窓の隙間から日が差し込んできている。 うっそうと頭を上げれば金色の朝日がでこぼこのコンクリートに反射していた。 朝ご飯だと言う母親の声がしばらくして聞こえてくる。 昨日の夜来ていたパジャマ。 テーブルライトはつけっぱなし。 ノートはよだれでぐちゃぐちゃ。 普段しない勉強をして気を紛らわせようとしたけれどやっぱり魚谷の事が頭から離れずにそのまま眠ってしまった。 体中が痛い。 眠ったはずなのにまだ眠たいのは机で寝ていたせいだけじゃない。 再度朝ご飯だと催促する母親にうんざりしながらも俺は手早く制服に着替え階下に降りて行った。 学校に行きたくない。 ぽそぽその食パンにクリームを塗りたくっていると母親にしかられた。 うんざりしながら口に運べばクリームのきつい味がした。 学校になんて行きたくないんだ。 仮病を使おうにもそれを口にする事はない。 暗くて自分の意見を言えない性格。 優柔不断で気弱。 せめて強いものになびかなければたちまち俺がターゲットにされてしまう。 だから、仕方がないんだ。 何度も何度も自分にそう言い聞かせて俺は鞄を掴み寝不足の頭で学校へと向かった。 途中何度も遠回りしようか、遅刻しようか、いっそのことサボろうかとも思いながら、そう思うたびに心臓をどきどきさせて。 結局いつものルートでいつもの時間に学校についてしまった。 迷っている間にいつも俺はこんな風になってしまう。 和田はまだ来ていなかった。 中川に背中を叩かれノートを写させてくれと言われた。 ノート、宿題をやるの、俺もすっかり忘れていた。 そういえば昨日机に向かったのは最初宿題をするつもりで、魚谷の事を考えていたから忘れてしまったんだ。 鈍重に溜息を吐く。 和田が投稿して来て開口一番にノートと言った。 「ごめん、俺もやってない」 「えー、マジかよ。しっかりしろよー。」 「そういうお前だってやってねえだろうが。ちっ、どうすっかね」 三人でぐだぐだと言い合う。 和田も中川も慌てて宿題をやろうとしない。 俺も彼らに従う。 長いものには巻かれてしまえ。 誰に写させてもらおうかと相談していると予鈴ぎりぎりで魚谷が登校して来た。 俺は目を見開いて驚愕する。 魚谷は平然とドアを閉め自分の席に着く。 どうして学校に来れるんだろう。 どうして平気でいられるのだろう。 俺の心臓はまたどきどきし始める。 じんわりと掌に掻いた汗が気持ち悪い。 結局和田と中川は魚谷からノートを無理矢理に奪い宿題を写していた。 俺もそれに参加した。 魚谷のノートはびりびりに破られてゴミ箱に捨てられる。 慌ててゴミ箱をあさる魚谷の姿が滑稽なほど哀れだ。 背中を強くけられてゴミ箱ごと魚谷は倒れた。 チャイムが鳴る。 担任が入ってきてホームルームが始まる。 叱られたのは魚谷だ。 俺達はしらじらしく席に着く。 一時間目、宿題をきちんとやってきたはずの魚谷が怒られて俺達は怒られなかった。 教室中を満たすクスクス笑いが耳障り。 俺は震える指先から鉛筆を落とし耳をふさぐ。 授業を進める教師の声なんて心に届かない。 教科書を読んでいるだけの退屈な授業。 どうして教科書に載っている事しか教師は言わないのだろう。 二時間目に一枚の紙がクラス中に回される。魚谷は顔を赤くし机に隠して膝に置いた両の拳を震わせている。 どうせ紙には魚谷の悪口が書かれているんだ。 無造作に折りたたまれた紙をクラスメートは丁寧に広げて読み、折り目に沿って折ると次の席の奴に回す。 教室中の押し殺した笑い声。 黒板に白いチョークで文字を書く眼鏡の若い教師は一時間が過ぎるのを早めるように黙々と授業を行う。 誰が聞いてようが聞いてまいが関係ないとでも言いたげに。 まるで黒板を引っかく猿のよう。 俺の所に紙が回ってくる。 これを回されている魚谷本人はどう思っているのか。 紙をのろのろと広げて読む振りをする。 大急ぎでたたむ。 折り目が増えた。 閉じられた紙を掴む親指と人差し指が汗ばんでいる。 鼓動は早い。 これを回してきた奴がにやにやと俺を見ている。 その眼には早く回せと描かれている。 項垂れる俺の表情は暗い。 前の席に伸ばす俺の手は震えている。 