僕はなにげなく右側を通り過ぎた女性に視線を向けて、あっと思って目を留めた。 茶色い化繊の生地に、灰色っぽい水玉模様の、ひらひらした服を着た女性は、恋人らしき男と腕を組んで歩いていた。 その左の胸元、ひだのよった飾りの布の上の辺りにぽつんと緑色のつぼみがついている。つぼみはさほど大きくはなかったけれど、緑の間からかすかに花弁の色がのぞいていた。 きれいなつぼみだと思う。 派手じゃないけれどやわらかく、花開くタイミングを計っている。 かわいいつぼみ。 「おい、戸野。なに物欲しそうな目で見てんの?」 じっと女性の胸元を見ていた僕を、須田が後ろからつついてきた。 驚いて振り返ると、一緒に歩いていた友人たちが、そろってにやにや笑っている。 「なんだよ、戸野ってああいうのが好きなんだ」 「年上じゃん。へぇ、熟女好み?」 「あれはまだ若いだろ。熟女はもっと上じゃね?」 「にしても、俺は戸野は絶対巨乳好きだと思ってたのに、違うのか、俺をだまして裏切ったのか、戸野!」 「いや、実は脱いだらすごいのかもよ」 好き勝手なことを言っては、ちらちらこっちを見る。 僕は自分の行動が誤解されたことに気づいて、慌てた。 「えっ、いや、ちがっ」 否定しようとするけれど、動揺するのが怪しいと友人たちは取り合ってくれない。 かぁっと顔があつくなるのがわかる。きっと頬や耳はもう真っ赤になってる。 僕は母親譲りで色が白くて、しかも皮膚が薄いらしく、すぐにトマトみたいに顔が赤くなるのだ。恥ずかしくてうつむくと、隣から伸びてきた腕が僕の頭に乗った。 「なに言ってんだよ、胸はサイズより形だろ?」 笑い混じりの声が肩のすぐ側から聞こえた。 視線をあげると幼馴染の宍野が、笑いながらちらっと視線を向けてきた。 頭に乗った手が、くしゃくしゃ髪を乱してくる。 「服の上からじゃ、形なんかわかんねぇだろ」 「だから、想像すんじゃん。頭使えよ」 明るく笑いながら、僕の背を押してゆっくり歩き出す。 友人たちの興味は僕のことより胸はサイズか形かという議論に移っていて、昼日中の往来でするには多少問題がある言葉をいくつも並べていた。 「遊佐、なんか見えたか?」 他の友人たちから数歩分離れたとき、宍野が小さな声で言った。 「うん」 僕がうなずくと、宍野はくしゃくしゃにした髪をなでながら手を離す。 「そっか、あんま気にすんなよ」 今度の言葉にも僕はうんとうなずいた。
僕には他人の恋が見える。 人の胸に芽生える恋の芽が見える。 人が誰かを好きになると左の胸元に恋の芽が芽吹く。それは、恋が深まれば深まるほど大きくなって、最後には花が咲く。芽の生え方も大きさも色も人によってまちまちで、花のつきかたや色、咲きかたもやっぱりまちまちだ。咲いてからどうなるのかはよくわからない。 そこまで確認したことは一度もなかったから。 僕がはじめて恋の芽を見たのは、幼稚園に通っている頃だった。 隣の家のお姉さんの胸にある日突然小さな芽が出た。しばらくすると芽は大きくなって、それから半年くらいして突然消えた。同じころに隣のお姉さんが結婚直前まで行っていた彼氏に振られたのだと母親や近所のおばさんが噂していた。 恋の芽は恋が生まれると生まれて、消えるときに消える。 僕の両親にもそれぞれ恋の芽があった。それはすくすく育っていて、しおれたりもせずずっとそこにあった。だけど両親は僕が小学校三年になったときに急に離婚した。 どうして? と尋ねた僕に両親は困った顔を見せた。 後で聞いた話だと、両親はそれぞれ別の人を好きになってそれで別れたらしい。 