだけれど、その憂えたように瞑目した表情はものすごくきれいだった。 「兄貴」 呼ぶと、そっと目を開けた兄貴は困った顔のまま笑って見せた。 「……お前も上京すればいい」 俺に握らせた手を所在なさげに浮かせ、そんなことを言う。 「それで──それで、……その間だけは、たぶん」 たぶん。 息を継ぐように兄貴は目を伏せた。 そっと、握り締めた指でキスされた唇に触れると、その指先が一瞬ぴくりと跳ねた。 俺も目を伏せ、考える。 行き交い、すれ違うために必要な場所。猶予。もしもそんな場所があるならば、そこにいる時間を引き伸ばすことはできないかと。少なくともぶつかって壊れることはないと、それだけは知れたのだから。
けれど、いくら待っても、続きの言葉はなかった。
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