その日俺を呼び出したのは、大学時代の友人、清家景正の母親だった。 「いらっしゃい薫子さん。相変わらずお化粧が濃いようね」 和邸宅のでかい玄関で俺を出迎えるなり、年は食ったものの相変わらず美人の母親は、すうっと目を眇めた。廊下から立ったまんま見下ろしてくるあたり、相当怒ってんだろうなあという予測が簡単につく。 正直コワイ。 けど俺はにっこり微笑んで、裏声で「恐れ入ります」とかなんとか適当なことを言ってスルーした。 とりあえず上がるように促され、あがりかまちに上ってから膝をついて靴を揃える。とにかくこのヒトは色々うるさいのだ。七年前の、初めて会ったときの恐怖を俺は思い出した。悪い人じゃないんだろうけど、息苦しいというか──息子として一緒に暮らすのはなかなかきついだろうなと、俺はもう五年は会っていない友人の顔を思い浮かべる。 よそ様に上がりこんだときの礼儀作法としては及第点だったのか、靴の揃え方については文句を言われずほっとしていたら、別のところで駄目出しされた。 「薫子さん、あなたそんなにお化粧しているのにかかとのないお靴なんておかしいですよ。学生ならまだしも、もう二十八でしょう。ちょっとバランスというものを考えなさい」 「あーええ、と、わたくし身長が高すぎるもので、ハイヒールは恥ずかしいんですの」 「だったらもう少しお化粧を薄くなさいな。──……まあいいわ。こちらよ」 美人母親は俺についと背を向けて、廊下を歩き出した。 ──よくまあ人の靴まで見てるもんだ。 呆れるというよりは感心する。しかし26.5なんていう女としてはかなりなでかい靴履いてきてんのにそこに触れないあたり、やっぱり育ちがいいってやつなんだろうなとは思う。人の身体的ナントカに言及しないのは淑女のたしなみ、みたいな。 その育ちのいいおばさまが、しゃっきり着物を着こなした背を見せ、艶々に磨かれた広い廊下を先導していく。俺は、どうしたもんかなあ、と不安に思いつつくっついていく。 「…… 薫子さん。本当にあなたじゃないんでしょうね? 景正がどこにいるのかまったくご存知ないというの?」 「セイカ──じゃなくて、景正さんには、卒業以来会っておりませんわ」 電話でもした会話を繰り返し、俺は内心溜息をついた。 ──ほんとお前、どこ行っちゃったの。 先週、この母親から電話がかかってきたのだ。『景正が家出した、あなたが誘惑したのか』と。
§ §
清家景正──セイケカゲマサは、そんな武士めいた名前に反して、線の細いどえらい美形だった。髪は黒い絹糸のようにサラサラ、涼やかな目元と白く滑らかな頬に、形の良い鼻と唇。人物画コンクールみたいのがあったとして、それの画題に選んだら、「人形を描くのは不可」といわれること間違いナシな整い具合だ。 まあ、金に飽かせて代々家柄ある美女を探しては嫁にしてきた家だそうから、遺伝的に考えて清家が美形なのも至極当然のこととも思えた。そして清家の母親が、今後も美形の系譜とともに血統も継がれていくものと思い込んでたとしても、何も悪いことはない。 しかし残念ながら、清家さんちの一人息子景正は、美女を娶れない人間だった。生粋のゲイだったのだ。
俺と清家は大学の軽音部で出会った。 軽音部というのはものすごく簡単に言えばバンドやろうぜ!って人間の集まりだ。オリジナル楽曲作ったりするとこもあるみたいだけど、俺たちのサークルは初心者も多かったしコピーバンドばかりだった。 俺と清家は聴いているものやりたいものの趣味がまるっきりおんなじだったため、出会って即意気投合した。ベースの俺とボーカルの清家でユニットを組んで、やりたい楽曲に合わせてギターやドラムを募集するというスタイルにした。 そこそこ聴けるようになってきた頃、先輩がらみで対バンのお誘いがあり、インパクトが欲しいよな、というので俺はなぜか女装させられ──身長百七十センチの女装ベーシストは女受けがものすごいよかった──以来俺のバンドネームは薫子になった。