山手線はスリ師の梁山泊として知られている。
『二番線に電車が参ります ご利用の方は白線の内側にさがってお待ちください』 転落予防の注意を喚起するアナウンスがホームに響く。 山手線といえば今さら説明するまでもない都民にとっては身近な路線、東京の内側に円を描くように敷設された環状線。山手線の呼称が示す区間には品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿、池袋以下略が含まれる。通勤通学の時間帯を中心にビジネス需要と生活需要に応え、一日数万から数十万が利用する大所帯だ。 昼にはまだ少し早い頃合、車内にはサラリーマンだろうスーツ姿の男性やカジュアルな服装の学生が目立つ。天井から鈴なりにぶらさがる吊り革を掴んだ彼らは、それぞれ音楽を聴いたり新聞を読んだり目的地まで漫然と時間を潰す。 過半数の人間にとって山手線は目的地に行くための交通手段のひとつ、たんなる通過点でしかないが、車両を仕事場にしている人間も少数ながら存在する。 羽生もその一人だった。 新宿駅から乗り込み三周目、周囲の状況を的確かつ正確に把握し、いよいよ行動を開始する。 見た目はごく普通の二十代後半男性。 シャツとスラックスの私服を着くずしたどこかやる気のない姿は、就職活動を凍結しバイトで食い繋ぐうちに三十路が押し迫ったフリーターに見える。 羽生は山手線を縄張りにするスリ師だ。 山手線はスリの聖域、腕前に自信もつ猛者どもが割拠する梁山泊。 二十七と年こそ若いが、その腕前は同業者のあいだでも抜きん出て一目おかれ、若造とばかにされないだけのテクと実績がある。 中坊の頃から手癖が悪く、もともと家が貧乏で遊ぶ金などもらえず小遣い稼ぎと憂さ晴らしを兼ねて山手線に乗って財布をスッていたため、スリ歴十二年にもなるこの道のベテランだ。 獲物に一切の痛痒感じさせず財布をスる手腕は同業者の間でも語り草となり、羽生の名字にひっかけて「山手のハブ」の異名を頂戴している。本人、いまどきハブかよそのセンスなしだぜと内心忸怩たるものを感じないではないが、異名に異議申し立てるのも恥ずかしいので呼びたいやつには勝手に呼ばせている。 吊り革を掴み眠たげにあくびする学生とスポーツ新聞を器用に折りたたんで読むサラリーマンの間をくぐり、目的の人物へ接近。 本日、羽生が狙いをつけたのは企業の重役風の中年男性。 仕立てのよいダークグレイの背広を着こなし、漆黒の光沢放つ靴をはく。 日本人の体型に従来の既製品は似合わない。 なで肩寸胴短足だとどうしても着られてる感が先にたってしまうが、男のスーツはきちんと寸法をとったオーダーメイド仕立てで即ち経済的に余裕がある証拠。靴も高そうだ。 心の中で舌なめずり、つまさきからてっぺんまでじっくり観察。 吊り革を掴みさりげなく隣に寄り添う。 男は羽生の接近に注意を払わず熱心に経済新聞を読んでいる。昨今の不況を憂えているのだろう。 車内はおよそ八割の入り。スリ師にとって最高の状況だ。これより人が多く混んでいても少なくてもやりにくい。前者は過密して身動きできず、後者はバレる危険が高まる。懐に手が届くほど近寄っても不自然に思われない距離というのは実に按配がむずかしい。 『次は田町、次は田町。お降りのお客様は電車がとまるまでお待ちください』 定例のアナウンスが響き、ドア付近に下車予定の乗客が移動する。 羽生は慎重を期して距離を縮める。 指先がちりちり疼く。 慌てるな、冷静に、沈着さを保て。 目を閉じ、呼吸を整え、神経を鋭敏に研ぎ澄ませる。 眼光鋭くえものの横顔をうかがう。 だいじょうぶ、気付いてない。 あたりまえだ、この俺が素人に気付かれるような凡ミスをするか。 経験と実践を踏み鍛え上げた己のスキルとテクに、羽生は傲慢なほどの自信をもっている。 俺はプロだ、素人に気取られるようなミスは万が一にもおかさない。 一方で油断は禁物と、己の増長を戒める。 何が引き金で気付かれるかわからない。異様に勘の鋭い人間というのはたしかに何割かの確率で存在し、運悪くそんなヤツに当たってしまったら…… 輝かしい栄光と伝説に彩られたスリ人生に終止符が打たれる。 さあ本番だ。 