僕は両親の離婚で、恋の芽が見えたところで、わかるのはその人が恋をしているってことだけで、相手が誰なのかはわからないのを知った。 そんな苦い経験を経て、僕はこの目との付き合いかたにも慣れてきた。 それでも、ときにはつい目をやってしまって失敗することもある。 恋の芽が見えても実生活ではなんの役にも立たない。 たとえば誰かに、恋の芽が生えてますよと言ったところで、まともに受けあう人はほとんどいないし、芽の生えている本人は恋をしていると知ってるんだから余計なお世話だ。 僕が恋の芽が見えると知っているのは、僕自身と幼馴染の宍野だけ。 宍野だけが、幼い頃から僕の話を真剣に聞いてくれた。 ただ、最近少し気がかりなことがある。 その宍野の左胸に、小さくぽつんと恋の芽が生えようとしていた。 それはまだ本当に小さくて、けし粒みたいなサイズだったけれど、見間違えようがない。 宍野は誰かに恋をしそうになっている。 それが誰なのか、僕にはわからないけれど。
宍野が隣のクラスの東野さんと付き合いだした。 その話を聞いて僕は、ああ、と思った。 宍野の恋の相手は東野さんだったんだ。 昼休みにふたりして教室を出ていったり、放課後に一緒に帰っていく姿を、僕は少しさびしく思いながら見送った。 彼女ができたんなら、友達よりそっちを優先するのは当たり前だとわかっていても、僕はなんだか置き去りにされたような気がした。過ぎていく毎日の中で、宍野が占めていた場所だけぽっかり空いてしまって、なんとなくどれも収まりが悪い。 教室で授業を受けているとき、東野さんが用事があって、宍野と一緒に家に帰るとき、僕はちらちらと彼の胸元を盗み見る。 そこにはやっぱりぽつんと小さな恋の芽があって、だけど、いつまで経っても大きくなる様子がなかった。 どうしてなんだろうと、僕は不思議に思う。 東野さんは地味だけどやさしい女の子で、宍野と一緒にいるとすごくうれしそうな顔をする。彼女の胸の恋の芽は大きく膨らんでいて、いまにもぱっと花を咲かせそうだった。 なのに、宍野の恋の芽は小さいまま。 東野さんの大きな恋の芽と、宍野の小さな恋の芽。 並んでいるとその差は歴然としていて、僕はそれを見るたびなんだか複雑な気持ちになる。東野さんがかわいそうで、こんな差に気づいてしまう自分の目がとても嫌なものに思えて、きまづかった。 僕は自然と宍野の胸元から視線をそらすようになった。 宍野と東野さんはそれから二カ月付き合って、別れた。 どうして別れたのか、僕は尋ねなかったし、宍野も言おうとしなかった。 そういえば、宍野は東野さんと付き合う前も付き合っている間も、彼女の胸に恋の芽があるかどうか僕に尋ねようとしたことは一度もなかった。 僕には人の恋が見えるって、宍野は知っているはずなのに。
東野さんと別れた後も、宍野の恋の芽は変わらず彼の胸にあった。 宍野とは同じクラスで、席も近かったから、毎日彼を見る機会があったけれど、彼の胸の芽は一度も消えなかった。だから、宍野の恋の芽がずっと同じ相手だっていうのはわかっていた。 宍野がずっと、ささやかに思っている相手。 東野さんじゃない別の誰か。 僕が冗談混じりに「宍野は好きな人っている?」と尋ねても、彼は「いない」と答えるだけで、ちいさく芽吹いた恋の相手を決して教えてくれない。 もしかしたら恋の芽が小さすぎて、宍野自身その存在に気づいていないのかもしれない。 僕はときどき宍野の恋の相手は誰だろうと、思いを巡らせた。 いくつも候補は上がるけれど、これだという相手は思いつかないまま時間が過ぎる。 ただ、宍野の恋の相手が誰であれ、宍野がその人と付き合うのことになったら、きっといまほど側にいられない。 そのことが少し切なかった。
