伊集院京介(大学准教授)と秋葉優(ミステリ作家)の 激甘日常生活です。
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それは、僕と京介がまだ大学生だった頃の話だ。
「ユウさん!?」 パタンと扉が開けられて、同時に外気の冷気が暖房器具の ないアパートの一室に入り込んできて、僕は布団の中で ブルリと身を震わせてしまった。 「ユウさん!?どうなさったのです!?こんな昼間から」 「や、あ」 その声は心底慌てているのに、低く、ともすれば冷たく 聞こえてしまうのに、僕と話すときは、がらりと色を変え、甘く 囁くような声音になる。 だから、僕にはすぐ、それが京介だと鈍い頭の中で認識する ことが出来たんだ。 「ごめ・・・あ、おかえり」 「え、ええ。ただいま戻りました」 京介は小さな玄関のたたきがいっぱいになってしまうような上等な、 そして大きな靴を脱ぐと、たった一歩で、僕の寝ていた布団の脇に たどり着いた。 「ど・・・だった、だいじょう、ぶ、だった?」 「え、ええ。姪ははしかでした。わざわざ私が帰国するほどでも なかったのですが、兄上も姉上も安心されていたようで」 「そ、りゃ、よかった、ね」 笑ったつもりの唇が引き攣れる。口角が上がっていないのが自分でも はっきりとわかるぐらいた。 「ユウさん、失礼します」 「つめたっ・・・」 またガクッと背筋が震える。京介は、布団からかろうじて出ている 僕の首筋にその手を当てると、ほんの一瞬だけ目を瞑った。 「38.7分。熱が高いですね。いつから熱は出ていますか?」 「き、のう、かな」 話していても自信が無い。僕が寝ている間に、昨日が今日になった ことも気がつかなかったぐらいなのだから。 「その他の症状は?」 「よ、く、わかんない。多分、風邪だと思うし」 「それはユウさんがお決めになることではありませんよ」 京介は、僕の額に貼られていた、もう大分に温くなってしまったひえぴたを丁寧に取ると、枕元に置いたままのパッケージから新しいものを 取り出した。 「あらかじめ申し上げておきますが」 「う、ん」 「この状況で、決してユウさんに付け込もうと、そして欲情しないことを誓いますので」 「オー・・・ケ、信じる」 診察させていただけますか、という京介の言葉と、僕の返事が重なった。 僕は、この、もう人類とは区別すべきなんじゃないか、ってぐらいの 美貌の男に・・・まあ、彼の言葉を借りれば、愛されている、と言えば いいのだろうか。 一体、平凡を絵に描いたような僕の何処がいいのか、何処を好いているのか、どんな酔狂なのか、どんな遊びなのか、僕には全くわからないから、 今のところ、すべての告白は耳から耳に流してしまっている。 だいたい、今まで僕は同姓に好かれたこともなかったし、これからもないと思う。まあ、それが女の子だったら、と言われれば、生憎にしてモテないので 今のところ、そちらについても言及できない。 美貌どころか、才能も、地位も、ついでに生まれ育った環境もセレブ中のセレブにどうして好かれてしまったのか、というのは別の話なんだけど。 彼、伊集院京介は、つまり、面映いし、言葉も自然と重くなってしまうのだけど、端的に言ってしまえば、僕しか見えていないような盲目的な恋心を抱いているらしく。 同性だから。と、一途両断にしてしまうには、それはあまりにも真剣で、だから僕も同じように、たったそれだけの理由だからではなく、僕の気持ちが本当に見極められるまで、京介の告白には答えられない。という中途半端な状態が・・・かれこれ二年も続いている始末で。 「ユウさん、起き上がれますか?」 「だい、じょぶ」 身体がみしみしと音を立てる。強張ってしまった自分の上半身を布団の上に起き上がらせるだけでも、今の僕には懸命な作業で。 「失礼します。支えていてもよろしいですか」 「う、ん。