晩秋の空気は研ぎ澄まされていた。金城航は、だるさをこらえて受付に料金を払いながら、嬉しそうに駆け出す甥の勇太を見て、一つ欠伸をした。 「航兄ちゃん、早く早く!」 「あー、そこで待ってろよー」 受付のお姉さん――お姉さんと呼べる歳ではなさそうだったが――に券を渡されて、勇太の待っている場所に向かう。『靴貸し出し』――そう書かれた看板がかかっていた。 「スケートなんて、何が楽しいんだか……」 航が勇太にピンク色のチケットを渡してやると、勇太は待ってましたとばかりに貸し出し受付にそれを見せ、慣れた手つきで靴を受け取っていた。 「早……」 「何センチになさいますか?」 航も、今度はそこそこ綺麗なお姉さんに声をかけられて、一瞬悩み、結局今履いているスニーカーの裏を見て答えた。 「二十六センチで」 そもそも、なんでこんなことに……甥のスケート遊びのお守りをしなければならなくなったかというと、ちょっと面倒な理由があった。まあ、早い話、両親が夫婦水入らずで旅行に行ったので、その間の面倒を見ることになったのだ。すると、日曜日はスケートに行きたいと突然言い出した、というわけだ。 勇太のあまりの強引さと事情の不憫さに同情してつい承諾してしまったのだが、早速後悔していた。こんなことなら、今日にいくらか仕事を回して、職場に引きこもっていたほうがましだった。徹夜明けの体にこの清清しい空気はきつい。 「な、勇太、お兄ちゃんここで見てるからさ、お前滑ってきな」 「は? 何いってんの、兄ちゃんも滑るんだよ」 ベンチで靴を履き替えた勇太にぎろりと睨まれて、 「……やっぱり?」 航はがっくりと肩を落とした。靴を履き替えると、ぎゅうと締め付けられる感覚がしてますます気分が落ち込む。 「ホラ、早く!」 立ち上がってバランスを取る。これが、意外に難しい。大体、六十キロ以上もの体重をこの細い刃二本で支えるということ自体間違っているのだ、と航は考えながら、ゴム製の床をおぼつかない足取りで歩いた。 「勇太は随分慣れてるよなぁ」 既に氷の上にいる勇太に声をかけると、勇太は「まあね」と、さも自慢げに胸を張った。 「俺、一年生の頃からよくここ来てるもん」 勇太は来年中学生になる。中学受験の勉強はいいのかと聞いたとき、「俺、頭いいから」と平然と答えられたのを覚えている。受験生のくせに「滑る」「転ぶ」をもろともしない屈強な精神だ。ぜひとも見習いたい。 「航兄ちゃんははじめて?」 「ん、二回目、かな」 もっとも、一回目は小さ過ぎて覚えていないのだが。 恐る恐る氷上に足を乗せると、二、三歩と歩いてみる。 「お、なかなかうまいんじゃないか、俺」 「ふらふらじゃん。えいっ」 勇太は面白がって航の後ろに回ると、その背中を思い切り押した。航は変によたよたして、ずるりと滑って尻餅をついた。 「ってええ! なにすんだ勇太!」 「ヘッタクソー」 勇太は楽しそうにすいすいとリンクを滑っていく。航も追いかけようと立ち上がろうとしたが、それすらうまくいかない。壁を支えにどうにか立ち上がると、臀部がじんじんと痛んだ。痣になったらどうしよう、と弱気なことを考えて、壁に手をつきながらゆっくり進み始めた。 「勇太ー!」 どうやら、他の利用者にまぎれてすっかり見失ってしまったようだ。 「まじかよ……」 リンクは人であふれかえっていた。気が滅入る。航は眉間を押さえて、とりあえず滑ろうと試みる。 「こ、こう、だっけ……」 だっけ、というわりには全く覚えていない。他の人の見よう見まねで、足を左右交互に動かしてみる。 「お、体重、乗せんのか……」 横を滑っていった人を真似て、右足に体重を乗せ、左足をひょいとあげてみる。 「あ、こんなかんじ……っと、わ、わ」 しかし、すぐにバランスを崩して左足をついてしまう。しかも、そのときにバランスを崩して、気づいたらまた尻を硬い氷の上にぶつけていた。 「ったた……」 「ふっ……」 すぐ近くから笑いがこぼれたのを、航は聞き逃さなかった。顔を上げると、壁に寄りかかった男が、こちらをじろじろと見ているではないか。途端に気まずくなって、苦笑してみせる。が。 「下手だね、あんた」 男のその一言に、笑顔が一瞬にして引きつった。 「ほら、」 そう言って、手を差し出してくる。思わずこちらも差し出すと、ぐいと引き上げられた。立てということだろう。 「あ、どうも……」 「重心は前に」 男はぶっきらぼうにそう言った。