僕は都内の某大学病院で勤める内科医だ。
…と言っても働きはじめたのは先月からだから、厳密に言えばまだ研修医という身分。 保険医の登録もまだなので、もちろん保険診療もできない。
そんな僕が日頃なにをやっているかというと、簡単な問診を取ったり、点滴のルートを取ったり、教授回診という大名行列の金魚のフンの一部になってみたり。 そうやってその日その日をそつなくこなす日々。
そう。 特になりたいと思って進んだ道じゃなかった。 ただそれにみあう知力と財力と両親が医者だというバックボーンがあったからこそ、僕はなんとなく成り行きで医者になった。
しかしいざなってみて気づいたんだけど、僕は人間というものにさほど愛着がもてない性質らしかった。 そりゃあ社会生活を営めるくらいのコミュニケーションはどうにかとれるけど、自分が社交的な人間だなんて逆立ちしたって言えない。 まぁ、元から逆立ちなんてしようとも思わないけど。
とにかく僕は、人と接するより細胞や死体を相手にしたほうがずいぶん楽だと考える人間だった。 だけど熱心な両親の勧めで、僕は大学付属の第3内科というセクションにいる。 いま僕は、そこの腎臓内科と泌尿器科の混合病棟で働いているのだ。
さて。 僕に熱意はなかったが、人気はそれなりにあるようだ。 特に看護師には人気があった。
それはやはり、この若さとルックスからくるのだろう。 僕は現役卒だし、見た目も学者肌のインテリ風で、一部にはすこぶる受けがいい。 モーションかけてくる看護師も、1人や2人ではなかった。
しかし残念ながら、僕は女性に興味がない。 興味があるのは最近ペットショップで購入した、ハイユウヤドクガエルだったりする。 蛙のくせに神経性の毒をもつそれはアマゾン原産で、濃い黄色と黒のまだら模様という、なかなかグロテスクな色合いをしている。 野生のものは毒もきつく、種によっては人を殺せるほどの猛毒を持つケースもあるらしいんだけど、僕が飼っているのはちゃんとブリーダー経由のものなので毒はない。 だけど一度はワイルド個体を飼育てみたいな、なんて思っている。
まぁそれくらい今の僕の興味はカエルに傾いているわけだが、それを知らない一部の先輩Drから僕はしばしば嫌がらせを受けていた。 興味のない女性にいい寄られるのもうざったいが、それをやっかむ先輩Drにも辟易するものがある。
嫌がらせ。 それは大抵において勉強にもならないようなことを押しつけられることだ。 たとえば検査データを至急どこそこ検査室にもって行けだとか、めずらしく検査に立ち合わせてくれると思ったら、一番大切な手技はちっとも教えてくれないかわり、器具の一部を延々持たされたりとか。 だけど患者の相手をするよりましだと思ったので、僕は淡々とそれをこなしてる。
あと嫌がらせの手段として必ず用いられるのが、シモ系。 排泄器官の処置やら検査のこと。
「朝井クン、ちょっと」
僕がナースステーションで受け持ち患者の検査データに目を通していると、そんなふうに後ろから声を掛けられた。 腎内(腎臓内科)とウロ(泌尿器科)の混合病棟なので、他科のDrと接することも多い。 僕の後ろに立っていたのは、すぐ"ビンボウユスリ"するウロの林Drだった。
「はい、なんでしょう」 「ボクこれからオペ室入るんだけど、今キミ空いてるかな?」 「えぇ、まぁ」 「じゃあこの患者の直腸診、頼まれてくれるかな?…もちろん手技は知ってるよね?」
知らないなんて言わせないぞ、という口調だった。
「あぁ、はい。いちおう」 「内科医のキミにとっても、いろんな手技を積み重ねていくのはもちろんいい勉強になるからね」 「はぁ」
とうぜん僕に断る権利はない。
「それじゃ、よろしく頼んだよ」
そう言って先輩Drは白衣の裾を翻し、颯爽とナースステーションを出ていってしまった。 僕は2冊になってしまったカルテに目を落とすと、どちらから先に片付けようかとしばらくの間思案した。
その患者、村上利継(むらかみ としつぐ)は28歳、男性。 先日入院したばかりのクランケだった。
主訴は排尿時痛と排尿困難、それと肉眼的にわかる血尿。 一ヶ月前から体調不良がみとめられていたのだが、仕事が忙しかったので我慢していたとのこと。
僕はとりあえず看護師に検査の準備を頼んで、物品の乗ったトレイをもって患者のもとに出向いた。
「ええと…村上さん、ですね?」
カーテンに仕切られた4人部屋。 向かって右側、出入り口側のベッドにそのクランケはいた。
「あ、はい。僕ですがなにか…」
いきなりカーテンを割って入ってきた僕に、彼はびっくりしたようだ。 車雑誌に挟み込むようにして読んでいたエロ雑誌を慌てて閉じると、大急ぎで居住まいを正した。
「ええと今から検査しますので」 「え?!いまから?!今日の検査は朝の採血だけってきいてたんですけど…」
途端に不安顔になり、僕の顔をうかがう。
「検査室かどこかに行くんですか?」 「どこにも行きません。ここでできる検査ですから。すぐ終ります」 「あの…それって痛いんですかね」
言いにくそうに、訊ねてきた。
「痛みはそれほどでもないでしょう」
……たぶん。
そう心の中で付け加えておいて、僕はさっそく準備に取りかかる。
「先生はえらくお若いんですね」 「ええ。今年卒業したばかりですから」 「ああ、そうなんですか。それじゃあ新人さんなんだ」