気を引き締め、勝負に打って出る。やみつきになる高揚感に合わせ指先がぴりりと放電する。 男の財布は―…… 口元に薄く笑みが浮かぶ。 観察の結果、重役は背広の内ポケットに財布をしまってると確信した。 尻ポケットや胸ポケットに無造作かつ無防備に突っ込んでる人間とは違い、ガードが固い。 表から見えない隠し場所は几帳面な性格に加え高額紙幣の所持を裏づける。 俺の目と勘に狂いはない。 予測があたってほくそえむ。 スリ師の本懐は大物一本釣り、相手に不足はない。 重役の隣に立つ。内ポケットを狙いつつ、タイミングを計る。 羽生の予想が正しければそろそろ―…… ブレーキ。 慣性につられ、シートに座る人間も吊り革をもつ人間も一斉によろめく。 獲物との距離が極端に近付いた一刹那を逃さず、手首を撓らせ一閃。 スリ師にとって指とは高性能センサーとバランサーを兼ねる、もっとも信頼おける仕事道具である。 瞼に浮かぶのはえものの喉笛に鋭い牙立て食らいつく獰猛なハブのイメージ。 やる気なさげな表情が勝負に挑むその一瞬引き締まり、ハブのイメージと重ねた右手を解き放ち、よろめき捲れた男の背広から本革の札入れを抜き取る。 所要時間、0.08秒。 これぞ山手の羽生と仲間に恐れられ尊敬を受ける理由。 無気力に脇にたらされた右手はその一瞬完全に覚醒し、一噛みで致命傷を与える毒牙もつハブと化しえものに襲いかかる。 事が済み、体から殺気が抜ける。 さあ、あとは札を抜き取って返せば終わり…… ドアが開き、途端、大勢の人間が乗り込んでくる。 何かのイベントがあったのだろうか、こぞって乗り込んできた人なみに埋もれた羽生を寒気が襲う。 「!?」 禍々しい気は。 たとえるならそう、ハブと互角に渡り合うマングース。 ハブにも決して引けを取らぬ戦闘力を有する獰猛な生き物の気配がぴたりと背にはりつき、首筋を冷や汗が伝う。 紙幣を抜き取り返そうとした手を、咄嗟の判断で体の前に持っていき、ズボンに札入れごと突っ込む。 羽生は動揺していた。 なにか、得体の知れぬものが後ろにいる。 背中に被さる凄まじい重圧は、振り向くのに抵抗を感じさせる。 札入れを返さなかったのは致命的なミス、もしまだ車両にいるうちに重役が財布の消失に気付いたら面倒なことになる。おそらく最も近くの羽生に疑惑がかけられるだろう。 ズボンから札入れが見つかったらおしまいだ。 一体いま、この車両に「何」がいる? 何百という財布をスり修羅場をくぐり鍛え上げた勘が、こいつはただものじゃないとけたたましく警報を鳴らす。 人に紛れて人にあらず、禍々しく邪悪な気のぬしは……
ひたり。 臀部に違和感。
「ーっ、」 振り向き、顔を確かめたい衝動を必死で堪え平常心を保つ。 後ろに寄り添う気配は次第に濃さを増していく。 羽生は目下売り出し中のスリ師だ。 が、広く顔を知られてるわけではない。 山手のハブの名こそスリ師仲間のあいだを一人歩きしてるが、なあなあ我こそはと喧伝して歩いてるわけじゃなし、偶然乗り合わせた同業者がそうと知らず羽生の財布をねらう可能性だって十分にある。 しかし……… (………どうも素人くせえな、こいつは) 痒いところに届かず迂回するもどかしい手つきにいらつく。 スリ師がなにより重視するのは速さだ。 このスリはやけに手際が悪く、いたずらに羽生の尻をなでまわすばかりで一向に本体に手をかけようとしないのだ。羽生の財布はズボンの横ポケットに入ってる。 さわればすぐ気付くはずだが…… 商売を始めて間もない青二才か? そう結論づけ、微笑ましささえ抱く。 羽生は少々天邪鬼ではねっかえりのきらいがあるが、後輩には寛大だ。くわえて、今日は懐が温かい。少しくらいは大目に…… ……………さわさわ。 大目に。 「…………?」 変だ。 いつまでたっても手が離れない。しつこく尻をさわっている。 しかもその触り方というのが財布をねらってるという感じじゃなく、なんというか、激しくアレであれなのだ。 尻をさわること自体が目的のような粘着な執拗さ。 まさか。 ひとつの可能性が浮かぶも、自分の性別を考え即座に否定する。 そんなおぞましい事態は冗談でも考えたくない。 