本名に『子』をつけただけという安直なものだけど。濃い化粧の仕方と、スカートのときはどんなロンスカであろうとスネ毛剃れという教訓は、このときに習得した。 ちなみに俺が清家のことを『セイカ』と呼んでしまうのもそのときの名残だ。俺はセイカといえばノートとかぬりえしか思い出さなかったんだけど、清家は「セイケよりセイカのがかっこいいと思うんだよね」と、自分の名前をセイカに決めた。 インディーズデビューを狙うとか、そんな目標のある活動ではなかったけれど、一緒に身を入れる事柄があるってのは、それだけで繋がりが濃くなっていく要因だと思う。 清家のウチがかなりいい家筋であることや、たまに会う清家の親友が、実は恋人であることなどを程なくして俺は知った。勿論俺のヒミツも清家には筒抜けだったけど、お互い様ってやつだ。 そんなこんなで友情を育みつつ日々をすごし、二人して三年生になったある日。清家が神妙な顔で俺の腕を掴んだ。 「薫、俺の恋人になって」 と。 「ならねーよ。隼人と喧嘩でもしたのかよ」 「喧嘩はしてないけど、駄目なんだよ隼人じゃ」 「ダメ?」 尋ねてみると、結婚前提でどこぞの娘と顔合わせしてみないかと母親に勧められ、清家は付き合っている相手がいると言ってしまったのだという。もちろん嘘ではないわけだが、 「隼人を紹介できるわけないし。でもよく知らない女に恋人役してもらうなんてもっとできないし」 と、清家は美しい顔を曇らせた。 「まあそうだろうなあ」 清家の本当の恋人隼人を脳内で女装させ、その凶悪さに半ば噴き出しつつ、俺は偽恋人役を了承した。 かくして、『化粧の濃い薫子ちゃん』は、清家景正の恋人としてあの口うるさい母親に紹介されたわけだ。 女装姿を人に晒すのには慣れていたものの、昼日中ホテルのティールームなんて場所で待ち合わせすることになったときには、さすがにどういう拷問だと安請け合いした自分を恨みもした。ライブハウスならともかく真昼間じゃ絶対男だってバレバレだろうなあ恥ずかしいなあ、もしかして清家のかーさんに怒られるんじゃないかなあ、と。 だが悲しいことにというか幸いなことにというか、俺は女装男には見えなかったようだ。 帽子で顔を隠しつつ家からホテルに向かう三十分ほどの道のりで、キャッチとナンパにそれぞれ一回つかまったがオカマ呼ばわりされることはなかった。清家の母親も、化粧が濃いだのマナーだの礼儀だのについて口やかましく語りはしたものの、俺の正体について云々することは一切なかった。女言葉がよくわからず、姉の時代物少女マンガで得た知識のままに喋っていたのだが、それにも突っ込みはなかった。 「ひとつだけおぼえておいて頂戴」 歓談とは程遠い時間を四十分ばかり過ごし、そろそろ散会しようかとなった頃、清家の母親は言った。 「今あなたと景正のお付き合いを認めるのは、女性との交際経験はそれなりに有益だと考えているからです。女性を一切知らない状態のままお見合い結婚なんてさせたりしたら、将来ちょっとしたきっかけでとち狂いそうで怖いからなの。よくいるでしょう、不惑にもなって不倫して家庭を顧みず出奔するような殿方。あなたは景正がそうならないためにちょっとした経験を積ませてくださればいいの。だから薫子さん、あなたゆめゆめ景正と結婚しようなんてお思いにならないでね。卒業の時にはきれいにお別れして頂戴」 ひと息にこれだけのことを告げられて俺は唖然としてしまった。よくまあ清家はこの母親と一つ屋根の下で暮らせているもんだ。斜向かいに腰掛けた清家をチラ見すると、適当に答えてくれというように目配せされたので、「全部は景正さん次第ですわほほほ」なんつって適当に受け流した。 話を切り上げると、清家は目顔で俺に礼をしつつ母親を連れ帰っていった。一時間に満たないくらいの対面だったけど俺はどっと疲れてしまった。あの母親にいつも付き合ってる清家と清家の親父はエライ、とマジで思う。 さっさとウチ帰って着替えたかったけど、立ち上がる気力もなくなるくらい脱力してたので、しばらくボケっと茶を飲んでいたら、身なりのいい男にナンパされた。その数、三人。なんて完璧な女装。俺が余計脱力してしまったことはいうまでもない。
