呼吸を浅く整えつつタイミングを読む。 羽生は両利きだ。本来は右利きだが、右手が使えない場合でも支障ないよう両利きに矯正した。 現在、左手は吊り革で繋がっている。 後ろでうごめく痴漢と呼吸を合わせシンクロをはかる。 相手は完全に油断している、見てろ…… 羽生の右手が、名前どおり、藪から飛び出すハブの如く俊敏に撓る。 「!?ぶっ、」 刹那、鋭いブレーキ音とともに薙ぎ払われた葦の如く乗客が傾ぐ。 けっつまずく羽生を後ろからのびた腕がしっかり抱きとめる。 「危ない危ない。お怪我はありませんかスリ師さん」 助けられた、不覚にも。 「―は、はなせ、情けは無用だ……」 「武士じゃあるまいし」 抱きつく痴漢の手指がいかがわしく波打き、くすぐったさに身をよじる。 「ははっ、ぶは、よせ」 「前が固いですよ?興奮してらっしゃるくせに」 「勘違いだよ」 「じゃあなんで固いんですか?」 「離れろ暑苦しい、息が首にかかっ……ひ!」 「ここが弱いんですか?それともこっち?体中どこもかしこも性感帯ですねえ」 せせら笑う。 服の上からねちっこく体中まさぐられ、極大の恥辱とむず痒さに顔が赤く染まり行く。 羽生の動揺を心地よく味わいがてら耳のすぐ裏で囁く。 「服を剥いで確かめてみま」 「安産祈願のお守りだ!」 口からでまかせ。 「―よ、嫁さんが妊娠中で……元気な子を産んで欲しいって明治神宮でお守り貰ってきたんだ。その帰りだよ」 「結婚してらっしゃるんですか?」 「そう、だよ。既婚者だよ。だからやめ」 「お子さんが産まれるならますますこんな仕事してちゃだめでしょう」 墓穴を掘った。 腹の前を庇う。 痴漢は大胆にもシャツの中まで手を入れ、やけに自信たっぷりとのたまう。 「一家の大黒柱となるならスリなんて収入の不安定な仕事即刻やめるべきです。お父さんが刑務所送りになったら残された妻子はどうなります?奥さんと生まれてくるお子さんを愛してらっしゃるなら足を洗いなさい。なんならいい就職口斡旋しますよ?あなたならきっと高収入を維持できます」 「なんだよそれ」 好奇心からつい聞き、後悔する。 「ゲイビデオ男優です」 正気かこいつ。 「服の上からさわっただけでもはっきりわかる、あなたは十年に一度の逸材です。その感度、その尻、まさにゲイビデオにでるため生まれてきたような方だ」 「旦那がゲイビデオ出るのとスリ師とじゃトントンだ」 「全然違います、前者は犯罪じゃありません、リッパな職業ですとも」 痴漢が誓う。 「お子さんが産まれると聞いて使命感に火がつきました。痴漢の誇りにかけて必ずやあなたを更正させましょう」 「正義の痴漢て胡散臭えよ!―まっ、そこ弱」 調子が狂う。 痴漢の手が衣擦れの音もささやかに下着にもぐる、泡を食う、よせやめろといくら言っても聞かずに無視、直接ペニスを掴んでしごきたてる。 「ひっ、」 貞操の危機。 抵抗しなければと頭では分かってる、しかし無理だ、まわりには人がいる電車の中少しでも暴れて隣にぶつかりでもしたらアウト、今この状況でこの状態でバレるのは生き恥以外のなにものでもない、二度と山手線に乗れなくなる。 スリ歴十二年で河岸替えは心理的に抵抗が…… 羽生が濁流の如く脂汗垂れ流し葛藤してるあいだに、痴漢の手は尻の窪みをなであげる。 服越しではなく、直接。 尻の表皮にぴりぴりした感覚が走る。 皮膚の引き攣りに似て非なる、未知の刺激。 下半身がじれったくもぞつく。 唇を噛んで熱く湿った吐息を殺す。 耳まで赤く染め、せめて恥辱と嫌悪とそれ以外のなにかに歪む顔を見られぬよう俯く羽生に、痴漢が言う。 「………後ろを使うのは初めてですか?可愛いですね。少し痛いですがガマンしてください」 つぷりと窪みに指が沈む。 「!―っ、ぅく」 排泄にしか使った事ない器官をむりやりこじ開ける痛みに、生理的な涙が浮かぶ。 