吊り革を掴む手がじっとり汗ばみ、動悸が激しくなる。 勘違いだ。そうに決まってる。 今後ろにいるのはちょっとドジでのろまでお茶目な素人スリ師、尻をなでまくってるのは財布の場所がわからないから…… 「ぅう………」 ついに痺れを切らし、尖った声で牽制する。 「―お前、いい加減に」 「スリがいるってバラしますよ」 成熟した声が囁く。 衝撃の落雷が鞭打つ。 「な」 声だけなら魅力的といっていいだろうが、位置関係からしてこの男が犯人に間違いない。 さっきからしつこく羽生の尻をさわり続ける犯人。 バレた。 見つかった。 見られてた?いつから? 蚊トンボの如く脳裏に荒れ狂う疑問符。 生唾を飲み、抑制の働く言葉を返す。 「………なんのことだよ」 「とぼけるおつもりですか」 声には面白がるふうな響きがあった。 そいつはちょうど羽生の真後ろ、背中につく位置に陣取っている。 背が高い。振り向かなくてもわかる。 視界にちらつく濃紺のスーツと曇りひとつなく磨き抜いた革靴の取り合わせは潔癖さを強調する。 靴裏から一定の振動が伝わる。 数千数百の人間を満載した電車は、一定の振動を維持し周回軌道に乗る。 追い詰められつつある緊張をごまかすため、周囲に視線を飛ばす。 シートで文庫を読むОL、退屈そうに枝毛をいじるギャル、携帯でメールを打つ学生……平穏平和な日常の延長の光景。 「……あの人から財布をスッたでしょう」 「はあ?まさか俺をスリだと疑ってんのか?誰だよあんた、失礼だぞ」 「その若さで相当な場数を踏んでるとお察しします」 「大した妄想癖だ。秋葉原から乗ったのか?」 そいつは羽生の皮肉を不敵に笑って受け流す。 好奇心に負け、ぎこちなく振り返る。 羽生の背にぴたり密着するのは長身の男。 セルフレームの眼鏡が似合う鋭角的な顔立ち、神経質に尖った顎と細い鼻梁、口元に漂うシャイな笑み。没個性が美徳であるようなスーツはさながらエリート公務員の印象。品行方正と人畜無害を掛け合わせたような見てくれは「実直そうな」「誠実そうな」という好感度の高い枕詞に結びつく。
実直そうで、誠実そうな、痴漢。 違和感ばりばりだ。
「いきなりなんだあんた。とりあえず俺のケツから手えどけてくれ、男にさわられて悦ぶ趣味ないんでね」 「落ち着いて。声をおとして……僭越ながら、まわりに聞かれてはあなたに不利益をもたらします」 怜悧な知性を加味する眼鏡越し、一重の双眸を眇めて警告。 口を噤む。悔しいが、そのとおりだ。 「ご理解いただけて恐縮です」 言葉遣いこそ丁寧だがかえって小馬鹿にされてるようで不愉快だ。 電車は揺れる。吊り革も人も揺れる。 男の手はますますもって大胆さを増し、腰から臀部にかけねっとり円を描くようになでまわす。 もはや誤解しようがない。 男の手は下心を隠しもしない、どころか全開だ。 「………痴漢か」 マナーとして一応確認をとる。 「はい」 あっさり肯定。 一体なんだ、これはどういう状況だ、どうして俺は痴漢されてるんだ? 女と間違えてる可能性は万が一にもあるまい。 年齢二十七歳、性別男、中肉中背。やや目つき悪し、くたびれやさぐれた雰囲気が漂う。自分の顔で一番好きなところはどこかという主旨のわからない質問には、「右目の端っこのホクロ」と答えておく。 高校の頃一時期付き合ってた彼女には「全体に漂う人としてちょっとダメっぽい雰囲気がたまらない」と言われた。あの子はいまどこでなにをしてるのだろうか、悪い男にだまされて風俗に沈められてなきゃいいが…… ぐるぐる思考が迷走中の羽生を、低く愉悦を含んだ声が現実に引き戻す。 「スリ師ですね?」 「違う」 「即答ですね。逆にあやしい」 「失礼なヤツだなホントに……俺がスリ師だって証拠でもあんのかよ、憶測だけで勝手ほざくならこっちにも考えがあるぞ」 凄みつつ、内心まずいと舌を打つ。 どうしてスリ師だとわかった、犯行現場を見られてたのか?十分気をつけてたつもりだったのに。 「俺はただ電車に乗ってるだけ。電車にのるのは自由だろ?山手線に乗るのに資格も審査もいらねえよな」 「もちろんですとも」 「ケツから手をはなせ」 「お断りします」
聞き間違いか? ホモで痴漢の分際で居直る気か?