「かおるん、えらい目におうたって?」 母親との対面後、清家の恋人と飲む機会があったとき、乾杯後開口一番にそいつ──隼人はそう言って笑った。 「かおるんて言うな。はやとんて呼ぶぞてめえ」 「ごめんなさい」 清家の恋人、隼人は、その頃イタリアンレストランの見習いをしていた。見目良い美味い料理を作る男で、清家とは中学高校で一緒だったそうだ。清家の母親とも面識があるらしく、なかなか怖い美人やろ、とニヤニヤするその顔に、俺は素直に頷いた。 「そういやさ、お前らってどっちから告ったの?」 今までは他人の恋愛に首を突っ込みすぎるのもどうかと思って訊いたことがなかったが、俺も立派な当事者になってしまったのでせっかくだから尋ねてみた。 「ああ、それはな」 隼人が口を開いたとたん、妨害のためか清家がボーカルにあるまじき声でわあわあ騒ぎだした──喉つぶしたらどうすんだ──が、隼人はそんな清家をヘッドロックして黙らせてくれた。そしてニコニコ笑って続きを口にする。 「高校の卒業式のとき、清家が泣きながら告ってきたんや」 その直後、テーブルがガタンと大揺れした。下を覗いてみると、清家が隼人を蹴りまくっていたので、俺は盛大に笑ってしまった。暴力行為なのにいちゃついてるようにしか見えなかったせいもあるけれど、蹴りを入れる清家がちゃんと靴を脱いでいたのが妙にツボったのだ。 それからしばらくは当たり障りのない話をしていたが、家から電話が入った清家が「隼人、変なこと薫に吹き込むなよ」と厳しく告げて店の外へ出て行ったのを機に、俺は身を乗り出した。 「清家が泣いて告白なんてすげえ意外」 変なこと話すな、なんて釘を刺されては、逆にネタにするしかない。さっきの話を蒸し返す俺に、いつもはふざけている隼人が妙に静かなエロくさい顔で微笑んだ。 「告るから泣いてたわけやない思うけどな。最初に言われたんは、ゴメン、やったし」 「ゴメン? 友達なのに好きになっちゃってゴメン、とか?」 尋ねると、音楽やってるやつはみんなロマンチストやなと笑われてしまった。そういうわけでもないんだけど。 「俺なあ、ほんまは中学出たらすぐに料理関係の修行ゆうか、やろう思ててんけど」 「へえ。……って、お前ら結構いい学校じゃなかったっけ」 たしか良家の子女の集う幼稚舎からあるような伝統私立に通っていたはずだ。 「まあそうやな。でも俺の方は母方のじいちゃんが江戸前の料理人しよったからな、そういうんに対して応援してくれる感じやったんよ。修行は早いうちからのがええやろて、中卒でもOKて親の了解は取れてたんや。しゃーけど清家が絶対高校は出といた方がええてごっつい説得するし、そいで俺も最後は納得してん」 「へー」 「ほしたら卒業のときなって泣きながらゴメンて謝ってきよったんや。『俺のわがままで、三年間無駄にさせてゴメン』て」 これまた意外だと俺は酒に口をつけた。 「高校三年間、楽しかったし進学してよかった思うてたとこにそんなん言われて、俺ちびっとむかついてん。しゃあのに続けて清家のやついうんや──隼人が好きだから一緒にいたくてわがまま言った、ゴメン、て」 思わずぽかんとすると、でかくて凛々しい男はでれっでれに顔を蕩かせた。 「きゅーんってくるやろ? くるやろっ? ほんで付き合うことになりました、とさ」 「……訊かなきゃ良かったというウザい思いを今しました」 「ウザイ言うな」 快活に笑う男が、その器用な指で俺の鼻をねじり上げているうち、清家が戻ってきた。