前の席に座る奴の肩を軽く叩く。 振り返る奴の眼は待ってましたとばかりに他人を傷つける優越感に目を輝かせていた。 日常的な時間は魚谷と俺を置き去りにして淡々と過ぎていく。 途中、体育の時間、柔道の練習のときにふざけた和田が魚谷にプロレス技をかけ、体育教師の坂上から思いっきり怒鳴られた位で。 ふくれっつらをする和田を中川と慰め教室に戻った。 あの時俺は気がつかなかった。 普段なら教師の来ない更衣室で和田と中川が俺を巻き添えにタッグを組んで魚谷の膝に痣が出来る位プロレス技の続きをかけるのに、和田と中川はそれをしなかった事に。 チャイムの後は昼休憩だ。 休憩時間の中で一番長い休み。 昼飯を食べる前の腹はきゅうきゅうに引き締まりぐうぐうと鳴っている。 鞄から母親に作って貰った弁当を出して和田と中川の所に行こうとするとその前に和田と中川が迎えに来た。 にたにたと笑う二人に俺は不安を感じながらもどうしたんだよと軽口を叩く。 中川が俺の耳に唇を寄せる。 「今から体育の時間の仕返しをすんだよ」 魚谷はまだ教室に戻って来ていない。 反対する事なんて出来やしない。 俺は和田と中川と魚谷を廊下で待ち伏せする。猫背気味に教室に向かってのんびりと歩いてきた魚谷を捕まえ俺達は誰もいない男子便所に入り、入り口をモップでふさいだ。魚谷は和田に突き飛ばされて汚い個室に顔面から倒れた。 大便が薄っすらとこびりついている床に手を着くのをためらったの魚谷は顎を和式便所のふちに強打し眉をしかめた。 衝撃に吹っ飛んだ眼鏡にはひびが入っている。 和田の顔面は醜く歪んでいる。 魚谷が立ち上がる前に和田は魚谷の髪を鷲掴みにして顔を便器の中に突っ込んだ。 便器の淵には掃除をサボっているらしく大便がべったりとくっついている。 嫌な臭いと光景に俺は眉をひそめ大声で喚く和田と止めてくれと絶叫する魚谷を凝視した。 ばたばたと振り回される魚谷の手足。 中川がそれを押さえつける。 魚谷の顔面は便器の中に押し付けられている。 制服が汚水と汚物に汚れて茶色くなっている。 「おら!咽喉渇いてんだろ!飲めよ!」 「寄せ!やめろ、やめてく・・・!」 抵抗する魚谷の頭が便器に突っ込まれた。 呆然と突っ立つ俺に和田の視線が突き刺さった。 次いで中川の視線も俺に絡みつく。 びくりと肩を震わせる俺に和田が残酷に命令する。 「何やってんだ、水流!さっさとレバー引けよ!」 「え?!」 「え、じゃねえだろ!水流せっつってんだ!」 「和田の言う通りだぜ。汚物はちゃあんと下水に流さなきゃあなあ」 魚谷の痛烈なまでに強い視線が俺の眼窩を貫き頭蓋骨の裏側を抉った。 止めてくれ。 もうたくさんだ。 こんなのやりすぎじゃないか。 俺だったら絶対に自殺する。 お前らだってこんな事されたくないだろ? だったらどうして魚谷にこんな事するんだよ。 最低じゃないのか。 どうしてだ、何でだ、教えてくれよ。 小刻みに震えながら俺はレバーを引いた。 水が流れて魚谷の顔面を汚す。 和田と中川は笑っていた。 そのままの魚谷を教室に帰すわけにも行かず俺達は校舎裏まで行った。 授業をサボるよりも魚谷に対する罪悪感が酷く募る。 和田と中川はホースを持って水を出し逃げる魚谷を追いかける。 水を吸った地面はぐしょぐしょだ。 こけた魚谷は余計に制服をぐしゃぐしゃにして唇を噛み締めている。 和田と中川は容赦なくホースの水を魚谷に浴びせ続ける。 俺はホースを持ったままぼんやりと彼らを眺めている。 まるでブラウン管の中に映っているくだらない映像を眺めているように。 魚谷の視線は強烈だ。 ここまでされているのに、輝きを失わず、それはますます強烈になり俺を突き刺す。 心臓が壊れそうに脈打っている。 仕方がないんだ、俺は……。 俺は……。 「おい、水流、お前もやれよ」 「もう……止めろよ」 俺はついに言ってはいけない言葉を口にしてしまった。 言った和田がきょとんと俺を見ている。 中川も少し遅れて俺を見ている。 ホースの水が一点に集中している。 俺はホースを投げ捨て魚谷に駆け寄った。 どろどろの地面と水から魚谷を引きずり出し震える声を最大限にして言う。 