「うわ、超きもいし。」 和田があからさまな声を出した。 こっち見たぜ、きめぇんだよ、と中川が便乗した。 チャイムがスピーカーから鳴り響く。 ホームルームが始まる少し前になる予鈴。 教室内のざわめきが一層大きくなった。 温かな風に波打った夏草が香る。 半分開かれた窓にカーテンが白く波打っている。 和田と中川の視線が俺に突き刺さる。 ねっとりとした蛞蝓が体中をゆっくり這っているようだ。 水筒の水を飲んだばかりだというのに咽喉が渇いた。 握り締めようとする掌が湿っている。俺は口を開く。 「本当だよ。最っ悪。ゴキブリと目ぇ会っちゃったし。」 「何見てんだよ、てめー。」 「こっち見んじゃねぇよ。」 和田と中川の声が重なった。 鼓膜がじんじんする。 魚谷が黒いフレームが印象的な眼が目のレンズの下から瞬かない強い目でこちらを見ている。 机の上を真っ直ぐに突き抜ける視線が俺のそれと複雑に絡み合った。 俺は目を伏せる。 和田と中川は相変わらずはやし立てている。 魚谷の足元には体育館履き。 靴やバレエシューズを下駄箱に入れない方が良いのにまた入れていたんだ。 魚谷のバレエシューズは中庭の池の中。 昨日の放課後和田と中川と俺で捨てた。 多分、今日の放課後には学校に履いて来た魚谷の靴は下駄箱からなくなっているだろう。 魚谷の視線が自身の机に向かう。 机の上には落書き。 死ね、なんて可愛い落書きだと思う。 流石に教科書やノートは置いておかないらしい。 何度も破られたり落書されたりして学習したんだ。 けれど移動教室や体育の時間の時にまた破られて落書されるに決まっている。 「水流も最悪だよなぁ。ゴキブリの隣の席になるなんてぇ。」 魚谷がちらとこちらを見た。 眼鏡の下で理知的な双眼が憐憫の色を称えた。 一瞬の蔑み。 魚谷は落書きだらけの席に座る。 俺の席は魚谷の隣。 別に俺はどうって事ない。 けれど。 「次の席変えまで俺どうすれば良いかな。」 「頑張れ。」 溜息を吐きつつ和田が俺の肩をぽんぽんと叩いた。 えーと不服そうに声を上げれば中川が俺の首に腕を絡め、頭をぐりぐりとした。 頑張るしかないぞと魚谷に聞える大きな声で言われた。 ホームルームまでまだ時間がある。 魚谷は平然と席に座り文庫本を取り出して読んでいる。 それを見た和田の唇がへの字に曲がった。 鞄の中をごそごそとする。 何をするのかと見ていれば和田は殺虫剤を取り出し足音荒く魚谷に接近した。 そしてそれを魚谷に向かって吹き掛けた。 つんと鼻を突く刺激臭が粘膜を傷つける。 魚谷は顔を両手で庇い背を丸める。 きつく瞑った瞼。 生理的な涙が浮かんでいる。 和田は魚谷の反応を見て大声で笑いなおもノズルを顔面に向けて発射する。 「ひぃっ!」 小さな悲鳴を上げて魚谷は廊下へと飛び出した。 クラスの何人かがはやし立てた。 「逃げたぜ!追え!」 「殺虫剤で殺したら洗剤で消毒しなきゃ!汚ねぇからな!」 「追い詰めて殺しちゃえ!」 俺は思ってもいない事を口にし和田と中川の後に続いた。 廊下で雑談していた他のクラスメイトが俺達に注目する。 助けに入るものは誰一人としていない。 くすくすと嫌らしい含み笑いとはやし立てる声が響く。 トイレの前で魚谷の襟元を和田が掴んだ。 「待てこら!殺虫剤攻撃だぁ!」 魚谷は振り向き様に和田に殺虫剤を掛けられた。 目に涙を浮かべげほげほと咳き込む魚谷の顔面に執拗にノズルを突きつける。 少し前に見えなくなっていた中川がバケツを片手に戻って来た。 手洗い場に設置されている安っぽい石鹸の臭い。 緑の床に零れる水が泡立っている。 「汚物は消毒しねぇと!」 笑い声がけたたましい。 魚谷は洗剤まみれとなる。 俺も腹を抱えて指を刺して笑う。 通り掛った野次馬も笑っている。 髪や服の裾からぽたぽたと水が滴る。 石鹸が目に入ったのか魚谷は涙を流ししきりに眼鏡の下から目を擦っている。 「ぐちゃぐちゃだなぁ。可哀相に。」 廊下に出ていたクラスメイトだ。 魚谷に近寄り声を掛ける。 手に持っているものは・・・トイレ掃除用の雑巾だ。 魚谷の顔面が蒼白となる。 呆然と石鹸水の中にうずくまり見下ろしてくるクラスメイトや他のクラスの人間を見詰めている。 