宍野の恋の芽が急に大きくなったのは、中学校を卒業して高校に入った頃からだった。 ある日気づいたときから、宍野の左胸の片隅に小さくぽつんとあった芽が、高校に入った途端ぐんぐん成長して大きく葉を広げはじめた。 宍野の恋は僕が見ている間に、どんどん深く大きくなった。 これだけ大きくなれば、宍野自身も恋に気づいているはずだ。 恋に気づくと人は変になる。 だからよく見ていれば、彼が誰に恋をしているのか知るのは簡単なはずだった。 けれど、僕がどれだけ宍野の周囲に目を凝らしても、彼の行動に気を配っても、宍野が恋をしている相手を見つけることはできなかった。 その間も、恋の芽は着実に大きくなる。 僕にはそれが、宍野が去っていくまでのカウントダウンに見えた。 見ているのが苦痛だった。
宍野の恋の芽を見るのが辛くなってきたある日、僕はもうひとつ恋の芽を見つけた。 それは僕の左の胸にあった。 朝目が覚めて、パジャマから制服に着替える途中で気づいた。 ボタンをはずそうと下を向いた目に、小さなそれは飛び込んできた。 弱々しくて自信なさげな元気のない恋の芽。 僕はそれを見つけた瞬間、絶望的な気持ちになってしばらく動くことができなかった。 僕は恋なんかしてない。 そう胸の内で呟いたけれど、目の前にある恋の芽は消せない。 恋の芽があるってことは、僕は誰かに恋をしてるってことだ。 だけど思い当たる節はどこにもなかった。 僕の目はどこかおかしくなったのかもしれない。 制服に着替えて学校へ向かいながらそう思った。 そして、僕は恋の芽のことで相談できる相手はひとりしかいない。 だから宍野に相談しようと思って、いつも宍野と一緒になるコンビニまで足早に歩いて行って、そこに彼の姿がないのに気づいてはっとした。 そうだ、宍野はもう学校へ行っているんだ。 宍野は一週間前から、上級生の新井先輩と付き合いはじめた。 新井先輩が乗り換えの関係で一本早い電車を使っているというので、宍野も一本早い電車に乗ることになったのだ。 だからコンビニにいても宍野が来ることはない。 新井先輩は明るい人で、にこにこ笑って休み時間や昼に宍野を迎えにくる。登校と下校を一緒にしたいと言ったのも新井先輩らしい。 新井先輩の胸の恋の芽は大きくないけれどすんなりした形で、いかにもきれいな花が咲きそうだった。宍野の恋の芽もいまでは大きくなったから、並んで立っても少しも変じゃない。 僕の目から見てもふたりはぴったり合った恋人同士に見えた。 宍野はもしかして、新井先輩のことが好きだったのかな。 新井先輩は河東中学で、僕や宍野は南中学だから、どこで知り合ったのかはちっともわからないけれど、それなら、高校になって急に恋の芽が大きくなったのもわかる。先輩がすぐ側で生活していて、見かける機会も多くなったから、恋も大きくなったってことなんだろう。 僕は思わず溜め息をついていた。 ずっと疑問に思っていた宍野の恋の相手がわかって、すっきりしてもいいはずなのに、そんな気持ちにはとてもなれない。 コンビニで飲み物とお昼ご飯を買って学校へ向かう。 教室に着くと宍野はもう席に座っていた。 「おはよ」 僕が声をかけると、宍野はにっと笑って手を振る。 「なんか今日、やたらと寒くね?」 「そうだね、ちょっとね」 鞄を置きながら返事をすると、宍野は身を乗り出して僕の制服を引っ張った。 