「いい加減自供なさったらどうです」 「……うる、せ……ひっこんでろ、痴漢。山手線に、お前みたいな外道、乗せてたまるかっ……」 「誤解はよしていただきたい。私が手を出すのは好みの男性だけ、か弱い女性に卑劣なまねはしませんよ」 「卑劣だって自覚はあんのかよ……」 救いようがねえ。 次第に霞みつつある頭で、どうやったらこのド腐れ外道のド変態から財布をスれるかシュミレート。 脳内で位置関係を立体的に把握、背中に触れ合った際の感じからどこに財布がしまってあるか推測。財布をスるためにはこの姿勢は不利、正面を向かなければ…… 山手のハブの名にかけて、極悪非道な痴漢に天誅を。 切なる祈りが通じたか、運命が羽生に微笑む。 「きゃあっ!もうやだー、何いきなり」 今だ。 近くに立つ女子高生がぶつかってくる。 揉み合う人ごみに浮きつ沈みつ、汗みどろの顔で笑い素早く反転。 体ごと振り返るやスーツの胸めがけ、喉笛喰らいつくハブの如く五指を連携させ手を解き放つ。 己が右手と一体化したハブを幻視した羽生だが、またしても思惑は裏切られる。 「懲りない方だ……」 背筋を冷や汗が伝う。 「ぃぐ!?」 激痛に目を剥く。 中指と人さし指が後孔に突き立つ。 一本でもきつかったのに二本ともなると拷問だ。 耐え切れず痴漢の背広を掴み顔を埋める。傍目には抱きついてるように映ったろう。 「積極的ですね」 「寝ぼけるな」 「今にもイッちゃいそうに感じまくってる節操ない顔を正面から見てほしかったんでしょ」 耳を塞げ、変態に構うな。 誰かの肘がおもいきり背中を突き上げつんのめりしがみつく。 「目は誘うように潤んで、目尻があざやかに紅潮して、口はだらしなく半開きで、はあはあ発情した犬みたいに息を荒げて……前、固いですよ」 「腹筋だ!」 「そうですか?こことか全然筋肉ないのに……」 「んっ、あ」 どんどん布石を打たれ追い詰められていく。 今の混み具合はさっきまでと比較にならず、ぴったり密着した状態で痴漢がなにしようがまわりには見えない。 痴漢の手が前後同時に動く。 二本指を後孔に抜き差し、円を描くようにぐりっと回す。 前もって唾で湿してあるせいか少しはマシだが、痛いのは変わらない。 異物を吐き出そうと括約筋が収縮、鈍い痛みが下半身に広がっていく。 早く、手遅れになる前に財布を盗れ。 垂れ下がり行く瞼の奥の目を油断なく光らせ胸ポケットをつけ狙うも、羽生がいざ行動に出んと爪先に重心を移すや右へ左へと微妙に体をずらすせいで上手くいかない。 まさかこいつ、見抜いて? 攻防しつつ、へっぴり腰で悪態をつく。 「フツー、指まで入れるか……!?」 「本格派なので」 どういう発想だ? 次第に余裕をなくしつつある。痴漢の指は信じられないほど奥まで届き、関節がないかのように渦を巻いて秘められた襞をかき回す。 むりやりこじ開けられた痛みと違和感の奥から、背筋をぞくぞくさせる感覚が這いのぼってくる。 間違いだとおもった。勘違いだと。それを否定するように前がもたげ始める。 「―あッ」 しつこく抜き差しされる指が、快感を増幅する一点をつく。 「前立腺ってご存知ですか?ここを突くと男でも女みたいに気持ちよくなるんですよ」 いまにも崩れそうな膝を意志の力だけで保つ。 「きつい……ですね、さすがに。少しほぐれてきたけど」 「抜け、も……バレる……」 「あなたが大人しくしてればバレませんよ。辛いならシャツでも噛んでてください、美味しいものではありませんが」 言われたとおりシャツを噛む、乾いた布の味が口の中に広がる、痴漢の背広が唾液を吸って変色する。 ドアが開く。背筋が突っ張る。人が降りる、乗り込む、繰り返す。何駅こえた?何分経った?わからない、考えられない、思考がまともに働かない。快楽に押し流され早く終わってくれとそればかり……
イき、そうだ。 テクで敗けそうだ。
