「何か…親父が浮気してるっぽい…」 清清しいほど晴れ渡った青空とは裏腹に、隣で手摺に寄りかかる卓真の気分は鬱々としていた。 溜息をついて、卓真は空を仰ぐ。 卓真の家は三人家族だ。 父親は企業のエリートで、母親は専業主婦。 どちらも凄く優しくて、一人息子を大事にしている。 由紀が遊びに行った時も、夕食までご馳走になってしまった。 父親のいない由紀にとっては、とても羨ましい家庭だ。 あまりにも暗い卓真の顔を見ているのが辛くなり、由紀は何も言わずに目を伏せた。 言葉が無い。 「コソコソ電話したり、メール打ってるみたいなんだよなぁ。親父、今までメールなんてした事ねぇのにさ。 若い女かなぁ…」 「……仕事関係じゃないの?」 感情を押し殺してやっと一言発したが、卓真は気の無い返事を為るのみで終始空を眺めている。 如何すべきか考えたが、由紀は気の利いた言葉の一つも見つからなかった。 父親が浮気をしているのを知った家族の気持ちというのは、一体どんなものなのだろう。 悲しくて、辛いのだろうか。 それとも怒りだろうか。 想像したが、由紀にはいまいち真実味が得られなかった。 ただ目の前で落ち込んでいる卓真の姿は、見ているこちらも辛くなる。 溜息をつき、由紀も空を仰いだ。 一面の蒼が校舎を包んでいるようだ。 頬を撫でる風も心地良く、冬だと言うのに寒さを感じない。 春が近い所為だろうか。 鬱々としている友人がいなければ、ここで昼寝でもしていただろう。 そう考えて、由紀は苦笑した。 人事ではない。 「信じてみたら? きっと何かの間違いだよ」 「……うん」 由紀の方も見ずに、卓真はトーンの低い言葉を発する。 こっちまで憂鬱になりそうで、由紀は頭を垂れた。
「卓真がね、浮気してるっぽいってさ」 一人住まいにしては広いリビングだと思う。 白を基調にした部屋は無駄なものが一切なく、其の所為で余計に広く見える。 ウォールシャギーのラグマットを撫でながら、白いソファの上でネクタイを解く男を見上げた。 凍りついた表情で、男が手を止める。 焦っているのが解り、由紀は居た堪れず顔を伏せた。 静まり返った部屋に、時計の針だけが一秒毎に音を奏でる。 嫌な音だ。 普段あまり気にしていない音なのに、こんな時だけは耳障りな程煩く聞こえる。 カチ、カチ、カチ。 何故時間は進んでしまうのだろう。 倖せな時間で止められたら良いのに…。 「由紀は…何か言ったの?」 バリトンの優しい声音で囁く様に聞かれ、由紀は首を横に振った。 卓真の父親の浮気相手が自分だなんて、死んでも言えるはずがない。 由紀はソファに背を預け、もう一度男を見上げた。 「きっと何かの間違いじゃないか、って言っておいたけど」 そうか。小さく呟いて、男はネクタイをソファの上に置いた。 暫く男の動作を見つめた後、由紀は横を向いて男の膝に頭を乗せる。 何時もの様に優しく髪を梳かれ、心地よさに瞳を閉じた。 決意をしなければならないのに、彼の傍が心地よくて倖せで、どうしても揺らいでしまう。 このままバレなければ平気だろうか。 バレなければ、一生傍に居られるだろうか。 だがそれでは一生卓真を騙す事になる。 心の中の悪魔と天使が、由紀の心を苛んだ。 「……すまない」 掠れた声で囁かれ、一気に心が凍裂しそうになった。 謝った意味が理解出来なくて、由紀は顔を上げ眉根を寄せる。 膝の上で組んだ腕を見つめながら、男は沈黙した。 悲痛な面持ちと言い淀む姿で、その言葉の真意を悟った。 いや、謝られた段階で理解していた。 ただ信じたくなかっただけだ。 結局彼は父親なのだ。 愛人は妻に勝てても子供には絶対勝てないだろう。 初めて卓真が憎いと思った。 「いいよ…別れる?」 自棄に冷めた言葉が、自らの口をついて出た。 辛い時に泣かないのは、幼い頃からの癖だ。 泣きたかった。 泣いて縋りたかった。 でもそれは惨めな事で、してはいけない事だ。 そう母に教えられてきた。 「由紀……」 哀憫するような声で名前を囁かれ、目頭が熱くなるのを感じた。 泣いては駄目だ。 一度目を伏せて耐え、由紀はもう一度彼を見上げた。 今自分はどんな顔をしているのだろう。 酷く情けない顔をしている気がして、この場に居るのが耐え難い。 早く目の前の男が居なくならなければ、きっと全てを吐き出してしまう。 そんな醜い事は出来ない。 「帰りなよ。卓真に気づかれたらお互い辛い」 冷酷。冷徹。冷めた心。 そんな風に彼の眼に映っているかもしれない。 それでも仕方ない。 泣くよりはマシだ。 幾許か黙り込んでいた男は、未練がましい視線を送り立ち上がった。 幽かに香る男の匂いに、涙涕を刺激される。 隣に残る熱も男と共に遠ざかり、部屋の体温が急激に垂下していく。 さよなら。 冷水を浴びせるように、男は呟いてドアを閉めた。 刹那。 耐えていた涙が溢れ出した。 嗚咽すら口を吐き、拭いても拭いても止まらない。 由紀はソファに顔を埋め、噎び泣くしかなかった。
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