助かるよ」 京介に背中を支えてもらえなかったら、そのまま後ろにひっくり返って しまいそうなぐらい弱っていて。 「ユウさん。ずいぶんと愉快な寝巻きですが、これは脱がせてもよろしいですか?」 「汗、かきすぎて、着る、ものが無くなって」 「ネコの着ぐるみを?」 「あ、ったかいと思って」 「確かにそう見えます。ですが、汗は吸い取らないのではないでしょうか」 「それどころか、トイレに行くときは全部脱がなくちゃ行けないから 不便だよ」 うっ。と京介が言葉に詰まって、僕は自分の失言に気が付いたけれど、 今はとても気遣って上げられる余裕が無い。 「あー・・・と。上半身だけ脱げばいいのかな」 「そ、それで結構です」 京介の声が上擦っているのが分かる。二年も告白され続けているというのに、僕は、その情にほだされることなどなく、冗談でも手も握ったことが無い始末で。夏に海に行くこともないし、だから、正直、このときまで僕は京介に自分の、例え上半身であっても裸なんて見せたことも無かったんだ。 「失礼します。ラクになさっていてください」 「うん」 僕は着ぐるみの前にあるチャックを臍の辺りまで一気に下ろして、肩からそれを脱いだ。 京介の言う通り、ただ温かいだけで、肝心の汗を吸い取ってくれるという 役目の無い着ぐるみの中は、暑苦しいほど汗だくで。 「その前に汗を拭わせていただいてもよろしいですか。決して、ええ、 不埒な真似は致しませんし、この機会に乗じて、ユウさんの身体を 探ろうなどという下世話な意図も持っていませんので」 「信じるよ」 僕の気持ちが決まるまで、定まるまで、決して手出しはしない、という 自分の言葉を京介は忠実に守っている。 もちろん言葉での求愛と言うのは、一日たりとも聞かない日はないという 徹底ぶりだけど、それと同じぐらい、つまり、身体には手出しをしない、と いう行動も同じぐらい実行されているんだ。 それを僕は十分に知っているから。つまり京介を信じているから、この場合は イエスというしかないわけで。 「あ・・・と、タオルが」 「ユウさん!」 立ち上がろうとして、立ちくらみがした身体を京介に支えられた。 「そのままで結構ですから」 「ごめん」 抱き止められるままに、僕はスーツを着たままの京介の胸に頭をもたれかけ させた。 ふわりと香る甘い香水の香りが、瞼を自然に落とさせる。 「では、失礼します」 笑っちゃうぐらい厳然と京介はそう言いきると、ポケットから出した自分の ハンカチで、僕の上半身を丁寧に拭っていった。 「・・・これで少し痩せられるかな」 「私のユウさんは太ってなどいませんよ。むしろ、少し栄養不足です」 「貧乏だからね」 「食べずに、小説をお書きになっている日が多いからです。集中力は 体力から生まれることをお忘れになられているようだ」 「一食浮いたと思っていたんだけど」 「ただの錯覚です」 京介の額にはびっしょりと汗が浮いていた。まるで僕の熱が移ってしまった ように。たまに僕の肌に触れる指だって、まるで燃えているように熱い ぐらいで。 これがどんな状況なのか、僕だって十分にわかっているつもりなんだ。 つまり、そう、京介の理性につけこんだ拷問に近い行為だってことが。 だから僕は無関係な話をして、なるべく意識を逸らして、京介が大切に そして忠実に守っている、僕とのルールを守らせてあげることしか出来なくて。 だって、失礼じゃないか。 こんなに長い時間、京介が頑張って死守してきたものを僕の同情なんかで 破らせてしまうなんて。 それは同時に僕も京介も、後悔という深い泥沼に陥る行為だから。 「ところで、こんな扇情的なお召し物はどちらでお求めになったのですか?」 扇情的なお召し物ってなんだよ。と、僕は掠れた声で笑ってしまった。 寝すぎたお陰で腹筋がすぐに痛くなってしまうぐらいに。 「ビンゴの賞品。