傍目には友人にしか見えなかったけれど、二人はいい付き合いを続けていくだろうと俺は思っていた。 けれど、卒業目前になって、清家は隼人に別れを切り出した。深夜のカラオケボックスで始まった別れ話に、俺は居合わせてしまったのだ。 社会に出ても男同士でいるのはまずい、別れよう、という清家に、隼人がイヤだと簡潔に返し、そこから話し合いは徐々にヒートアップしていった。 はじめ俺は、清家が自分の世間体を思って切り出した別れ話だと思っていたのだが──清家らしくないなと思いつつも、立場的なことを考えると一応はしっくりきたからだ──二人が声をあげていくにつれ、その認識が間違ってることがわかった。 「あほか。どこぞの飯屋のシェフがホモやって、誰がそんなん気にするっちゅーねん。清家はほんまいっつも一人で考え込みすぎなんや、少しは俺に相談せんかい」 すっかり頭に血が上ったのか、仁王立ちした隼人が言う。 「だから、こうして別れる相談してんだろ。お前こそいい加減俺のこと切り捨てろよ、俺がいっつもお前に付きまとってるだけじゃねえかよ、懐広いのもマジいい加減にしろっての」 清家も引かず、同じように仁王立ちしている。言葉遣いもいつもより悪く、必死に威圧感を与えようとしているのがわかる。ただ、俺の目にはこの言い負かしあいは、清家の方が分が悪いように思えた。──別れたい、なんて、微塵も思っていなさそうなのが見えみえだったからだ。 「懐広いのの何が悪いんじゃ。いらんこと考える暇あったらやな、どうやってあの家出よかなとか、会社やめよかなとか、俺と一緒におるにはどうしたらええかなとか、そーいうもっとカワイイこと考えや。ほしたら俺も頑張ってはよ自分の店持って、清家の一人や二人養えるようになったろ思えるやろが」 「そ、そんな、夢みたいなことばっか……言ってないで、……、考えろよもう! 養うもくそもホモだってばれたら終了だろうがよ。俺ならたいした影響なんかないしいいけど、けど、お前は客商売なんだぞ。変な風聞立つだけで客足に影響すんだ、お前が店持ったときに噂とか撒かれたらどうすんだよ」 清家は父親の会社に入社が決まっているのだ。そっちはそっちでバレたら大変そうだが、出世だの競争に拘泥しなければたしかに大丈夫ともいえるのかもしれない。 しかし、心配される側である隼人はピラピラと手を振って清家の弱気を挫こうと言葉を重ねた。 「だーからしつこいやっちゃな。そんなんどうとでもなるわいゆうてんやろが」 「……」 清家が一瞬黙り込み、唇を噛んだ。 「……どうとでもならないから言ってんだよ……!」 低い悲痛な叫びとともに、清家は大きな水色の封筒をトートバッグから取り出しテーブルに投げ捨てるように置いた。薄暗い部屋の中だったが、封筒の表書きに『大伏薫子に関する身上調査書』と墨書されているのが見えた。 「えっ……えええ?! 俺?!」 「昨日サイドボードの隙間に隠してあんの見つけた。ちょうど母親に『薫子』会わせた時期のやつだった。読んでみたけど、調査員が適当だったのかなんなのか、大伏薫子なんてやつはいない、とはなってなかった。行動パターンとか聞き込み情報とか見ると薫のお姉さんのこと間違って調べたんじゃないかって感じだった。──薫。薫のねーちゃんにも。ごめん」 「あ、いや、……どうせ姉貴は後ろ暗いことねえだろうしまあいいっていうか、……まあこれはちょっと俺の方で破棄させてもらうけど、……ええと。清家が隼人と別れるのって、これのせい?」 見上げて問うと、清家は硬い表情で頷いた。しかし隼人の怒号がその神妙さを打ち消す。 「はっ。身上調査書がなんやっちゅーねん。『薫子ちゃん』の調査書提出するようなしょもない興信所に俺らの何が調べられんねや。──絶対別れたらへんからな!」 「っ……」 清家が、眉をぐっと寄せ口をへの字にして、きれいな顔を歪めた。見たことのないその顔は驚くくらいかわいらしくて、俺は不覚にも見惚れた。 「おっ……おまえ、の、そういう前向きなとこが、大っ嫌いなんだよ……!」 「あーそうですか。清家の大嫌いが大好きやっちゅーことくらい俺はよおく知ってますけど」 「…………っ」 いきなりの隼人のノロケに清家は落ちた。 俺はその後ただひたすら気配を消して、泣き出した清家とヨシヨシとかなんとか言ってやさしく頭を撫でる隼人を眺めるしかできなかった。