「なあ、戸野。いまさ、山田来んなって念じてたんだけど」 「山田先生? なんで?」 「だって体育だりぃし。山田休めばやんないじゃん、体育。柔道とかやなんだけど」 僕はそれに笑って、ふたりして窓を眺めた。 山田来んなと宍野がぶつぶつつぶやく。 そのとき机に置かれていた宍野の携帯が音を立てて震えた。 表面のライトが明滅して、着信を知らせる。 「先輩だ」 携帯を開いた宍野が小さくつぶやいて、のろのろした動きで返信を打ちはじめる。 僕は向かいからそれを見つめていた。 指先で操作される携帯に目を向けると、宍野の胸元にある恋の芽が嫌でも視界に入ってくる。 新井先輩のメールにすぐに返事を打つ宍野と、彼の恋の芽。 すぐ側にいるのに、こっちを見てくれない幼馴染に、僕はなんだかやきもきしていた。意味もなく名前を呼んで、こっちを向かせたい気さえする。 その胸の恋の芽は新井先輩のための物なのと、聞いてみたかった。 ふと、携帯を打っていた宍野が視線をあげた。 「どうした?」 尋ねられて、はっとする。 いくらなんでも凝視しすぎだったらしい。 僕はその場を取り繕うようにぎこちなく笑った。 「速攻でメール返すなんて、彼女相手だとやっぱり違うんだなって」 「そんなんじゃねぇよ」 宍野は少し照れくさそうに怒ったような声を出した。 それが、まるでのろけのように感じられて、僕はちくっと胸に痛みを覚えた。 無意識に痛んだあたりを手で探る。 宍野がまたメールを打ちはじめ、僕は視線を下に落とした。 その目に胸に当てた自分の右手が見える。 それはちょうど、恋の芽の真上に押し当てられていた。
どうしよう。 学校のトイレの鏡の前に立って僕は呆然としていた。 気づかなければよかったのに、僕は気づいてしまった。 恋の芽なんか見えなければ気のせいで済ませられたのに、左胸にある芽がそれを許してくれない。 僕が恋をしている相手は宍野だ。 宍野のことを考えたり、宍野と先輩が一緒にいるのを見るたびに、ずきずきする左胸がその証拠だった。痛みは恋の芽が生えているのと同じ場所から生まれていた。 僕は宍野が好きなのだ。 だけど宍野が好きなのはきっと先輩だ。 そう思うと胸がずきずきする。 僕は恋の芽の真上に手を当てて、そこを探った。 目には見えるけれど触ることはできない恋の芽。 こんなの見えなければよかったのに。 そう思って目を閉じ、大きく息を吐いた。
宍野と新井先輩の関係はそれからも良好で長続きした。 ふたり仲良く学校へ来て、仲良く帰る。 休み時間になると新井先輩がにこにこ明るい顔でやってきて、宍野を連れ去っていく。 僕はその背中をさびしく見送った。 笑いながら宍野を連れて行ってしまう先輩が嫌で、それ以上に先輩に嫉妬している自分が嫌だった。 僕は宍野の幼馴染でただの友達だ。 宍野に片思いしているただの友達。 恋人である先輩とは違う。 明るく話をして明るく笑っているふたりを見て、ひとりぐずぐずと悩んでいる僕はバカみたいだった。 僕の恋は先輩ほどまっすぐじゃない。 現に、先輩の恋の芽はやわらかくほころんでいるのに、僕の恋の芽は卑屈に縮こまって色もやたらと濃くて、葉っぱはとげとげして攻撃的だった。 こんな恋じゃ、きっと誰も幸せにならない。 そういう見本みたいな恋の芽だった。 服を着替えるとき、鏡を見るとき、自分を見下ろすとき、胸に生えた芽を見て、僕は悲しくなる。何度も手を伸ばして、むしり取ってやろうと思うのに、指は芽に触れることもできずにシャツを握るだけで終わる。 こんなものいらない、枯れちゃえ。 