アドバイスしてくれているのかもしれない。航はいまいち展開が掴めないまま、とりあえず黙りこむ。 「あー、俺は柏木。あんたは?」 見たところ自分より年下のような気がするが、この馴れ馴れしい口調は生まれつきだろうか。 「金城だ」 「金城さんね。あんた、初めて?」 先ほど勇太に同じ質問をされたことを思い出す。 「……そのようなものです……」 さすがに、あの派手な転倒シーンを見られた後で二回目だとは胸を張って言えなかった。 「あのさ、さっきも言ったけど、重心は前に置くの。手も後ろに振らない」 びし、と指摘した後、柏木はすい、と少し滑って見せた。うまいと感心していると、すぐにこちらを振り返る。 「わかる?」 「えと……ハイ」 よく見ていませんでしたとはいえない。航がへこへこ頷くと、柏木は釈然としない様子で、 「膝のバネ、使うんだよ。腰落として、逆ハの字みたいに進む」 さあやってみろと言わんばかりに腕組みをし出したので、航はしぶしぶ滑り始めた。しかし、すぐに左右のバランスを崩して、今度は前に倒れそうになってしまう。 「わ……と?」 迫っていたはずの氷が見えなくなる。誰かの腕に抱きすくめられていることに気づいたのは、その何秒か後だ。 「顔面から転ぶ気かよ」 誰かの腕――もちろんこの状況で助けてくれるのは柏木しかいない。その呆れたような声がすぐ近くで聞こえて、柄にもなく緊張してしまった。いや、これは驚いただけだと、自分に言い聞かせる。 「サンキュ」 何となく、顔を見られなくて目をそらすと、そらした先に見覚えのある少年が立っていた。 「航兄ちゃん!」 声の主は、勇太だった。よく考えたらおかしな状況だ。我に返って、航は柏木からすぐに離れようとする。 「あ、れ……」 しかし、離れない。いや――離してくれない、と言ったほうが正しいか。 「……兄ちゃん、その人と知り合いなの?」 勇太の不思議そうな声に、航は勇太に見えない角度で柏木を睨みつける。 「いや、全然! 初対面!」 「この人があまりに下手くそだから、指導してあげてたわけ」 柏木は勇太に対しても馴れ馴れしかった。やはりこういう性格なのだろう。 「フーン」 勇太は航と柏木を交互に見て、ふとため息をついた。 「あのさ、兄ちゃん」 「なに?」 勇太がびし、と柏木を指差す。柏木はというと眉一つ動かしていない。 「この人バイだから、気をつけたほうがいーよ」 「は!?」 突然の言葉に気が動転する。勇太と柏木は知り合いなのだろうか。それよりもまず、勇太の、小学六年生の口から、「バイ」なんていう単語が出てくることがありえない。もしかして、この男は勇太にも手を出したり……そもそも、手を出すって何だろう。 「は、え? ええ?」 航はとりあえず柏木を見た。見て、とりあえずもう一度離れようとしたが、無理だった。抱きしめられたままだ。 「勇太、でっかくなったな」 「だろ、そうなんだよ……って、そうじゃなくて、えっと……」 聞きたいことと聞かなくてはいけないことが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。航はぐるぐる回る頭の中で、ようやく言葉を吐き出すことに成功した。 「俺って、もしかして狙われてる?」 「……イエス?」 聞いてない。こんな出会いも、告白も、聞いてない。徹夜明けの体にはきつい刺激ばかりだ。 「とりあえずさ、手え離せよ」 航は柏木の顔を見た。心なしか、満足そうな顔だ。 「続き、やるんだろ」 「何の続き?」 心なしか――いや確実に、嫌なことを考えている顔だ。 「スケート!」 航がそう断言すると、柏木はくすくす笑って、ようやく解放してくれた。 「いいけど、俺のレッスンは高いぜ」 言い出したのはどっちだと航は思ったが、口にはしなかった。 それより、ちょっと楽しいと思っている自分はどうかしているのだろうか。 「そんじゃ、始めますか」 柏木も、楽しそうだ。それならいいかと航は考え直した。 ――それならいいか。日曜の朝の、楽しい時間の始まりだ。
実は柏木はリンクの近くの小さなスケートショップを営んでいて、マイスケート靴を買いに行くという勇太についていった航は一週間後、見事に彼と再会することになるのだが――……もちろん知る由も、無い。
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