ブービー賞だった」 「私以外にもご覧になられた方がいらっしやったのですか?」 「こんなの人前で着ないよ。当たったときはみんなに笑われたけどね」 「それは何よりでした」 安心したように笑う京介の喉は・・・正直、何度も上下していた。 聴診器を当てる間も、汗を拭う間も。最初は面白半分に数えていたけれど、 額に玉の汗が浮かぶたびに、ささやかに唾液を嚥下するたびに、申し訳ない 気持ちになってきてしまって、僕はそれを辞めた。京介がその理性を 保っている以上は、僕だって素直に身を任せるのが道理だと思ったから。 「インフルエンザではないようですね。安心しました。流行性感冒です。 入院するほどではありません」 「だ、と思った」 ふっ、と笑った唇に、京介の指が押し当てられた。 「・・・京介?」 なにをするつもりだよ。と、言いたいけれど、言うことができない。 簡単に非難することが出来ない状況を生んでしまったのは僕だから。 「・・・唇が荒れていらっしゃいますね。薬を塗らせていただいても よろしいですか」 「え?そんなの自分で」 言いかけて辞めた。 何処までを許容して、何処までを拒むべつなのか、僕にはこの時、少し 理解できなくなっていたからだ。 「・・・お、願いしようかな」 「ええ」 自分で言ったくせに、京介は後悔していたのだろ。僕の言葉に、あからさまに 肩の力を抜くと、鞄の中から小さなリップクリームを取り出した。 「し、失礼します。母国で買い求めたハーブのものです。ユウさんの唇に 合わないことは決してないと思いますので」 「・・・信用しているよ」 「ええ・・・ええ!」 京介の指は震えていた。小さなリップクリームが入った容器に指を 入れるときも、僕の唇に塗るときも。僕の唇が揺れるぐらいに細かく、 丁寧に時間をかけて塗っている間も、ずっと。 ガサガサとした唇なんて面白くもなんともないだろうに。それでも 京介の指は何度も愛おしそうに・・・僕の唇を往復していた。 「もっ・・・いい、よ」 「え?あっ・・・し、失礼しました」 カサカサに乾いていた唇が潤い、そしてほんの少し丁寧に塗られすぎた おかげで、僕が許容した気持ちの分だけふっくらとしているのがわかる。 「えっ・・・京介!?」 京介は、慌てて外した指を無意識なのだろう。自分の唇に押し付け、そして ぎゅっと強く瞼を閉じた。 塗りこめることもしなく、ただ指を一本、自分の唇に押し当てたままで。 「き・・・京介ってば!な、なに」 「・・・報酬にしては高価すぎるユウさんの味わいに酔ってしまいそうだ」 「よ、酔うわけ無いだろ!そ、そんなことで」 「私だけが酔うことの出来る至宝の味覚ですからね」 「バ、バカッ」 京介はペロリと自分の指を嘗めると、まるで褒美のように自分の指に 音をたてて口付けた。 耳を澄ませなくちゃ聞こえないぐらいの密やかな唇の音は、僕の耳朶を 直接くすぐったような恥ずかしさに満ち満ちていて! 「もうっ・・・寝る!風邪だったら寝ていればいいんだろ!」 「ええ、安静にしていることが一番です」 「そうだよねっ」 布団を引っかぶってしまった僕の耳にも聞こえる、安堵した京介の声が。 僕は布団の中で、肩まで出していた着ぐるみをゴソゴソと着直した。 本当は着替えたいけれど、それは、やっぱり京介が帰ってからのことじゃ ないと、とても今の状況では出来ないことで。 「見慣れない毛布ですか・・・ユウさん、こちらは?」 「え?ああ・・・ミステリ研究会のセンパイのお古でもらった。風邪 ひいたって言ったら持ってきてくれたんだ」 「お、お古!?つ、つまり、その先輩とやらが使用していたものという ことですか!?そ、そんなどんな意図で使われていたかもわからないもの でお休みになっていられたのですか!私のユウさんが!」 「さ・・・寒かったんだよっ!」 「それにしても!我慢できることと出来ないことがあるでしょう!私の 愛する、愛してやまないユウさんが!