──けれど卒業後しばらくして、清家は学生時代のすべてを振り切るかのように、携帯の番号もメールアドレスもメッセンジャーのIDも全部捨ててしまった。家に電話しても家政婦らしい女性に「仕事でいない」と告げられるばかりだ。 俺は一年ほどは隼人と連絡を取り合っていたが、生活が忙しくなるにつれて疎遠になり、今では名前を思い出すことも少なくなってしまった。
§ §
「薫子さん。こちらよ」 長い廊下を渡りながら回想に耽っていた俺を、清家の母親の声が呼び戻した。 障子を開けられ促された部屋を覗き見ると、一部がフローリングに改装された十畳ほどの和室だった。大きなデスクと本棚が設置されているところをみるとどうやら清家の書斎のようだ。仕事の資料らしいものはすべてファイリングされきれいに棚に並べられている。 「ええと……景正さんがいなくなった後、お仕事は」 「──まるで引き継ぎでも考えていたかのように整理されていたようよ。営業渉外業務でもなかったので社内引継ぎですむし、ほとんど支障はないらしいわ」 「それはよかったですね」 今日は女装なんかして人ん家に上がりこんでる俺だが、普段はサラリーマンをやってる。職場に迷惑をかけないってのはやっぱり第一義なわけで、そういうところ清家は変わってなくてよかった、という意味での言葉だったのだが、母親にはそうは受け取られなかったらしい。 「良くなんかありませんよ!」 という言葉とともに、こんなに部外者の俺に話しまくっていいのかってくらい詳しい事情を──清家は一人っ子なので、元々何かあったら従兄弟を養子に入れることになってるとか、最初はその分家筋が清家を誘拐したと思ったけど違うようだとか、清家の父親は子供の自立性を重んじてて好きなことを選ぶのが一番大事だといってるとか──くどくどと述べ立てた。 「あの。どうしてわたくしには、そんなに詳しくお話になるんですの」 俺が顔を合わせるのは今日で三度目だ。しかも間に五年くらいブランクがある。そんな疑問を差し挟んだ俺を、美人の母親は横目で流し見てきた。 「あなたは一応、私の中で信用できる方なのよ。卒業なさるときに景正とお別れして頂戴とお願いしたけれど、お金も何も請求しなかったでしょう」 「それは」 ──普通請求するものなのだろうか。よくわからなくてにっこり微笑んでみる。 「それは、当たり前のことですわ」 「ほらね。そういうところが信用できると思ってのことなのよ。──ねえ、これを見て頂戴」 人が人を信用するポイントってのは色々だなあと、感慨深く適当な相槌を打った俺に、一葉のはがきが差し出された。 「これが……」 失踪した清家の手がかり、と母親が目しているものらしい。受け取ったそれは、写真が全面にプリントされたお手製絵葉書だった。濃淡の紫で縁取りがされ、その中にラベンダー畑と時計台とクラーク像が並べられている。行ったことがない俺でも知っている名所ばかり──北海道だ。 「本文拝見いたしますね」 ひと言告げて俺は写真をひっくり返した。宛名と本文の書かれるべき裏面には、清家の宛名と、「search」の一言。 ──サーチ……? 探せ、って? そしてリターンアドレスが書かれるべき部分には『薫子より』と名前だけがあった。明らかに、清家の偽恋人が俺だと知っている人間の仕業だ。 ──……隼人? 清家に切り捨てられても愚痴ひとつこぼさなかった男の顔が浮かぶ。 