そう念じてもみるけれど、恋の芽はどれだけねじくれても枯れる様子だけは見せなかった。 僕はこんな芽が生えている自分が恥ずかしくて、先輩や宍野に会わせる顔がなくて、学校へ通うのが憂鬱になっていた。 もし、誰かがこの芽を見たらなんていうだろうと思う。 僕以外の誰かが恋の芽なんて見えると言っているのを聞いたことがないけれど、もしかしたら誰も口にしないだけで、本当はみんなも見えているのかもしれない。僕の見ているものも、僕の考えていることも、僕の宍野への思いも、本当は全部筒抜けなのかもしれない。 そう思うと耐えられない。 なにより、もし宍野に知られたらどうすればいいのか。 それが一番不安だった。 だから、学年が変わって宍野とクラスが別になったときは、口では「残念」と言いながらも内心ほっとしていた。
僕はなるべく遠くから宍野を見つめた。 宍野にも新井先輩にも気づかれないように。 宍野の胸の恋の芽は、大きくなってつぼみの一歩手前まで来てそこで成長が止まっている。僕はそれをどうしてだろうと思うのと同時に、それがこれ以上大きくならず、花なんか咲かなければいいと思っている自分に気づいて、見るたびに落ち込む。 僕は醜い。 距離を取れば苦しくなくなると思ったのに、まだ胸が痛い。 こんな遠くから見ているのに、宍野と新井先輩が一緒にいると嫉妬する。 だから僕はもう、宍野に近づいちゃいけないと思ったんだ。だけど見つめることだけはやめられなくて、見れば苦しいとわかっていても見つめ続ける。 昼間堪えた苦しみは夜になると蘇ってきて、布団の中で死にたい気分で目を閉じた夜が何度もあった。 でもどうしても目が彼を追う。 どうしても、この胸の恋の芽は枯れない。
「最近俺んちに遊びに来ないけど、なんで?」 食堂で偶然行き合った宍野にそう聞かれて、僕はうどんを口に入れたまま黙り込んだ。 視線をそらして、うどんを噛む。つゆの絡んだ太めのうどんが、まるで粘土にでもなったように、急に味が分からなくなった。 なんとかそれを飲み下して、精一杯なんでもない顔を装った。 「そうだっけ?」 白々しい返事に、宍野が眉をひそめる。 「そうだよ。メールも返事がめったに来ない」 「メールはごめん。でもほら、宍野は先輩がいるし」 「なんだそれ」 なんだもなにも、本当の気持ちだ。 宍野は恋人がいて、僕が割り込む隙間なんてないんだから、近づいてこないで欲しいんだ。笑いかけられたり、やさしくされたりしたらきっと、僕は期待して勘違いしてしまう。 だから嫌だ。 友達じゃダメなのがわかってるのに、宍野の隣にある友達のスペースに当然という顔で収まって、心の中ではバカみたいな嫉妬をしたり、バカみたいな期待をしたりする。 そういうのはダメなんだ。 「遊佐。お前、俺が彼女ができたら友達を忘れる人間だと思ってんの?」 「思ってないよ」 ――だけど、僕は邪魔でしょ。 心の中だけで呟いて、苦笑いを浮かべる。 昼ご飯を食べ終えて、教室に戻るまで、宍野はなんだか納得いかない顔で僕を見ていた。 僕は宍野と廊下で別れて、最後まで笑顔を浮かべていた自分をほめる。 本当に小さいことだけれど、すごく大変だったから。 自分の教室の扉をくぐるとき、そういえばさっき見た宍野の恋の芽が、少し前より小さくなっていた気がして廊下を振り向いたけれど、もうそこに宍野の姿はなかった。