「場所変えますか?後始末が大変でしょ」 首を縦に振りたくない。 同情めかして提案する、偽善ぶって優位を誇示する、勝ち誇った声が不愉快だ。 まずいシャツを噛み、怒り滾りたつ反抗的な目つきで睨みつける。 見えない場所で指が三本に増える。 「あっ、あっ、あっ」 前立腺を激しくつかれ声が上がる、もう一方で容赦なく陰茎をしごきたてる、膝頭で股間を小刻みに圧迫する。 ツボを熟知した三点責めに容易く理性が霧散、涎を垂らし蕩けきってシャツにしがみつく。 悪寒と快感が縒り合わさった感覚がひっきりなしに背筋を貫く、ぐちゃぐちゃ卑猥な水音たてる三本指で前立腺を弾かれ下半身に甘い疼きが広がる、鈴口から先走りが垂れて下着が濡れそぼる。 「スリ師形無しですね」 「そと、行かせろ……」 「お願いしますは?」 耳を疑う。 愕然とした表情の羽生を口元だけに笑みを浮かべ冷たく見下し、その膝でぐりぐり残忍に股間をいじめる。 切なく昂ぶった股間を膝で摩擦され、同時に後ろ孔の指を抜き差しもっとも感じる場所を執拗に嬲られ、きつく目をつぶる。 「わか、言う、おねがいしまっ……」 「ぐちゃぐちゃにしてほしいですか?」 瞼の裏が真っ赤に爆ぜる。殺意の色。 「―ふ、むぐ、ふ、ふ」 「前も後ろもぐちゃぐちゃにしてほしいですか?だまってちゃわかりませんよ」 「む、むう」 布を噛んだまま、遣る瀬無く頷く。 畜生どうして俺がこんな目に。 痴漢が無造作な手つきで羽生のズボンを引き上げ股間を隠す。 後孔から指が抜け、物足りなさを感じる。 相手は男でしかも痴漢で後ろ使うのは初めてなのに体がふわふわして力が入らない ドアが開く。 乗り込む人なみ降りる人なみをかき分け羽生の手を引いて痴漢が歩く、羽生はそれに従う、痴漢の手を振り払って逃げるという選択肢は思い浮かばない、下手に動けば前が爆発し電車の中で恥をかく、前が突っ張ってるのと後ろがずきずきするのとで歩き方がぎくしゃくぎこちない、しかし痴漢はさっぱり容赦せずすたすた歩くもので羽生はくぐもった悲鳴をもらす。 混雑するホームを抜けて男性用トイレへ、個室のひとつへ。 プラスチックの便座に投げ出される。 「堪え性のない人ですね」 痴漢があきれてため息をつく。 「お前……なんか使ったか……!?」 じゃなきゃおかしい、初めてでこんなになっちまうはずがねえ。 「私は痴漢のプロ、男体の性感ポイントは余さず知り尽くしています。相手が初めてだろうが処女だろうが一突き……は言いすぎですが、三突きで勃たせ五突きでイかせる自信があります。たった今身をもって体感したでしょ」 嘘だろう。 便座にもたれてへたりこむ羽生のもとへ痴漢が剣呑に歩み寄り、ズボンの前を寛げて、立派な分身を引っ張り出す。 「ご存知ですかスリ師さん」 そして、にっこり微笑む。 「男性同士じゃ強姦罪は適用されません」 それは死刑宣告に似て。 温厚そうな顔に似合わぬ陰茎は太さ硬度を備え屹立し、羽生は床に手をつき顔面蒼白であとじさる。 しかし狭いトイレには逃げ場もなく、かくなる上はと痴漢に体当たりしてドアをぶち破りにかかるも、予めその行動をみこした痴漢に葦払いをかけられ便座に組み伏せられる。 「反省が足りない。お仕置きが必要ですね」 やっぱりそうくるか。 往生際悪くばたつき蹴りをくりだす羽生を抱え上げ便座に据える、膝を割り開いて昂ぶりを外気に晒す、後孔に先端をあてがう。 「やめ、裂けるってぜってー……!」 「さっきまで三本くわえ込んでたんですよ?ほぐしたから大丈夫」 よく引き締まった尻に五指が沈む。 外気に晒された粘膜に固く張った亀頭が沈み、串刺しの本能的恐怖に脂汗が滴る。 「痛ッ……ぐ」 「降参なさい」 「-------っ、あぐ!!」 熱く脈打つ剛直で後孔をこじ開け直腸を滑走しつつ、リズムをつけ腰を叩きつける。 「前に、隠してるの、なんですか?」 