人様の使用していた毛布を汗で 濡らして、なお!まだその毛布でお休みになられるなどと!こんなことが 許容できるとお思いですか!」 「だっ・・・だって寒かったんだから仕方ないだろ!布団を買うような 余裕なんてないし、実家に帰れる元気もなかったんだ!」 「ならば!そうだとおっしゃられるのでしたら、こんな古びたペラペラの 毛布ではなく、私が使用しているものでも問題ないと言う事ですね!?」 「ないよっ!」 ない・・・か? 僕は売り言葉に買い言葉で言ってしまったことに、しばし後悔をして、 頭まで被っていた毛布から、ほんの少し顔を出した。 「ユウさん、撤回してないでください。お願いですから」 目玉だけを出した布団の隅に、京介の僕を見つめる顔が見えた。 「・・・みっともなく嫉妬などして申し訳ありません。そのミステリ 研究会の先輩には感謝しないといけませんのに」 「え・・・あ、うん」 「見苦しいのは十分に承知しています。ですが・・・!ユウさんの汗や、 荒れた唇を拭うことが許されたように・・・!私の使用しているものにも その温もりを分け与えていただくことは出来ませんか・・・!」 「・・・いいよ」 「ユウさん!?ほ、本当によろしいのですか!?」 僕は布団の中でこくりと頷いた。 だってそんなに真剣に訴えられることじゃないんだ。呆れる。というのは 言葉が悪いけれど、そう、そんな些細なことまで独占したい、と、京介に 言われたのは、実は初めてのことで。僕は正直、驚いてしまっていたんだ。 あんなに毎日、僕のことを口説いておいて、愛!ってヤツを訴えてきたヤツが 初めて見せた、その、嫉妬にね。 僕はいわば感心してしまっていたんだと思う。この世の中の何もかもを 持っている男が、こんなことに嫉妬するなんて思ってもいなかったことだから。 「ああ・・・!ありがとうございます!すぐに支度してまいりますので。 ええ、薬と。それから食事と、着替えも」 「覗くなよ」 「覗きなどと!はしたないことするはずがないでしょう!気持ちは先走っても!」 それって覗きたいって言っているように聞こえるけどね。僕は声に出して 笑ってしまった。 「・・・言っておくけど、身体で返せなんて言うなよ」 借りなんて作りたくないぞ。と、憮然とした僕の照れ隠しの言葉に、 京介は大仰に肩を竦めた。 「おやおや。全快されましたら、学食でスペシャルランチをご馳走して いただこうと思っていましたのに」 「身体を張って並べ、ってこと?」 「ええ。そして私とご一緒にランチ・デートをしていただけることをご所望 します。心から」 「そんなの・・・いつもしているじゃないか」 デートって名前じゃなくても。大学で会ったら、いつだって「ユウさん!」 と駆け寄ってきて、一緒にいるクセに、だ。 「デートだと意識してくだされば、気持ちの変化もあるかもしれませんからね」 「・・・期待しすぎ」 「持てないよりは天と地ほども違いますから。私の愛する人が健康で笑顔で 私の目の前にいてくださることなほど幸福なことはありませんので」 「・・・うん」 約束ですよ。と、京介は軽快に言っていたけれど。それは暗に、早く治って 欲しい、という迂遠な言葉に他ならなくて。 わざわざデートなんて口実をつけて言うところが、僕に負担をかけさせまい とする優しさなんだ、ってこと。 この時の、僕はまだまだ本当に理解しているとは言えなかった。 「愛しています。愛しい人。私が帰ってくるまでにゆっくりとお休みになって ください」 「・・・うん」 一人で寝ていたときより、ずっと、ずっと優しい気持ちになれる。 僕はにわかに温まった身体を布団に沈ませて、目を閉じた。
なぜか、クスクス笑んでしまって、しばらく寝ることが出来なかったの だけれど。
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