宍野の恋の芽はほんの少しずつだったけれど、確実に小さくなっていた。 宍野と新井先輩の間になにかあったのかもしれない。 けれど、遠くから見ている僕には詳しいことはわからない。 そのままひと月が経って、宍野の恋の芽が一番大きかったときからひとまわり小さくなった頃、宍野と新井先輩が別れたという噂を聞いた。 僕はびっくりして、宍野が悲しんでいるんじゃないかと心配になった。 その一方で、これであの恋の芽は枯れるはずだと、暗い喜びも感じていた。 噂を聞いた翌日、グラウンドで見かけた宍野はいつもと少しも変わらない様子だった。クラスメイトとじゃれあいながら笑って、肩を叩いたり叩き返されたりしている。 そして、遠目に見えるその左胸にはなぜか、まだ恋の芽が根付いたままだった。 ずっと好きだった相手と別れたにしては明るい宍野の様子と、彼の胸にとどまったままの恋の芽と、僕はそれがどういう意味を持つのか、理解できずに眉をひそめた。 次の日も、その次の日も、僕は宍野を見つめていた。 じっくりと、その姿に悲しみを探したけれど、そんなものは少しも見つからない。 恋の芽の様子もじっと見たけれど、徐々に小さくなっていること以外は、至って普通だった。僕の芽のようにねじくれもせず、きれいでのびやかな姿のまま。ただ、その葉は伸びる先を探しあぐねるように葉先が二つに割れていた。 そんな宍野とは対照的に、新井先輩は毎日憂鬱そうで、胸に広がっていた恋の芽はしぼんでどこかへ行ってしまっていた。 この状況は、宍野が新井先輩を振ったようにしか見えない。 宍野が恋をしてたのは、新井先輩じゃなかったんだろうか。 それなら、誰だろう。 そう思って改めて周囲を見渡したけれど、それらしい相手が見つからない。 見つからないならそのほうがいい。 宍野が好きな相手なんて知りたくない。 僕はそう思って現実から目を閉ざした。
あ、ゴーグルを忘れたと思った時には授業開始のチャイムが鳴っていて、僕はあわてて更衣室に取って返した。 プールへ向かうクラスメイトの脇を通って、冷たいコンクリートの廊下をはだしで歩く。 水泳の授業は憂鬱で、つい注意が散漫になる。 特に今日は、宍野のクラスと合同授業で、そのせいでいつも以上に憂鬱だった。 それでも、塩素のきついプールにゴーグルなしで潜るのは嫌だ。 ゴーグルをしていたって、たまに目が真っ赤になってひりひりすることがあるのに、そのまま潜ったら午後はまともに黒板が見えなくなる。 やっと更衣室にたどり着き鉄の重い扉を押しあけると、小さな窓からそそぐうすぼんやりした光の中に、宍野が立っていた。 えっ、と思って立ち止まる。 宍野のほうも僕が来たことに驚いたのか、制服を脱ぎかけた格好で目を見開いた。 「えっと、もう、授業はじまってるよ」 「わかってる。ちょっと遅れた」 なんでとは尋ねられなくて「そうなんだ」と呟くように言ってロッカーへ向かう。 ガタンと大きな音を立てて扉を開き、ゴーグルを取って振り返ると、宍野がさっきと同じ姿勢でじっとこっちを見ていた。 「な、なに?」 動揺して上ずった声で尋ねると、宍野が眉をひそめる。 その表情があまりに不愉快そうだったので、僕は戸惑った。 視線が宍野の目をそれてさまよい、小さく恋の芽の芽吹く左胸に吸い寄せられる。 少し日に焼けた肌の上に、葉を広げた恋の芽。 姿はもうだいぶ小さくなっているのに、決して枯れずしおれもせず、精一杯葉を広げている。僕のくすんでねじくれた恋の芽とは全然違う。 恋の芽が小さくなっているってことは、宍野の恋は望みが薄いか、興味が薄れているということなのに、それでも恋の芽は伸びようとしている。 それは、切なくなるほどいじらしくて、自分の醜さがひときわはっきり感じられた。 