急に視界がはっきりして、僕は瞬きをした。
緑の木々とアジサイに囲まれたベンチに僕は座っていた。 おかしい。ここは学校の中庭だ。
僕は学校を出て、さっきまで住宅街の道を歩いていた。 そう、僕は確かに家に帰ろうとしていたんだ。
僕は一人で歩いて、それで、そう。 僕は親子連れとすれ違った。 それで、それから・・・・・・・?
「友春、正気に戻ったのか?」
聞こえた声に僕は振り向いた。 見るとアジサイの陰の木に寄りかかって一人の少年が微笑んでいた。 「安部・・・・・・」
僕が呟くと、彼はこちらに近寄ってきて、僕の座るベンチの隣に乱暴に座った。 「良かったよ、今日はもうお前には会えないかと思ってたんだ。でも会えて良かったよ」
安部カズマは馴れ馴れしく僕の首に腕を巻きつけて、顔を寄せた。 僕はなんとか彼の腕をどけようともがいた。 その時、僕は自分の鎖骨にキスマークのような痕がある事に気付いてギクリとした。
「そんなに暴れるなよ。さっきまではかわいかったのにな」
その発言に僕は大きく震えた。 僕は整った安部の顔を見つめる。
「もしかして、僕は・・・・・・」 「ああ、そうだよ。さっきまでお前は違う友春だった」
笑顔で言われて僕は絶望した。
僕には記憶がなくなる事がままあった。 気がつくと違う場所にいる。 僕にとっての数分が数時間だった事もある。 その間、何をしていたのか思いだせない。 まるで時間が飛ぶような、盗まれるような、そんな感覚だった。
この友人、安部カズマはそんな僕にこう言う。 その間、違う「僕」が存在していたのだと。
青紫の美しいアジサイを背景に微笑む安部を、問いかけるように僕は見つめた。 すると安部は大げさな身振りで話しだす。
「そんなに睨まないでくれよ。ああ、お前の想像通り、お前と僕はさっきからここに 二人っきりで居たよ。その時のお前は、今のお前とは違うけどね」
「僕と、何をしてたんだ・・・?」 僕は自分の声がかすれている事に気付いた。 喉が渇く。息苦しい。
「ああ、それか。お前の想像通りだよ。僕はさっきまでもう一人のお前とやらしい事をしてたんだ。 あっちの友春は素直でかわいくてね、カズマ君、カズマ君って甘えてくるんだ。 良いよね、かわいくて、いやらしい恋人・・・っ」
バシ!
僕は安部の顔を殴った。
安部は頬を押さえて僕を見つめる。 僕は肩で息をしていた。
「僕が正気じゃない時に、そんな事するなんて最低だ!それにだいたい、それは僕じゃない!」 僕は本気で怒って叫んでいるのに、安部はゆっくりと口角を持ち上げて笑った。
「乱暴者で、やさしくないお前より、あっちの友春の方が可愛くて良いね」
僕は更に安部を殴った。 そしてそのまま背を向けると、校門に向かって歩き出した。
最低だ。 安部なんか大嫌いだ。
安部を殴った僕はイライラしながらも、部屋で父さんの帰りを待っていた。 晩御飯はいつも僕が作る。 帰ってくるのかも分からない、父さんの分と二人分。
僕はテーブルに並べた父さんの晩御飯を見ながら、自分の食事をした。 やっぱり今日も父さんは帰ってこないのだろうか?
「え・・・・・・・?」
気付くと僕は自室のベッドに腰かけていた。 さっきまで、テーブルで食事をしていたのに・・・・・・・。 僕はリビングに戻った。テーブルの上は綺麗に片づけられていた。
「父さん?」 僕は父さんが帰ってきたのではないかと、部屋の中を見て回った。 けれど父さんの姿はなかった。 なんとなく目にとまった冷蔵庫を開けると、父さんの分のご飯がしまわれていた。
「これは誰が・・・?」
僕がしまったのだろうか? また僕は違う僕になっていたのか?
安部の言う通り、僕ではない、もう一人のトモハルがいるのだろうか?
僕は校舎の廊下を歩いていた。 窓からは一階の庭に咲く、アジサイの美しい七色が見える。 普段は地味な花だと感じていたが、こうやって眺めると本当に美しい。
「トモハル」
後ろから呼ばれて、僕はギクリとした。 そのまま振り向かずに歩き去ろうとした。けれど肩を掴まれた。
「呼んだの聞こえなかったのか?それとも無視しようとした?」
振り向くと、安部が怒ったような顔で僕を見ていた。
また記憶が飛んだ。
僕は目が覚めたように宙を見つめた。 ここは?
オレンジに染まったたくさんの机と窓。ああ、ここは教室だ。どこのだ?空き教室? そう思いながら額を押さえた時、隣に安部が立っている事に気付いた。 「僕は・・・・・?」
「ああ、こっちの友春に戻っちゃったのか」 言いながら安部は自分のシャツの襟を直した。 その動きに僕はひっかかりを覚えた。
「安部・・・もしかして・・・・・・・・」 僕は自分の唇に触れた。濡れた感触に体が震えた。
「勝手に僕の体に触れるなよ!」 僕が殴ろうと振りあげた手を、安部は掴んだ。
「勝手になんか触っていないよ。トモハルがして欲しいって言うから、だから抱いてあげたんだ」
冷たく言う安部に、僕の体が震えていく。 僕の胸は燃えるように熱かった。 この苦しさは何だろう、どうして、どうしてこんなに苦しい?