「安産、祈願の、お守りだって、何回言わせんだよ!こんなっ、体勢で、聞くな、舌噛む!」 「便座から落ちますよ、暴れると」 おかしい、さっきまで山手線内にいたのにどうして駅のトイレの個室で突っ込まれてるんだ? ねちっこい指テクで前立腺のめくるめく快楽とやらに強制的に覚醒させられたか、俺はノーマルだったはずと必死に抗い拒んでも遅い、迎合するようにねだるように腰振ってはしたない嬌声上げてちゃさっぱり説得力がない、眼鏡越しの双眸が獰猛に光る、蛇、いや違うこれは…… 鋭い爪でハブを切り裂くマングース。 「あっ、あっ、あっあっあっあっ!」 マングースがハブを咥えて振り回す、便座からずりおちそうになるつど手でしっかりと支え奥の奥まで抉りこむ、激しい抽送に乗じて生ける杭が太さと脈動を増す、体内を刺し貫く肉棒が前立腺をくりかえし擦過、すっかり感じやすくなった粘膜がうねり腹筋が波打つ。 「更正なさい」 「金、積まれても、お断りだ、ひぅんっ!」 「逮捕状ならどうですか」 邪魔っけに眼鏡を取り払う。 あらわになった素顔は意外に端正で目を奪う。 「フィニッシュです」 「あっ…………!」 痴漢がぐっと力をこめ腰を抉りこむと同時に括約筋が収縮し襞がうねって、性急に追い上げられた体が射精に至る。 反射的に右手が閃き、胸を突き、遠ざける。 体内に挿入された陰茎が腸液の糸引き抜け、プラスチックの便座に裸の尻を据えた羽生は、今にも死にそうな顔色で叫ぶ。 「おま、え、何者だ!?」 「申し遅れました、私こういう者です」 折り目正しく眼鏡をかけ直し、もう一方の手で胸ポケットから取り出したのは…… テレビドラマでおなじみの、黒革の警察手帳。 「新宿中央署生活安全課巡査部長、玉城と申します」 刑事。 開いた口が塞がらない。 「たまぐすく……沖縄出身か?」 「マングースで有名な土地です」 白く清潔な歯を零し、輝かんばかりに爽やかな笑顔で注釈を挟む。 白濁が散った股間を晒し、自失状態で座り込む羽生のほうへと、おそらく警察で配られているのだろう交通安全の標語を印刷したティッシュを投げる。 「公共のトイレは清潔に使わなければいけません」 羽生の下半身を拭くと見せかけ邪険にどかし、便座の汚れを神経質に拭き丸めて捨て、レバーを引く。 「………」 男に強姦された精神的外傷、痴漢の正体が刑事と判明した衝撃を、優先順位で便座に負けたショックが上回る。 ようやく呂律を回復し、身支度を整える刑事にむかい、憤激に駆られて怒鳴る。 「刑事が痴漢って……外道すぎる!」 「更正のお手伝いです」 玉城にはなんら悪びれたところがない。 怒りで口も利けない羽生を見つめる目はあくまで穏やかで、崇高な使命に己が身を賭す者特有の達観さえ感じさせる。 「私が狙うのはあくまで山手線内でスリ行為、痴漢行為を働く悪党だけ。通勤通学に山手線を利用する善良な一般人に手をだしません」 「詭弁だろ!大体痴漢が更正の手伝いってどういう理屈だ、破綻してる」 「犯罪は犯罪をもって駆逐するのが信条ですので……山手線が仕事場なら、二度と電車に乗れないほどのトラウマを植えつければいいだけのこと。年々悪質化するスリや痴漢を淘汰するにはこれしかないと開眼したんです。これに懲りたらスリ師さん、ひとの財布に手をつけず真面目に働きましょう。奥さんと子供のためにも」 「独身だよ、俺は……」 ドッと脱力が襲う。 額に手をあてうなだれる羽生に対し、玉城はあっさりうそぶく。 「よかった。少し罪悪感が減りました」 「電車ん中でやたらゲイビデオ出演勧めてたのは……」 「仕事柄そちら方面には顔が利きます。生活安全課が押収した裏ビ、もとい、その手のビデオには事欠きませんので。再就職の意欲があるならいつでもご紹介します」 言い返そうと口を開いた羽生の鼻先に、本革の札入れをちらつかせる。 「駅の遺失物係に届けておきますね」 いつのまに。 