「もう……止めろ。こんな事して、なんに、なるって言うんだ」 俺は膝を折って魚谷にハンカチを差し出した。 いつから制服のポケットに入ったままのハンカチか分からない。 「汚れていて悪いけど」 魚谷は始めきょとんとして、すぐに目を白黒させて俺を見詰めた。 俺は崩れた微笑を頬に浮かべた。 呆然とする和田と中川を尻目に俺は魚谷に肩を貸し保健室に行った。 制服が汚れてしまった魚谷に俺の体操服を貸して、俺は汚れた制服を体操服を入れる袋に入れた。 持って帰って洗濯して返すと崩れた笑顔で言った。 タオルで濡れた体を拭く魚谷ははにかんだ笑顔を俺に見せてくれた。 その日の夜に急いで洗濯して乾燥機に入れた制服を魚谷の家まで届けた。 一緒に壊れてしまった眼鏡の修理費を封筒に入れて。 「これ」 「わざわざ持ってきてくれたのか」 「うん。俺が……汚したみたいなものだから……」 長く重い沈黙。 俺は酷く項垂れたまま。 「今まで……。今まで……ごめん」 魚谷は俺の手の中から制服を受け取ってくれた。 恐る恐る顔を上げると魚谷ははにかんだ微笑を浮かべていた。 翌日学校に行くと魚谷の登校を待って、和田と中川の所ではなく彼の席まで行った。 「なぁ、魚谷。お前がいつも読んでる本貸してくれないかな。俺、文学ってあんま読んだ事なくって。ほら、いっつもラノベくらいしか読まないから」 唖然と俺を見上げる魚谷。 しどろもどろに俺は魚谷にしゃべる。 正直何を言って良いか分からない。 和田と中川の視線が背中に痛いが俺は魚谷にしゃべり続けた。 窓から吹き込んでくる風が爽やかに教室を流れた。 やがて魚谷はくすりと笑った。 意外と綺麗な微笑みにどきりとした。 「僕も文学ばかり読んでるわけじゃない。というか圧倒的に漫画とラノベの方が多いぞ」 「マジでか」 「マジだ」 「どんなの読んでんだ。俺、ラノベならハルヒがチョー好き」 「僕もハルヒは結構好きだな。でもそれよりゼロの使う魔の方が好きだ」 「ゼロの使い魔か。どんな話だ」 意外と魚谷と気が合う事に始めて気づいた。 中川と和田に気を使って女の子の話や猥談をしているよりずっと楽しい。 休憩時間も昼飯も俺は魚谷の側にいる。 魚谷に対する派手ないじめは影を潜めていた。 毎日が急激に充実し始めた。 いつも辛気臭くて息苦しくて冷や汗を掻きながら座っていた教室は初夏の香りに包まれている。 体育の時間、みんなと少し離れた場所で魚谷とペアを作って、運動おんち二人、苦笑いしながら授業を受ける。 昼休憩に一緒に学食に行ったり教室でお弁当を食べながらラノベの話をする。 マイナーな小説を魚谷はいつも紹介してくれる。 二人向かい合って読む小説。 読書スピードの速い魚谷をからかってむくれられたり。 とても楽しい学校生活。 しばらく和田とも中川とも口を利いていない。 ある日、魚谷が珍しく風邪で学校を休んだ。 昼飯を食べる相手がいない俺は久々に和田と中川に話し掛けたが完全に無視をされてしまった。 慌てて他のクラスメートを見回す。 小さなグループは鉄壁のようだ。 体育の時間、一人ぽつんとしていた俺は結局先生とペアを組んだ。 いつの間にか孤立していた。 俺が最も恐れていた事態だ・・・。 放課後、下駄箱から靴を出して帰ろうとすると中川と和田から呼び止められた。 俺はきっと複雑な顔をしていたんだ。 引きずられるようにして教室に連れ戻された俺は二人から罵詈雑言を浴びせられ殴られて蹴られた。 ごむマリになった気分だった。 頭がぼんやりしていて何も考えたくない。 寂しい公園で一人ブランコに揺れる。 これは魚谷が見ていた光景だ。 たった一人で見続ける事を強制された光景だ。 俺は声を押し殺して泣いた。 翌日、朝早くに家を出た。 スズメが数羽電線の上でおはようとさえずっている。 朝露の香りが鼻腔の粘膜に絡み付く。 走って魚谷を家まで迎えに行った。 魚谷は今日も休みだ。 憂鬱な一日が始まろうとしている。 とぼとぼと学校に足を向ける。 歩く両足は心もとない。 締め付けられるような時間割。 魚谷は三日後に学校に来た。 俺は途端に元気になる。 