「ひと呼」 「どうぞ。こちらもスリ師がいると叫びますので相討ちです」 弱みをつかまれた。 状況はどんどん不利になる。 羽生の頭は高速で回転する。 どうしてこんな事に? 疑問は脇におき、行動に優先順位をつける。 相手は羽生がスリだと見抜いた上で狡猾にも脅しをかけている。 仮に羽生が痴漢を訴えれば男も羽生をスリだと暴露する、しかも羽生はついさっき奪った証拠品を所持しているため言い逃れできない。 どちらが駆け引きで分が悪いかは明白。 後ろの男が痴漢だという根拠は被害者イコール羽生の証言しかないが、羽生がスリだという物的証拠は実在する。そもそも痴漢は現行犯でしか成立しない犯罪であるため立件がむずかしい、だからこそ冤罪や捏造が絶えないのだ。 羽生の服から現金入り財布が見つかれば被害者と加害者の立場は逆転し、こちらが白眼視される。 なおまずいことに、返す返すも羽生は男だ。 男が男に痴漢行為を働く。ありえない。ここは新宿二丁目か?いや、新宿駅はとっくにすぎてる。 もし仮に「こいつ痴漢だ」と叫んだとして……叫んだとして 一斉に集中する目、目、目。 あの人痴漢されたんだって。えーっ趣味わるー。男が痴漢きもいんだけどーつうか隙ありまくりじゃね?ケツに手が触れた時点で払えよー、どんだけとろいの?さわられんの待ってたんじゃね?わかったわかった、そういうプレイね…… 「生き恥だ……!」 耐え難い屈辱。想像だけで火を噴いて憤死しそうだ。 羽生の頭の中で何故か語尾を甘ったるく伸ばすコギャルしゃべりで再生された会話は、しかし妙にリアリティを帯びる。 毛穴の汗腺が開いて一気に汗が噴き出す。 考えろ、羽生。 今が正念場だ。 ダメージが一番少なくて済む痴漢撃退法を考えろ、お前のスリ人生がかかってるんだぞ? 名案を思いつかぬまま残酷に時が過ぎ行く。 背中のあたりが猛烈に痒くなる。 羽生が悶々と悩み続ける間も手はまめに働き続け、ズボンの生地越しに尻たぶを掴んでねっとり揉みほぐすだけじゃ飽き足らず、窪みにそって人さし指を上下させる。 「………っ、……!」 窪みにぐりぐりと人さし指をおしつけられる。 気色悪さに奥歯を噛む。 「汗かいてません?熱があるのかな?顔赤いですよ」 「空気が悪いんだよきっと……混んでるから」 嘘をつく。とぼける。必死に平静を装う。 打算が働き保身が先にたつ。 この場で痴漢を糾弾するのは諸刃の剣、むしろ羽生のダメージの方が大きい。 「そうですか。むりありませんね、この混み具合じゃ。立ちっぱなしじゃ気分も悪くなるでしょう。ところでスリ師さん、痴漢とスリはどちらの罪状が重いかご存知ですか」 「しらね……つかスリ師じゃね」 「電車内における痴漢行為は強制わいせつ罪に問われます。被害者との示談で慰謝料を払い穏便に解決するケースもありますが、懲役一年以上五年未満を求刑される事もある。対してスリ、これは窃盗罪に該当しますね。スリ師さん、強盗罪と窃盗罪がどう違うかおわかりですか?」 「知らね……ぅ」 尻を意地悪くこねくりまわし、真ん中の窪みをズボンごしに指圧する。 「人家に強盗をもって押し入り金をだせと恫喝した場合は強盗罪、窃盗罪は他人の金品をこっそり盗んだ場合にあてはまります。前者の方が罪が重いですが、後者も盗んだ額によっては懲役一年以上を求刑されます」 「痴漢の方が罪が重い……のか?」 「よくできました」 ほめられてもまったく嬉しくねえ。 「ですがあなたの場合は少し事情が違う。最初から大物狙いだったでしょう。前科と余罪も多いでしょうし……懲役五年……いや、八年かな」 「やけに詳しいな……」 『次の停車駅は代々木、代々木です。ただいま車内が大変混み合っております、お降りの方はドアが開くまでお待ちください』 早く降りてくれ。 手が這うつどもぞつきに苛まれ恥辱に耐えつつ、一心に念じる。 