「俺の弟、かぐや姫だったんだ」 大きな窓辺に置かれたベッドから月を見上げ、嬉しそうに聖夜は微笑んだ。 俺は煙草の煙を吐き出して、真っ暗な空に輝く赤い月を一瞥する。 かぐや姫を連想するには不気味な月だ。 どちらかと言えば不吉な前触れを予感させる。 だが聖夜にとってあの月は、かぐや姫の暮らす月なのだろう。 「月に帰ったのか?」 調子を合わせて尋ねると、聖夜は何処か寂し気な瞳で振り向いた。 だが口元は笑っている。 「うん。帰っちゃった」 腰に腕を回し、聖夜の体が密着する。 小さな子猫が甘えているようで、俺は微かに笑み髪を撫でてやった。 漆黒の髪は猫の様に柔らかい。
聖夜の弟は、聖夜の部屋で自殺した。 話しによると首を包丁で切ったらしく、聖夜はその姿を呆然と見つめていたという。 両親が気付くまで、二時間以上ずっと。 原因は聖夜以外知らないらしく、両親はヒステリックに泣き叫びながら聖夜に問いただしていた。 弟の担任や聖夜の担任、警察なども代わる代わる尋ねに来たが、聖夜は一向に口を開こうとはしなかった。 俺は最後の頼みの綱として託されたが、未だに聞く事が出来ないでいる。 一番ショックを受けているのは聖夜だろうし、自分だけは安らげる拠り所でありたい。 だがどれ程のショックを受けているのか、日常の聖夜から計り取るのは難しい。 ただ弟の存在が、聖夜に取って何よりも大きかったはずだ。 「寂しいか…?」 問い掛けに、聖夜は大きな瞳を上げた。 宝石を詰め込んだようなその瞳は、一度見つめられると逸らせない。 何時だったか聖夜の弟が、兄の瞳は恐ろしいと漏らした事があった。 何かを耐えるような表情に、俺はすぐに気づいた。 だが結局深く聞く事は出来ず、それから会っていなかった。 あの時聞いてやれば、こんな事にならずに済んだのだろうか。 「寂しくないよ。さっきも話したから」 平然と嬉しそうに答える聖夜の言葉に、嘘偽りは感じられない。 黙り込んでいる時、聖夜は常に弟と話しているのだろう。 馬鹿な事だと言ってしまえば終わりだが、聖夜はちゃんと弟と話しているのだ。 妄想の中で、毎日のように。
『兄はね、あの顔のせいで子供の頃は良く虐められてた。 だから俺がいつも守ってあげたんだ。どっちが兄か解らないよね』
苦笑いをしながら昔話をした弟を見て、聖夜はただ微笑んでいた。 月から来たヒーローなのだと、そう言って。 何故月なのか聞いた時、弟は月が大好きだからだと話した。 現にカメラ好きだった彼は、月の写真ばかり撮っていたようだ。 一度だけ聖夜に見せて貰った事がある。 不吉な赤い月ではなく、かぐや姫がいても可笑しくない美しい月の写真だった。 ヒーローが何故かぐや姫になったのか、聞いても聖夜の世界観は理解するのが困難な気がした。 普段はまともな事を言うが、今日の様に空想の世界に酔い痴れている時は聞いても無駄だ。 溜息を吐き、俺は聖夜を抱きしめた。 これがただの妄想癖なのか、精神病なのか。 俺にはどっちでも良い事だった。 髪に口づけ、シャツの中に手を入れる。 「駄目。見られちゃうから」 くすぐったそうに笑った聖夜は、俺の手を掴んで子供を叱るような口調でそう言った。 見上げた先で月が光る。 俺は舌打ちをして、カーテンを閉めた。 弟が兄を愛しすぎていたのか、兄が弟を愛しすぎていたのか。 異常な程に聖夜達兄弟の関係は深かった。 それが俺を苛立たせる。 聖夜の口から弟の名前が出るだけで、嫉妬に狂った心を宥めるのは大変だった。
『兄さん…』 それを見てしまったのは、聖夜の家に泊まりに行った晩の事だった。 掠れた声で聖夜の名を呼びながら、彼の弟は自慰をしていた。 ドアの隙間からそれを見てしまった瞬間、俺は証拠を捕らえたと気持ちが高揚するのを感じた。 それを見てしまった事に驚きはない。 やはり。その言葉だけが脳裏に浮かんだ。
『変態か異常者だな』 何度か侮蔑の言葉を浴びせた時、あいつは寂しそうに口元で微笑んだ。 『兄さんがいけないんだ…』 責任転換か。 俺は嘲笑った。 だがあいつはその顔を見ようともせず、満月を見つめていた。 それが最後に見たあいつの姿だった。
あの日、聖夜の部屋で何があったのか。 ずっと気になってはいた。 俺は聖夜の首筋に口づけながら、視線を顔に向ける。 天井を見つめる聖夜の瞳には、何が映っているのだろうか。 俺を見ない苛立ちを覚え、軽く首筋に歯を立てる。 「……嫉妬してる」 誰がと、聞かずとも解る。 月にいるあいつが、聖夜の傍を離れないのだろう。 「ごめんね……」 天井を見つめたまま、聖夜は一筋の涙を流した。 縛られている。 死んでしまえば俺の聖夜を縛るものは何もなくなると思っていたのに、死んでもなおあいつは聖夜を縛り続けている。 俺はゆっくりと、聖夜の首に手をかけた。 妖艶さを漂わせた瞳は、時として人を狂わせる。 純真無垢な顔をして、聖夜はいつだってそうだ。 この瞳に、あいつも俺も狂わされたのかもしれない。 力を込めようとして、だが出来なかった。 次に死ぬのは、自分の方かもしれない。 聖夜を縛れない苛立ち。 時々妖艶に笑ってみせて、それでも瞳は俺の姿を宿していない。 手に入れたい。全てを。 自分は恋人で、聖夜の一番であるはずだと信じたい。 それなのに不安が、遣る瀬無さが込み上げてくる。 あいつも同じ思いだったのかもしれない。 俺は聖夜の首から手を離した。
「月からうさぎが来たんだ。俺を迎えに。でも俺行きたくなくて、代わりにあいつが行ってくれたんだ」 カーテンを少しだけ開け、聖夜は月を眺めた。 不吉な赤い月。 「次は俺が代わってやるよ…」 軽いキスを落とし、俺は聖夜の涙を拭う。 人を狂わす魔性の瞳を持ちながら、それでも心は純粋で。 だから尚更質が悪いのかもしれない。 だが俺には聖夜を殺す事は出来ない。 遣る瀬無い思いから逃れたいのなら、自分で自分を殺すしかないのだ。
「うさぎは悪魔だね」
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