「この葉書が来て、清家はいなくなったんですか」 「それが原因かはわからないけれど。消印が二週間前なの。仕事を整理するにはそれなりに時間が必要だし、それと景正がいなくなった時期のことを考えると、果てしなく原因に近いと思わなくて?」 「まあ、そうですね」 「……本当に、薫子さんが出したわけではないのね」 しつこく問われ、俺は誠実に頷いた。 この葉書は隼人からのものだと思っていいだろう。 しかし、では、『探せ』とはこの写真を元に、ということなのだろうか。ならば清家は北海道へ行ったのだろうか。だがそれなら、こんな手がかりになりそうなものを置いていくのは変な気がする。 頭がぐるぐるしてきた。 「ええと、興信所や警察には相談なさってるんですか」 この葉書という手がかりを清家がなぜ残していったのかはわからないけど、そういったプロの手にかかっては追跡は容易なのではないかと心配になった。しかし清家の母親は力なく首を振る。 「警察沙汰にはできないわ……色々と。興信所は使っているけれど、正直当てにならないの。もう三度も北海道に行かせたのに手がかりひとつなくて。──景正は目立つ子だと思うんだけれど」 「そうですね」 「ねえ、薫子さんは何か気づかないかしら」 縋るように見上げられ、俺は悩む振りで葉書を眺めた。 「北海道に行ったのかな、としか」 「そう……。ねえ、それ、あなたが出したものではないんでしょう。あなたを騙るような人に心当たりはないの」 鋭い質問が来た。隼人の名を出すわけには行かず、俺は悩む振りを続行したまま唸った。 「ええと。──わたくしがセイカと……景正さんとお付き合いしているのを悪く思う女子はたくさんおりましたので、嫌がらせでわたくしの名前を出す方は絞りきれませんわ」 「そう……」 さっきから我ながら適当なことばかりほざいている。この口八丁を何かに活かせないものかと自分の可能性を探りたくなってくるくらいだが、しがないリーマンが似合っている俺は詐欺師への道を早々に諦めた。 ──……ん? ためつすがめつする振りで見ていた葉書の、紫の縁取り。その中に同系色のペンで描かれているのが、模様ではなく記号であることに俺は気づいた。 ──%E6……%B8%……? %の占める割合がとても多く、そのせいで模様と錯覚していた。だが……この長い文字列と似たものを、俺はよく見かける。 ──そうか……『search』は、これか。 俺は口を開いた。どうにかこの葉書を譲り受けなくてはならなくなった。 「申し訳ないですけれど、わたくしではお役に立てそうにないですわ」 しおらしく謝ると、母親は目にみえて消沈した。 たぶん清家を心配しているのは嘘ではないのだと思う。ただきっと、根が真面目なのだ。家の体面に傷をつけず、清家を取り戻し、家を継がせていいウチのお嬢さんと結婚させて一族を繁栄させて──、そんな色々なものを抱え込んでるに違いない。 だが、申し訳ないと思いながらも俺は、清家が一体誰と一緒にいるのかという、確証のないその推測を告げることはしなかった。 「あの、お役に立てなくて大変申し訳ないのですけど、でもこの葉書──わたくしの名を騙られていていい気分はしませんの。興信所の方は北海道と目星を付けてらっしゃるようですし、もう必要無いならば私が処分してしまってもよろしいでしょうか」 胡散臭い言い訳がどこまで通じるかはわからない。しかし母親は頷いた。 「そうね。……どうぞお持ちになって。もし何かあれば教えていただけると嬉しいわ」 「はい」 できうる限り誠実に返答し、お茶も飲まないまま俺は清家の家を辞した。