魚谷と過ごす何気ない日常が楽しくて仕方がない。 いや、きっと独りぼっちにされてしまう事の恐怖感がまだ残っているんだ。 一人になってしまうとまた中川や和田から罵倒されて殴られて蹴られて嫌がらせをされる。 便器に頭を突っ込まれて水を流されるかもしれない、魚谷がそうされたように。 俺は咽喉を萎縮させて掠れた声で魚谷から貸してもらった小説の感想を彼に伝えていた。 放課後、魚谷に話があると後援に連れて行かれた。 一緒に自販機で売ってるアイスを買った。 俺は抹茶モナカ、魚谷はオレンジシャーベット。 アイスが渇いた咽喉に浸透して冷たくて気持ちが良い。 甘い抹茶が口内に広がる。 夕方なのにまだ明るく、青い空を見上げればもう夏だなと思えた。 首筋に浮かぶ汗の玉がワイシャツを湿らす。 魚谷はアイスを無言でかじっている。 なかなか本題を切り出そうとしない。 アイスは溶け始める。 半分に、そして三分の一になっていく。 腹に落ちていく安っぽいアイスクリーム。 剥き出しのアイスの棒。 手に持つ部分に溶けるそれが伝い始めた時、ようやっと魚谷は口を開いた。 木の葉が暑くて青い夕暮れに囁いた。 唐突な話に俺は目を白黒させて聞き返した。 「留学?」 「そうだ。ずっとアメリカで勉強したいって思ってたんだ。僕は機械工学が好きだから。ロボットカーを作って大会に出たいんだ、仲間を集めて。でも日本だと出来ないから、ずっと行きたいって願ってた」 魚谷の横顔は真っ直ぐに純粋だった。 モナカを食べるのを忘れて魚谷の熾烈なまでに真っ直ぐに輝く黒い瞳に射竦められる。 「アメリカの名門って高校の時の内申書も見られるんだ。だから休みたくなかった。頑張りたいんだ。でも向こうの高校に留学出来るチャンスが巡って来たんだ。短大の大学編入コースに入学したいだから僕はアメリカに行く」 魚谷の目はどこまでも真摯だ。 長くて清涼でちょっと塩っ辛い沈黙が俺達の間に落ち込んだ。 長い長い沈黙の後に魚谷は一言ありがとうと俺に言った。 そしてみすぼらしいベンチから腰を上げて鞄を掴んだ。 和田と中川と……俺にやられた悪戯書きが薄っすらと残った鞄を。 モナカの中身は全部溶けて俺の手を汚している。 くすぐったい微笑み。 真っ直ぐで純粋な魚谷の瞳に映っている俺。 木の葉が囁いたんだ。 俺の唇に柔らかなものが触れている。 離れていく魚谷のはにかんだ顔。 唇に触れた柔らかいものが魚谷の唇だと理解する。 一気に赤面する。 魚谷は出口を見つけて全力で駆け出した。 アメリカになんか行くな。 俺はそれを声に出せなかった。 魚谷は公園の出口で振り返り、大声でメールするから!と叫んだ。 頬はまだ赤かった。 そして魚谷は本当にアメリカに旅立って行った。 渡米の日は夏休み一週間前だった。 両親をやっと説得出来たのだという。 秋に間に合いそうだと、サマースクールが楽しみだと嬉々としていた。 俺達は魚谷が出発するその日まで普段通りの生活を送っていた。 あの日、あの公園での出来事は俺も魚谷も話題にしなかった。 俺達の話題は極平凡な事で、小説だったりラノベだったり、時にはゲームや漫画の事ばかりだった。 夏の香りが色濃くなっていく教室ではにかんだように照れくさそうに微笑む魚谷を見るたびに胸が締め付けられた。 甘酸っぱいラズベリーを口に含んだ時のような気持ちだった。 魚谷がアメリカに行く日、俺は学校をずる休みして空港まで行こうとしたけど、親が送りに来るからと断られてしまった。 少しぎこちない魚谷の横顔が寂しげだった。 何度も何度もメールするからとか冬休みには帰ってくるとか硬く約束しあいながら。 ああ、俺達は親友になれたんだなと漠然と思った。 魚谷も同じ気持ちでいてくれると嬉しい。 それから夏休みまでの一週間俺は色濃くなっていく夏を見詰めて毎日を過ごしていた。 といっても考査の勉強に追われてそれどころじゃなかったんだけど。 試験が終わって一学期の成績は散々だった。 魚谷を見習ってまじめに勉強しなきゃなと苦笑いをした。 夏休み中、サマースクールで忙しいにも関わらず魚谷はこまめにメールを送ってくれた。 