男が羽生に働く行為は死角になって見えない。 羽生の尻たぶを掴み捏ねくりまわし、首筋に湿った息を吐きかける。 「……あなたのテクニックは見事の一言に尽きますね、スリ師さん」 「そのスリ師さんて呼び方やめてくれ、俺は善良な一般人……」 「お仕事は?」 「え」 どもる。 男の口の端に笑みがちらつく。 「平日の昼間、スーツも着ずに山手線に乗っているあなたの職業はなんですかとお聞きしたんです」 「言いたくねえ」 「言えない仕事なんですか?」 「~っ、どうして痴漢にばらさなきゃいけねんだよ?俺の仕事知ってどうする気だ、ストーカーでもすんのか。ほっとけよ、俺がどんな仕事で食い扶持稼いでようが俺のケツにしか興味ねえ痴漢に関係ねえ」 「木を隠すなら森の中」 「はあ?」 「最近のスリ師は手が込んでるんですね。平日の昼間、私服で電車に乗ったら目立つからとプロの中にはわざわざスーツに着替えてサラリーマンに偽装するものもいるそうです。柔軟な発想に脱帽しました。スリ師を極めるためにはやはり服装にも気を遣わねばならないんですね。その点あなたは感心できない。色落ちしたシャツとだぶだぶのズボン、履き潰したスニーカー……」 「どうして身なりにまで口出しされなきゃなんねえんだよ?」 むかっぱらがたつ。背後の男に殺意を抱く。 いきなりバランスを崩す。 「~~!?」 男の片手が突如として前に回り、股間を包む。 「このスラックス……縫製が甘いですね」 前をさわさわといやらしい手つきでまさぐりつつ、もう片方の手で尻の窪みをなぞる。 「ぅあ、や、よせ」 不覚にも甘い声がでてしまう。 痴漢の手は女のようになめらかでしなやか、色白で繊細。 そんな手がズボンの前を貪欲にまさぐり、ズボンの生地越しにふたつの睾丸を包み弄び、陰茎をなぞる様はひどく扇情的かつ倒錯的でぞくぞく背筋がむずつく。 「しごと、言う!」 「はいどうぞ」 「ふ……フリーター」 「その年でですか?」 「日暮里の古着屋でバイトしてる……このズボンもその店のもんだ」 口からでまかせを吐く。男の手が離れていく。 安堵したのも束の間、男が妙に優しく問う。 「今日はこれからお仕事へ?」 「そ、そ……お前に構ってるひまねえ」 「日暮里すぎちゃいましたよ?とっくに」 はめられた。 「あー………」 どうする?ライフカード。 羽生は逆境に弱い。 予期せぬ事態に直面し、思考停止状態に陥る。 一呼吸おき、ようやく言い訳を思いつく。 「趣味、人間観察で……今日バイト休みで、山手線ぐるぐるしながら乗ってるヤツら眺めてた」 「それはネクラな」 「うるせえ」 「それではひとつ観察眼を試させていただきましょうか」 男が軽く言い、顎をしゃくる。 つられてそちらを向く。 「彼女が好きなお菓子をあててください」 「は?」 「人間観察が得意ならわかるでしょう」 シートの真ん中に座る女子高生は、友達とのおしゃべりに夢中でさっぱりこちらに気付いてない。 「………ポッキー?」 「残念。正解はポテロング」 「どうしてわかんだよ?」 まあ見てなさいと男が微笑む。 半信半疑で見つめる羽生の視線の先、膝に乗せた鞄から女子高生がとりだし、グロスに照り光る唇でぱくつくのは…… 「……あってる。お前なんでわかっ、」 「さっきからずっと食べてましたよ?」 「…………見落としてた」 「女子高生は対象外ですものね」 「小便臭えガキの懐をねらうほど山手のハブはおちぶれてねえ―あ、やっべ!」 ミスった。最悪。 「今のなし。取り消し」 「懐をねらう、とは」 「忘れて。オッケー?はい忘れた」 男の唇が弧を描く。 「原則としてスリは女性をねらいません、さては痴漢かと二重に疑惑を招く危険があるからです。くわえて昔気質のスリは女子供の財布をねらうのを邪道と毛嫌いする傾向がある。