帰り道ネットカフェに寄り、メモ帳を立ち上げた。 とりあえずは、葉書の縁に手書きされた文字列を打ち込んでしまいたかったのだ。 『%E6%B8%85%E5%AE%B6%E3%80%81%E4%BB%8A%E3%81%A7%E3%82%82%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%82%84%E3%80%82%E4%BF%BA%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%93%E6%9D%A5%E3%81%84%E3%80%82』 間違いのないように何度も見直しながら打ち込んだら十分近くかかってしまった。知らない人間が見たらわけがわからない暗号だ。 ──よく考えたもんだ。 『薫子ちゃん』の調査書を出してしまうような適当な興信所。保守的で体面を気にする清家の母親。──きっと隼人は、清家の母親は馴染みであるというだけの調査能力のない興信所にしか依頼をしないと踏んだのだろう。葉書のこの文字列も、万一見つかっても検索サイトで検索するくらいの能しかないと見越してのことに違いない。 そうだ。この文字列自体を検索にかけても意味はない。これはアドレスバーにペーストするものなのだ。 俺は適当な検索サイトを立ち上げ、これまた適当な単語を検索欄に打ち込んだ。そうして出てきた検索結果画面のアドレスバーには、%で始まる似たような文字列があるはずだ。それを、葉書で送られてきた文字列に置き換える。 ──コピペ……エンター、と。 出てきた検索結果画面の、検索欄の文章を見て俺は頬を緩めた。しかし微笑ましい気分でいたのは最初だけで、じわじわと笑い泣きのようなものが胸の奥から込み上げてきて、俺は狭い個室の中で声を殺して肩を揺らした。 検索欄に表れた文章。 『清家、今でも好きや。俺のとこ来い。』 五年会ってなくてもそう言い切れるバカと、ようやく素直になったバカ。 二人の友人を思い浮かべて俺は、声を殺して笑い続けた。
* * *
──……というわけで、俺は去年開業したという隼人の創作料理レストランに来ている。 隼人から清家への愛のコクハクを見せつけられた後、俺は携帯から隼人に電話したのだ。電話はバッチリ繋がっていた上、電話口に出たのは他ならぬ清家だった。 「ほんともうありえない。二十八にもなって女装するはめになるとかありえない。しかもまたナンパされた。ありえない」 深夜二時、閉店後の店のテーブルで、俺はぼやく。 「薫子になるとすごい派手美女になるもんな、薫って」 五年ぶりに見る清家は相変わらずどえらい美形で、その上なんか光り輝いていた。幸せそうで良かったね、なんて柄にもなく思いつつも、俺はじろりとその美貌を睨む。 「お前ら、あんまり人に心配かけんじゃねーよ。ほとぼり冷めたらちゃんと家に連絡しろよな」 「うん、それは。──薫、ありがとう」 正直素直すぎる清家は気持ち悪いのだが、俺はその微笑に見惚れてしまった。美形はつくづく得だ。照れ隠しに俺は、葉書をひらひらさせる。 「つか、なんで俺の名前ではがき出すんだよ。しかも何で置いてきちゃうんだよ」 隼人と清家を交互に見遣って文句を言うと、隼人が自身を指差した。 「ああ。置いてこいゆうたんは俺や。ソレ見たらきっと清家のお母はん、かおるんのこと呼び出す思たし」 「かおるん言うな。おかげで女装するハメになったじゃねーか」 「ははは、すまん。でもな」 相変わらず快活な、でかい男は、ちょっとだけ渋みを増した顔に──恋人に道を踏み外させたと少しばかり反省しているらしい──笑みを浮かべた。 「かおるんならあのフチドリにに気づいてくれると思たから。そんで、──俺と清家が一緒におるて知ったら、会いに来てくれるんやないかな、て」 「……この、あほ」 思惑通りのこのこ会いにやってきた俺の、万感の思いをこめたひと言に、美男と美形のバカップルは、これ以上ないほどの笑顔で「ありがとう」と言いやがったのだった。
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