一日の始まりに届く長いメールには魚谷がその日に体験した事がびっしりと書かれていた。 文章を書くのが苦手な俺はどう頑張っても魚谷のメールの半分しか書けない。 俺のメールは昨日一日の出来事。 空に輝く太陽を見ながら今頃魚谷は寝ているのだろうと考える。 夏休みが終わって学校に行く。 クラスメイトの談笑で教室は満たされている。 そこには遠く離れてしまった中川と和田の姿もある。 魚谷が転校していった教室はがらんどうで俺はぽつんと一人ぼっち。 どこかよそよそしい教室。 ぼんやりとした暑さに余計居心地が悪くなる。 鞄を開けて教科書の間に挟まっている本を取り出す。 ページをめくる音がやたらと耳障りだ。 自然と冷や汗が出てきて物語に集中出来なくなっていく。 心臓が百メートル走った後のようにばくばく言っている。 恐怖はここに沈んでいる。 独りぼっちになる恐怖。 それに押し潰され俺は魚谷をいじめる側に回ったのではなかったのか。 それが何故魚谷を庇ったのだ。 魚谷一人、いてもいなくても同じクラスメートだ。 自分の事を最優先にするべきではなかったのか。 そうだ、俺はいじめられたくなかったんだ。 惨めさを誰かに肩代わりさせる事で救われようとしていたんだ。 この小さな、本当に小さな教室という箱の中で。 けれど、それは結局救いではなかった。 俺はいつもびくびくしていじめっ子達に媚びへつらって、惨めさを自分でより強調していたんだ。 チャイムが鳴る前。 和田と中川が近寄ってくる。 少しだけほっとして胸を撫で下ろした。 和田と中川はお互いに顔を見合わせてにやにやしている。 刹那俺の顔に濡れた雑巾が投げ付けられた。 突然の事にびっくりする。 と同時に俺は机を突き飛ばして走り出した。 椅子が床にぶつかる音が耳に飛び込んだ。 廊下に飛び出す。 危ねえなという怒声に心臓が縮こまる。 滑りやすい廊下を必死に走る。 女子がくすくすと俺を指して笑っている。 走って逃げても和田に捕まってしまう。 連れて行かれるのは俺達三人が魚谷をいじめていたトイレ。 使用する者があまりいないトイレは汚くて臭い。 俺の顔に大便の臭いがする雑巾が押し付けられる。 それは口に押し込まれる。 和田と中川はけたたましく笑いながら俺をなじる。 これが魚谷がずっと一人で見ていた光景だ。 あの時は魚谷が哀れだと思った。 けれど哀れなのは俺達をいじめているこいつらだ。 蛙は熱い湯に入れると慌てて飛び出す。 けれど最初に蛙を冷たい水に入れてゆっくりと、ゆっくりと水を温めていけば蛙はそれが熱湯になった事に気づかずに茹で上がって死んでしまうんだ。 ああ、俺は蛙だったんだ。 気づく事さえ忘れていた。 散々悪態と暴力にさらされた放課後。 体操服姿で濡れた制服を体操袋に押し込んでとぼとぼと海沿いの道を歩く。 魚谷がいじめられていれば俺はこんなに惨めな思いをしなくて済んだはずだ。 どうせ魚谷はすぐにアメリカに行ったのだ。 俺が関わる必要はなかった。 関わらなければ和田とも中川ともトモダチでいられたはずだ。 そしたら魚谷の代わりのいじめのターゲットは俺じゃない別の誰かだったんだ。 後悔しているのか、俺は? 魚谷と友達になった事を。 「いや、俺は後悔しない」 魚谷と親友になれた事を。 沈んでいた恐怖は明日への希望になりつつある。 いや、それはもう打ち砕かれ明日を作る道になっているんだ。 俺が一人で歩んでいく道だ。 そっと頬に触れた。 まだ熱はしっかりとここに残っている。 あの海の向こうに魚谷がいるんだ。 俺は海に向かって走った。 夏が終わりかけた海面がきらきらと夕焼けを反射して空を映している。 俺は立ち止まって息を整える。 大きく深呼吸をした。 両手を大きく振り上げる。 なあ、魚谷。 俺はお前と友達になれて良かったよ。 俺も頑張って俺の未来を見つけるから。 お前もお前の未来に向かって頑張ってるんだよな。 一緒に頑張らせてくれよ、一番の親友なんだから。 「WE CAN FLY!」 俺は海の向こうへと大声を張り上げた。
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