「おせえ……」 二月中旬、漉したように柔らかな陽射しが暖める噴水広場。 ベビーカーを押した若い母親が井戸端もとい噴水端に憩い、老人が撒いた餌をよちよち歩きの鳩がつつき、その鳩をつかまえようと無邪気に笑う幼児が手を突き出し歩く。 微笑ましい光景に自然と顔が和み、あんよがお上手あんよがお上手と心の中で手拍子してやる。 ここ一週間ばかり肌寒い日が続いたが今日は気温が上がりスーツだと汗ばむくらいの陽気だ。 一日ずつ着々と春へ移り変わろうとしている。長く厳しい冬を乗り越え生命芽吹く春を迎え、されど心は晴れない。 腕時計を睨んで舌打ち、暇つぶしに広場を眺める。 鳩が多い。糞掃除が大変そうだなと漠然と夢のない事を思う。 餌を与える人間がいるから比例して増えるのか。定年退職した老人の手慰みだったりなにかと動物に構いたがる好奇心旺盛な子供だったり、要するに善意の人間が繁殖を手伝っているのだ。弱肉強食とか食物連鎖とかの掟も餌で飼いならされた鳩たちにゃ関係ない気がする。どうでもいいけど鳩ってオスでも鳩胸なのか?……いけねえ、暇すぎて本当にどうでもいいことを考えちまった。 にしても遅い。あいつどこで油売ってやがる。 一面に撒かれた餌を喉鳴らしついばむ鳩の群れのむこうからビニール袋をぶらさげて一人の男が駆けてくる。 「先輩!」 やっときやがった。 「おせえ、いつまで待たせるんだ」 「すいません、ちょっと手間どっちゃって……」 「混んでたのか?」 「いえ、そうじゃないんですけど」 「レジに並んでたんじゃねえのか。新人に当たった?」 「いえ、ちがうんですけど」 「なんだよ一体……サンドイッチでもおにぎりでもなんでもいいって言ったろ、早くしろよ、時間ないんだから。まだあと二件外回り残ってるんだぞ」 スーツ姿も折り目正しく初々しい男の名前は千里万里。俺の後輩、期待の新人。 「先輩これ好きでしょう、シャケのおにぎり。海苔はぱりぱり派。残りひとつでしたよ、危なかったあ」 指導係なんて不向きな役目を負わされストレス溜まる一方の俺をよそに、後輩は何がそんなに楽しいのか溌剌と笑ってる。顔立ち清涼に整った美形だがそれより好青年のイメージが強い、その無防備さでもって無条件にひとを惹きつける笑顔。とてもじゃないが真似できねえ。 笑いながら袋の中からおにぎりをとりだす。 「……サンキュ」 「どういたしまして。さ、早く食べちゃいましょう」 ふたり並んでベンチに腰掛ける。気のせいかやけに距離が近い。 肘がぶつかるのに辟易しひとつ横にずれる。親しくない人間にひっつかれるのは不快だ。 外回りの途中で寄った広場で千里が調達した昼飯を食う。背広姿の男ふたりでおにぎりやらサンドイッチをぱくつく侘しい食事風景が他人の目にどう映るか、これでも一応新人の頃は気にしたものだがじき慣れた。 手近な店に入ってもよかったが時間が惜しい、今日はスケジュールが押してるのだ。 おにぎりのラッピングを外す。 矢印の方向にそってビニールを開封し海苔を巻く。 「先輩って几帳面ですよね」 「なんでだよ」 唐突な呟きに眉をひそめれば、手まねをしつつはにかみがちに笑う。 「いえ、なんとなく。海苔の巻き方がきちきちっとして……指も長くて器用そうだし。僕コンビニのおにぎりって苦手なんですよね、途中で海苔が破けちゃって」 「矢印にそってやれば普通に剥けるだろ?」 「コツがあるんですかね……実家にいた頃はコンビニって利用した事なくて」 「なんで?」 「たぶんサンドイッチやおにぎりに使われてる防腐剤が体に悪いから」 「どんだけ坊ちゃん育ちだよ。過保護な親もいたもんだ」 「合成着色料入りのお菓子なんて言語道断でしたから。子供の頃は体に悪そうな毒々しい色合いのお菓子に憧れたなあ、同級生が食べてると羨ましくて」 飯を食う手をとめあきれ顔をすればぬけぬけのたまう。 「食事には厳しいうちでしたから……躾もですけどね。今はせいせいしてます」 「お前はサンドイッチか」 「はい。ハムサンドとレタスサンド美味しいですよ」 「足りるのかよそれで。小食だな。営業は足が勝負なんだからもっといっぱい食え」 「先輩こそ、痩せてるんだからもっと食べたほうがいいですよ」 「るっせ、ストレスで太れないんだよ」 「そうなんですか?」 「まわり見てみろ、営業で太ってるヤツいるか?」 「羽鳥さんは」 「あいつは例外。幸せ太りだろ」 「ああ、愛妻家で有名ですもんね。お子さんと奥さんの写真見せてもらいましたよ」 「お前にまで見せてたのかよ。誰彼構わずだな」 「こないだの飲み会で酔っ払った時に上機嫌で……あれ、いませんでしたっけ」 「どうせいなかったよ。つか誘われなかったよ」 大いにふてくされ、以前見せられた仲のいい夫婦のツーショットを瞼の裏に思い描く。 「つりあわねえ美人だろ?大恋愛の末の学生結婚だとさ、うらやましい。ガキにも恵まれて順風満帆の人生だ」 人生上り坂の同僚をひがんで口の中身を咀嚼する。 千里はどことなく憂い漂う上品さで一口ずつサンドイッチをぱくつく。 俺のようにがっつかないところに育ちのよさが窺える。 ひとつめをあっというまにたいらげ、親指にへばりついた飯粒をなめているときに爆弾がおちる。 