随分真面目ですね、あなた」 「…………」 「個人的には嫌いじゃないです」 真面目とかどうとかの問題じゃねえ、信条と信念の問題だ。 むっつりだまりこむ羽生の機嫌をうかがうように、巧妙極まる前後の愛撫を再開する。 「あっ、や、まて」 なにかを塗りこめるような仕草で人さし指をえぐりこまれ、貫通の痛みが走る。 「自供しますか?」 「皇居の堀で目ん玉洗ってこい。俺は潔白……!あっ、ぅく」 前をきつくしごく。男の股間が尻にあたる。 悔しさに潤む目を後ろに流せば、さも嘆かわしげに首振りぼやく。 「皇居のお堀といえばミドリガメの繁殖が社会問題になってますね。成長しすぎて始末に困った飼い主が捨てていくんです。マナー違反にも困ったものですよ……昨今区民のモラル低下は著しい」 「話、脱線してねえか?」 息も絶え絶えにつっこむも、いやみったらしい面つきですっとぼける。 汗が染みる目を細め周囲をうかがう。 正面のサラリーマンは吊り革につかまったままうたた寝している、隣の学生は目を閉じて音楽を聴いている。 よかった、バレてない。 周囲の乗客はそばで繰り広げられる破廉恥な行為に無関心、自分の世界に閉じこもっている。 衣擦れの音が耳につく。 噛み殺しきれない喘ぎと吐息に弾みがつく。 手前の男が読む新聞の一面が霞む、眼球の表面に生理的な涙が薄膜を張る。 「……しつけ、いい加減に……覚えてろ、今度とまったら外蹴り出して立ち食いそば頭からぶっかけてやる」 尻を触り放題される不快さ以上にプライドがじくじく痛む。 男として、スリ師として、やられっぱなしでいいのか? いいわけがない、断じて。 「……すごい……素晴らしい」 激情荒れ狂う羽生の心中を逆なでするかのように、感嘆の吐息をつく。 「ズボンごしでもわかります、あなたの尻は十年に一度の逸材だ。綺麗に左右対称に割れた尻たぶ、程よく引き締まり筋肉がつく。腰は細いのに下のほうはなかなか……」 「解説いいから!永遠に知りたくなかったこと教えてくれなくていいから!」 小声で叫ぶという器用なまねがすっかり上手くなった羽生である。 「感度も上々」 「!―ぅく、ひ」 「興奮してますね」 「だれがっ……」 「前が固いですよ」 「これはさ、」 ついうっかり。 慌てて口を閉ざしそっぽを向く羽生になにをおもったか、男の動きが微妙に変化する。 羽生の足のあいだに膝を割りいれ、律動をつけ下から刺激を送る。 「―っ………」 唇を噛む。頬に熱が散る。 首筋まで真っ赤に染め、へっぴり腰で耐える羽生の姿が嗜虐を煽り、痴漢が生唾を飲む。 「なんですか?言ってくれなきゃわかりません、前になにを隠してるんですか」 「しらね……おしえる義理ね……」 「勃起してるんでしょう」 「ざけんな」 「試してみますか」 「!!ちょ、」 ぎょっと目を剥き制すも間に合わない。 言うが早いが、待ちかねたようにズボンの中に手がもぐりこむ。 ベルトをしてないのが仇になった。 スラックスの中へもぐりこんだ手が下着に侵入、萎んだペニスを握る。 「嘘だろ……」 見下ろす目に映る光景に引き攣り笑いで呆然。 「フツー下着ん中まで突っ込むもんなのか……!?」 「普通の基準はあまり意味がありませんので」 ショックを受ける羽生の耳の裏に吐息に絡めて囁き、股間を尻に押しつける傍ら、ペニスに指を巻きつける。 「やっ、あっ」 耳の裏に唇がつく。 前後で緩急つけ手が動く。 電車の中、いつばれるかわからない衆人環視の状況の中、同性に痴漢される屈辱にはらわた煮えくり返る。 淫靡な衣擦れの音をたてつつ媚肉を捏ね苛み、男が笑う。 「スリの腕前では負けますが、痴漢としては私の方が手だれです」 あからさまな挑発。 プライドに火がつく。 いつまでもヤられっぱなしの羽生ではない。 痴漢男の財布をスッてやる。
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