僕は目を細めて安部を見つめた。 安部は相変わらず綺麗な顔をしていた。 さっきまで、彼はもう一人の僕を抱いていたのだろうか? それは僕なのか?別人格は僕といえるのか?
「お前なんか、大嫌いだ・・・・・・・」
そう呟くと体から力が抜けた。 床にペタリと座り込む。けれど安部は掴んでいた右手を放さなかった。
「何をそんなに傷ついた顔してるんだ?」 聞かれて僕は顔を伏せる。 「そんな顔なんか、してない」 「嘘だよ。傷ついたって顔をしている」
やけにやさしい安部の声に、僕の胸は苦しくなる。 僕は堪え切れなくなって叫ぶ。
「うるさいな!僕の事なんかどうでも良いだろう!君にはもう一人のトモハルがいるんだろう?! かわいくて甘え上手なトモハル君がさ!だったらもう僕の事は放っておいてくれ! どうせ君はそっちのトモハルの方が良いんだ、好きなんだろうからさ!」
「妬いているの?」
僕の体がビクリと反応した。 僕は小声で否定する。
「ち・・・違う・・・・・」 「違う?とてもそんな風には見えないよ」
言うと安部はしゃがみこんで僕の顔を覗きこむ。 そむけようとしたら、顎を捕えられた。
「お前は、僕が本当にもう一人のトモハルに心変わりしたと思った? 僕のお前への思いが、そんなモノだと思った?」
安部の言葉に心臓を掴まれた気がした。 僕の目に涙が滲む。
「僕は・・・僕は・・・・・」 僕は安部の胸にしがみついた。
僕は安部の事をいつも邪険にしていた。彼の好意を知っていて無視していた。 僕は人との付き合い方をよく理解していなかった。 だから真っ直ぐな好意に怯え逃げた。 だけどそう、本当は・・・・・・・
「僕は安部の事が好きだ・・・・・・・・」
一旦言葉にすると止まらなくなった。僕は震えながら安部に訴える。 「そうだよ、僕は安部の事が好きだ。拒絶しておきながらずっと好きだったんだ。 だから僕を見てよ・・・・・もう一人の僕なんか見ないで・・・・・・」
「友春」
安部は僕の名前を呼んだ。そしてそのまま僕にキスをした。 僕は安部に抱きしめられ、そのキスに応えた。 安部が僕を見てくれるのが、ただ嬉しかった。
「友春、好きだよ。お前だけが本当に好きなんだ。他の人間なんか、本当にどうでも良いんだ」 「安部・・・・・・」
僕はただ安部を抱きしめた。
ずっと言えなくてごめん、僕も君が大好きだ・・・・・・・・・・・・・・。
アジサイの咲く、中庭のベンチに安部カズマはいた。 その隣には友春の姿もあった。
けれど友春の瞳には正気がない。 また意識が飛んでいた。
通学路で立ちつくしている友春を見つけて、カズマは友春をここに連れてきた。 友春は時折意識をなくす事がある。いや、正確にはなくしているわけではない。 ちゃんと動けるし、会話もできる。けれどその事を後で友春は忘れてしまう。 カズマはもうその症状に慣れていた。
「目・・・綺麗だな・・・・・」 カズマは友春の瞳を覗きこんで呟いた。 彼の言葉は今の友春には届かない。なにをしても分からない。
カズマはしばらく友春の全身を眺めた。そしてシャツを開いて胸元を覗きこむ。 「綺麗な肌・・・・」 言うとカズマは鎖骨に口づけた。 それでも友春は正気に戻らない。
これは解離性健忘、いや、解離性昏迷か離人症というヤツだろう。 精神的ストレス、心の傷でおこる病気だ。 彼の場合、父親との関係が原因と想像できる。
正気に戻った友春は、この時の記憶をなくしている事を、カズマは知っていた。 だから嘘をついた。 その間、友春はもう一人のトモハルになっていると。
カズマは友春の事が好きだった。 けれど友春はその真面目さ、潔癖さゆえに、自分を受け入れてはくれない。 自分が両想いになるにはどうしたら良いだろう?
そう考えた時、その言葉が出てしまった。
カズマは友春の頬を両手で包み込むと、祈るように囁く。
「さあ、友春、もう一人の自分に怯えて嫉妬してくれよ。 そして僕を好きだって言ってくれ。僕は本当に友春の事が好きなんだ。 こんな酷い事も出来る位に・・・・・・・・」
カズマは友春にキスをした。 そして名残惜しそうに顔から手を放すと、美しく咲くアジサイをよけ、近くにある木の下まで移動した。
「さあ友春、目を覚まして。そして僕を見つけて、僕を責めてくれ」
僕の作った罠が、友春を追い詰め苦しめれば、それはそのまま友春の僕への想いと分かるから・・・・・・・。
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