よほど暇を持て余していたのか、このクランケは訊きもしないのにべらべらとよく喋った。
「新人さんかぁ。大変ですね、新人って。僕も営業に入りたての頃は判らないことだらけで、色々苦労しましたよ。最初の3ヶ月なんかはもう、ホントにミスだらけで…」 「ハイ、じゃあ脱いでください」 「は?」
さぞかし優秀な営業マンなんであろう彼は、僕の一言で途端に絶句する。 そして僕の顔をそうっとうかがってきた。
「あの…脱いでって、全部脱ぐんですか?」 「下着だけでけっこうです。下着とって横になってください」 「パンツも…ですか?」 「そりゃそうでしょ。どこ診ると思ってるんですか」
使い捨てのゴム性グローブを手にはめながら、僕は呆れた声を出す。 そんな態度に「…そ、そうですよね」と納得して、彼はようやくゴソゴソ下着を取りはじめた。
「じゃあ寝転んだまま、自分の膝を抱えてください」 「…はぁ」
ちょっと恥じらいながら、それでも言われたとおりの体位をとる。 自らの両足を抱えもつ砕石位は、直腸診には欠かせない体位だ。
「なんだか…恥ずかしい格好ですね」
周りはカーテンで仕切られているから、それほど恥ずかしがることはないと思うのだが。 そう口にしようとしたが、そうするとまたお喋りが再開するかもしれなかったので、僕は黙ったきり、指に麻酔薬の入った透明のゼリーを垂らした。
「では、ちょっと失礼」
そう声を掛け、おもむろに彼の肛門に人差し指を挿入する。
「ぅう…?!」
少し窮屈なその中は、ほんのりと温かかった。 わずかに抵抗はあったがゼリーのおかげでさほど苦労せず、僕の指はズブズブとその中に埋ってゆく。
「ア、の…先生、これ何の検査なんですか?」
なんとも形容しがたい表情で、クランケが問う。 僕は指先に神経を集中しながら、
「直腸診です」
手短に答えた。
「なんで、腸の中なんて調べるんです?僕が患ってるのは結石なんでしょ?…腸は関係ないじゃないですか」
泣きそうな顔で訴えてきた。
そんなこと言ったって、僕は言われたとおりにしているだけだ。 不満は主治医に言ってほしい。
そんなふうに思ったが、もちろん言えることではないので僕は触診を続けたまま、この検査の主旨を説明することにした。
「たしかに林先生は結石を疑ってらっしゃいますが、あなたの症状は結石のほかにも色々疑うべき病気がありますから。たとえば腫瘍とか」 「ガ、ガンなんですか?!」
途端にクランケは引きつった声をあげた。 僕の指がギュッと絞めつけられる。
「…たとえばの話です。前立腺癌は高齢者がほとんどなんですが、一応調べなくちゃもしものことだってありえるでしょ?ですから直腸からこうやって、前立腺を触知して…」
言いながら、僕は内壁に沿って指先を鍵状に屈曲させる。
「あぅッ!」
突然、クランケが声を漏らした。 慌てて口を押さえ、気まずそうな視線を向けてくる。
「……楽にしてくださいね」
僕はつとめて平静を装って、そう答えた。
しかし検査を続けるごとに、クランケの息は上がるいっぽうだ。 いちおう隠されているが、仕切りは薄いカーテン一枚。 声は筒抜けだった。
「ハ……ッ、…ァ、…クッ」
なんとか声をあげるのは堪えているようだが、僕の指が動くごとに抱えた脚が小さく痙攣する。 前もすっかりお目覚めのようだった。
「センセ、まだ…終りませんか?」
潤んだ目で僕を見つめる。
……これは面白い。
じつはもう、とうの昔に異常所見がないか調べはついていた。 しかしあんまりクランケが過敏に反応するので、ついつい執拗にその部位を触診してしまっているのだ。
「セン……ッ、早くしてください…。でないと、もう…」
消えいりそうな声で、哀願する。 耐えがたいのか、目を閉じ、眉がぎゅうっと中央に寄せられた。 その表情が、僕をゾクゾクさせる。 ますます僕は指の動きを活性化させた。
「クッ……!」
大きく身体を仰け反らせ、そのクランケは自らの掌に精を放った。 何度かびくびくと痙攣をともなう。 荒い息を何度かするたび、体が弛緩してゆくのがわかった。
「…ハイ、ご苦労様でした。検査は終了です」
僕は指を引き抜くと、そう告げた。 ゴム性のグローブをパチンと手から外し、しばらく中腰だったので腰のあたりを拳でトントン叩きながら、ぐったりするクランケに視線を落とす。
「…ア、…あの」 「特に異常所見は認められませんでした。きっと村上さんの症状は林先生のおっしゃるとおり、結石が原因なんでしょう」 「ハァ。あの…」 「では林先生の指示を守って、早くよくなってください。では僕はこれで失礼します」
にっこり笑顔を浮かべ、僕は病室をあとにした。 医者というのも、これでけっこう楽しいらしい。 僕は初めてそんな気分になった。
朝井が処置室でゴソゴソしていると、看護師が声を掛けてきた。
「先生、なに探してらっしゃるんですか??」 「あぁ、ええと…尿道留置カテーテルってやつを探してるんだけど…」 「バルーンカテーテルですか?それならこっちの棚にあるはずですよ」
そう言って、看護師が奥の棚を物色する。
「一番太いヤツがいいんだ」 「太いのですかー?そうですねぇ…」
探してもらいながら、朝井はいつこれを使用すべきか、密かに綿密なる計画を練る。 医者を志すようになってこれが初めての、やりがいを実感する瞬間であった。
end
|