「~最初ッから気付いてたのか……!」 殴りかかりたい衝動を拳を握りこみ辛うじて抑圧。 射殺さんばかりの目つきで睨みつける羽生を軽くあしらい、札入れをしまって断言。 「現行犯逮捕したいところですが、もう一回やりなおすチャンスをあげましょう。不況のご時世、前科持ちを見る世間の目は非常にきびしい。更正をお祈りしてます、スリ師さん。仕事口に困ればいつでも生活安全課を頼ってくださって結構ですので……お待ちしてま」 「死ね!」 皆まで言わせずトイレットペーパーを毟って投げつければ抜群の反射神経で回避、ずれてもない眼鏡を押し上げ澄まし顔で宣言。 「人の財布に手をつけるのは犯罪ですが悪党の尻に手をつけるのはボランティアです」 眼鏡越しの双眸を余裕ぶって眇め、丁寧に一礼して去っていく。 下半身丸裸でトイレに取り残された羽生はしばらくそのまま呆然とし、硬質な靴音響かせ去っていく気配を追っていたが、やがて靴音がホームの喧騒に紛れ完全に消えるや、深く深く頭を抱えこむ。 「は………」 一瞬の空白。 「ははははははははははははははははっははははは!!」 続く爆笑。 とうとう忍耐の限界が訪れ、口かっぴろげ仰け反るようにして哄笑する。 便座から転げおちんばかりに腹を抱え手足をばたつかせ気が触れたような狂態を演じる、剥きだしの膝を叩いて涙がでるまで爆笑する、笑って笑って笑い続けて酸欠に陥る一歩手前深呼吸で持ち直し足首に絡んだズボンの内側からブツをとりだす。 「勝負あったな。山手の羽生をなめるな刑事さん」 ついさっき、胸を突くふりでスッた玉城の財布。 戦利品をぽんぽん軽快に投げ上げ、ご機嫌な鼻歌まじりに快哉を叫ぶ。 「更正?誰が!痴漢の分際で説教か、腐った刑事もいたもんだ、恐れ入ったぜ。俺は山手のハブと呼ばれる男、これから伝説になる予定の最強のスリ師、夢はでっかく山手線全駅制覇!そんな俺が反省?更正?笑わせんな!トラウマなんざ便所紙に包んでぽいっと捨ててやる、今日の事は悪い夢だ、ちょっとばかしケツが痛かったが特大の座薬くらったとでも思ってそっこー忘れてやる」 さらば玉城よ。 もう二度と会うつもりはないが、次に会ったら警察手帳をスッてやる。 「高そうな財布だな。刑事の薄給じゃ期待できねーけどひょっとしたら……」 一本とって溜飲をさげ、肝心の中身をあらためんと財布を開く。 からっぽ。 紙幣も硬貨も見当たらない。 財布の仕切りを引っ張り覗き込めば、側面にセロテープで接着された盗聴器がひとつ。 「言い忘れましたが、私、非常にしつこい性分ですので」 予期せぬ展開に凍りつく。 声の方を振り返った羽生の顔に走る驚愕と戦慄、キャッチしそこねた財布が落ちるのも構わず今度こそ正真正銘の悲鳴をあげ背凭れにへばりつく。 個室の上方、扉によじのぼってこっちを覗いているのは…… 玉城。 「あなたの本音はトイレ中に響く今の独白でよくわかりました」 何故かその声は、この展開を待ち望んでいたかのように嬉々と弾んでいた。 眼鏡越しの双眸は爛々と光り、隠し切れない愉悦が滴る表情はサディストの本性剥きだし、邪悪の一言に尽きる。 「宣戦布告、しかと受け取りました。ハブさん、あなたがその気なら……山手線耐久レースでお付き合いしましょう」 トイレの扉を隔て睨み合うふたりの姿はまるで前世からの因縁に結ばれた宿敵……たとえるなら、ハブとマングース。
ハブはマングースに食らいつき、マングースはハブの尾に齧りつき、山手線でロンドを踊る。 後日、羽生はこの男こそ「山手のマングース」の異名で畏怖されるスリ検挙のエキスパート……山手線にその人ありと知られる若き伝説の刑事と知るのだった。
ハブとマングースの仁義なき戦いは始まったばかりだ。
了
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