「先輩、安子さんとうまくいってないんですか?」 落ち着け、顔にだすな。 親指にへばりついた飯粒を時間稼ぎをかねてなめとり、包装紙を畳んでビニール袋に詰めてから口を開く。 「どうしてだよ」 「羽鳥さんのことひがんでるみたいだから」 この野郎、オブラートにくるめよ。 千里は興味深げに俺を見守ってる。どう対処するか観察しているようなポーカーフェイスにむかっぱらがたつ。 「なにかあったんですか?」 「別に」 やばい、早すぎたか。そっぽを向いて不審げな視線を払う。眼鏡の弦にふれて顔を隠す。千里は面白がってるふうにもとれる表情でよそよそしく振る舞う俺を見つめる。 後輩に突っ込まれてどうする、しゃんとしろ、切り抜けろ。 「どうでもいいだろ、俺の事は。お前に言う義理ねえよ」 「付き合ってるんでしょ?職場恋愛。最近雰囲気へんだって噂になってますよ」 血が逆流する。 「ご親切にご注進どうも。ほっとけ」
『ズミっち、安子の話ちゃんと聞いてる?大事な話なのに』 『ねえ聞いてよ、宏澄』
安子が俺を略称じゃなく呼ぶときは切羽詰まってるってわかってたはずなのに、気付いた時には手遅れだった。 言えるか、そんなこと。かっこ悪すぎだ。 確かに羽鳥をひがんでるし妬んでる、そんな資格ねえのに棚に上げてあいつの幸せをやっかんでる。 自己嫌悪で喉が詰まり飯が通らなくなる。 「喧嘩ですか?」 「―いくぞ、早くしねえと遅れちまう」 千里の手からサンドイッチの包装を奪い取ってあらっぽく袋に突っ込む。 もうこいつと話すのはいやだ、腹の底に隠してるものまで見抜かれちまいそうだ。 去年の今日は安子から手作りチョコを貰った。今年は何も貰ってねえ。もう諦めてる。 安子は今年ちがう人間にチョコをやる。 ちがう男の家に泊まる。 「まあ座ってください」 ゴミを袋に詰めて立ち上がろうとしたそばから肩を掴んで戻し、ポケットから平べったい箱を抜く。 箱を開封し銀紙を剥ぎ、手に力を込めて一切れ折り取るや、大きい方を俺にむかってにっこりさしだす。 「バレンタインデーですよね、今日。頑張ってる先輩にぼくからプレゼントです」 「キットカットかよ」 脱力しちまう。こいつ、俺に内緒でこんなもん買ってやがったのか。 「ちゃんとラッピングしてあるチョコのがよかったですか?なら買いなおしてきますけど」 「男に貰っても嬉しくねえよ」 「いりませんか?」 「食う。食い物粗末にしちゃばちあたる」 「言うこと古いですね、やっぱり」 千里の手からキットカットを受け取る。ほんの一瞬指先が触れ合って、熱を伝え合う間もなく離れていく。 成り行きで受け取っちまったキットカットを仏頂面でひねくりまわす。 「甘いもの好きなのか、お前」 「嫌いじゃありません」 「舌がお子様だな」 「疲れた時の糖分補給は常識です」 見本を示すように歯を立て齧りとる。ぱきんと軽快に乾いた音が鳴る。 千里にならい、チョコのコーティングが溶ける前にと口にほうりこむ。 さくさくした食感とチョコの甘さがちょうどよく溶け合う。 キットカットを頬張る俺を一癖ありそうなにやけづらで眺め、新しいのを口に運びがてら聞く。 「先輩は毎年どれくらいチョコもらいます?」 「あー、同僚に義理チョコもらうくらい。みっつよっつてとこか?」 「今年は僕が一番乗りですね」 いきなり気色悪いことを言い出す。 驚きのあまりずれた眼鏡を押し上げて怒鳴りかけ、それを制すように素早く立ち上がった千里が正面に来る。 「眼鏡にチョコがついてますよ」 「え、マジ?」 チョコでべとついた手でレンズにふれたせいだ。慌てて眼鏡をとりハンカチで拭こうとするも、それを見越した千里が先に眼鏡を奪い、自分のポケットからとりだした清潔なハンカチでもって丁寧に汚れを拭く。 「先輩っていつもしっかりしてるようでいて案外ヌけてますね」 「~お前がチョコなんか食わせるから……」 「元気でました?」 「小腹の足しになった。行くぞ」 眼鏡をひったくって顔にかけ、吹き出すのを我慢するような表情の千里はもう捨ておいて憤然と歩きだす。 鳩を追い散らし広場を突っきりながら、口の中に残る甘い味を反芻し胸焼けをおこす。 「キットカット、きっと勝つぞ」 「はあ?」 鳩のはばたきに包まれ、足を止め振り向く。 背後で同じく立ち止まった千里がキットカットを一切れ咥えて解説する。 「縁起担ぎの語呂合わせですよ。キットカット、きっと勝つぞ。だからこの時期コンビニでは受験生向けに売り出される」 「だじゃれかよ」 こいつらしくもない言い草に失笑し、ポケットに片手をひっかけ戯れに問う。 「で?お前はだれに勝つつもりなんだ」 「ご想像におまかせします」 ふいに遠い目をした千里につられ、鳩の群れが一斉に飛び去った空の彼方を仰ぐ。 日輪を隠す勢いで飛び立つ鳩を手を翳し見送れば、形よい唇に挟んだキットカットをぱきんと噛み砕き、いつのまにか空から地上へと視線を転じた千里が傲慢なまでの自信をもって宣言する。 「だれが相手だろうが負ける気はさらさらありませんけどね」
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