僕が眉をひそめて目をそむけると、宍野がと声をかけてきた。 「なあ、遊佐。もしかして、ここになんか見えるか」 彼はそう言って自分の胸に手を置く。 心臓のある場所、指先が恋の芽をかすめる位置。 「もしかして、これがあるから、俺のこと避けるようになったのか?」 「……違う」 否定しなきゃと思って、慌てて首を横に振る。 気づかれたらおしまいだ。 宍野の恋に気づいて、勝手に嫉妬して傷ついていたなんて。 僕が宍野を好きだなんて、知られてはいけない。 けど、宍野は厳しい顔で僕を見つめていた。 「見えるんだろ。芽があるんだろ? だから、お前は俺が嫌になった」 「違うよ、そういうんじゃない。僕は宍野のこと嫌いじゃない」 僕が嫌いなのは僕自身だ。 宍野の恋を祝福してやれない醜い自分だ。 宍野を嫌うなんてありえない。 「嘘言うなよ。気持ち悪いならそう言えよ」 急に宍野が近づいてきて、僕の肩をつかんだ。 「俺だって、どうにかしようとしたんだ。だけど、ダメだった。だから、遊佐。せめて言わせてくれ。お前が知ってるのも、これが最低なのはわかってるんだよ」 真剣な顔で、苦しそうな声で宍野が言う。 「俺は、お前が好きなんだよ」 「え?」 聞こえた言葉の意味が呑み込めない。 「だって、新井先輩は」 「彼女ができたら、お前に変なこと考えなくていいかと思ったんだよ」 「だって、宍野……」 宍野の胸には恋の芽があるのに。 それは誰か他の人のほうを向いていると思ってたのに。 宍野が探るように僕の肩を引き寄せ、抱きしめてくる。 「逃げないのか」 苦しそうにくぐもった声で言われて、首を横に振った。 「お前、話聞いてたのか。俺はお前が……」 「わかってる。わかった」 僕がゆっくり答えると、宍野の腕がこわばる。 引き寄せられて胸と胸が触れる。 僕の恋の芽と宍野の恋の芽がすれ違う。 見下ろすと僕の右胸に宍野の恋が入り込んで、宍野の右胸に僕の恋が入り込む。 「見えるよ、宍野の胸に芽が生えてるの」 「ああ」 「僕の胸にもある」 小さくそう言ったとたん、宍野が驚いた顔で肩を押した。 胸が離れるのをさびしく感じながら顔をあげると、正面から宍野がじっと見つめてくる。 「遊佐」 「僕にもあるよ。宍野と同じ芽が。姿は違うけど、宍野のほうを向いてる」 「お前、嘘じゃないだろうな」 「こんな嘘、言わないよ。僕のはここにあって、宍野のはここ」 自分の胸を右手で抑え、左手で宍野の左の胸元に触れた。 緊張して手のひらが少ししめる。 触れた胸はどくどくと速いペースで心臓が脈打っていた。 「きちんとあるよ」 言ったとたんにまた抱き寄せられて、僕の手を胸に挟んだまま恋の芽が触れた。 肩に宍野の顔がうずまる。 どこも行くなとか、しっかり側にいろとか、しばらく片から文句が聞こえていた。僕はそれにうんうんとうなずき返し、宍野の肩に頬をうずめた。 手のひらをすり抜けて触れる恋の芽。 僕のはねじくれているけれど、気持ちは少しも変わらない。 きっとゆっくり育てていけば、宍野の芽のようにまっすぐのびやかに育つだろう。もしかしたら花だって咲くかもしれない。
「とりあえず、今日はうちに来いよ」 やっと肩から顔をあげた宍野が、少しばつが悪そうな顔で言った。 「うん」 大きくうなずくと、宍野の手が伸びてきて髪をくしゃくしゃにする。 僕はその温かい手に目を閉じた。
恋の芽がふたつ寄り添う。 僕らはそうして、恋を育てはじめる。
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