偶然通り掛る生徒達はこの異常な様子を無視してすぐに行ってしまう。 もうすぐチャイムが鳴る。 半分開けられた窓から香る夏草は石鹸の臭いに乱される。 雑巾が魚谷の顔面に押し付けられた。 眼鏡が落ち床とぶつかった。 クラスメイトの腕を掴み抵抗する。 その腕は中川に捕らえられた。 綺麗にしてやるっつってんだろ、人の親切は受け取るのが礼儀ってもんだろ。 その声には嫌らしい嘲笑が含まれているのだ。 臭い雑巾に魚谷の顔は余計にぐちゃぐちゃにされる。 けたたましく笑う彼らに俺も倣う。 自分のために。 自分がいじめゲームのターゲットにされないために。 大口を空けて止めてくれるよう懇願する魚谷のそこに雑巾が突っ込まれた。 嘔吐感を覚えているのだろう、うぇっという音を咽喉から出し必死に雑巾を押し出そうとする。 だが抵抗空しく病気になりそうなほど汚い雑巾は魚谷の口の中で絞られる。 「くっせー。消毒しても駄目じゃんか。ゴキブリはゴキブリだ。」 和田は魚谷を指差して笑った。 ホームルーム開始のチャイムが鳴る。 あ、と呟きクラスメイト達は慌しく教室に戻っていく。 手を洗わなきゃと言いつつも和田と中川も教室に向かって走り出した。 魚谷はぐちゃぐちゃに濡れ洗剤と異臭にまみれて座り込んでいる。 吐き出された雑巾。 唇に黒い繊維が付いている。 しきりに唾を吐き、口元を押さえる魚谷。 指先を落ち着かなくそわそわさせて俺は魚谷を見詰めている。 早くと和田に遠くから怒鳴られはっとした。 すぐ行くと俺は走り出した。 教室に戻ると担任がもう来ていた。 遅いと叱られながら、俺達は席に付く。 隣に魚谷の姿はない。 魚谷がいないまま一時間目が始まり、終わった。 短い休憩時間。 魚谷はまだ戻って来ない。 俺は和田に命令され魚谷の体操服をトイレに捨てに行く。 体操服を捨てられた魚谷はどうするつもりだろう。 濡れた制服のまま。 捨てに行く途中の廊下。 人気の少ない男子トイレ。 その前の手洗い場。 魚谷がいた。 しきりに顔と髪を洗っている。 どきりとする。 鼓動が早くなる。 足がすくんで動かない。 捨ててくるはずの体操服を抱き締めて魚谷を凝視している。 窓の外に植えられている木が枝葉を揺らして囁いた。 魚谷が俺と俺が抱き締める体操服に気づく。 開けられた蛇口から勢い良く流れる水道水。 魚谷が俺につかつかと歩み寄ってくる。 逃げ出したいのに逃げられない。 「一人じゃ何も出来ないくせに。」 魚谷の視線が俺の眼窩をすり抜け頭蓋骨の裏側を抉った。 そして魚谷は濡れた制服のまま行ってしまった。 俺は体操服をその場に投げ捨て魚谷とは逆方向に走り出した。 仕方がないだろう。 俺はお前と同類なんだよ。 人の顔色を伺って、強い人間につかなきゃいじめられるんだ。 お前みたいな目には遭いたくないんだ。 ああ、俺は何て酷い人間なんだろう。 三時間目に魚谷は体操服に着替え教室に戻って来た。 休憩時間にちゃんと捨てて来たのかと問い詰められたが言い訳をして切り抜けた。 和田と中川は胡散臭そうに納得してくれた。 俺は胸を撫で下ろす。 四時間目が終わるチャイムが鳴った。 「うわっ!」 昼休み。 和田と中川と昨日のテレビ番組の話をしながら母親が作ってくれた弁当を食べている時。 魚谷の掠れた悲鳴にそちらを見る。 一つぽつんと教室の隅に置かれた魚谷の机の上。 弁当箱が乗っている。 その中には異臭を放つ生ごみ。 中川が和田と俺をにやにやしながら交互に見た。 俺は首を伸ばして教室に備え付けられているごみ箱を見る。 多分、いや確実に魚谷の弁当の中身と思われる食べ物が無造作に捨てられていた。 中川はかじっていたパンを机の上に置き席を立った。 唖然と生ごみを見詰める魚谷へと近づく。 和田と俺も中川に続く。 机の横に立つとより一層生ごみの臭いが鼻に付いた。 糞尿の臭いだ。 俺は眉をしかめる。 「美味そうな弁当だなぁ、ゴキブリ。」 魚谷は沈黙したまま中川へと鋭い視線を送った。 中川が眉をしかめ舌打ちをした。 そのまま魚谷が座る椅子を蹴る。 椅子が悲鳴を上げた。 床に転がった魚谷は肩を強かにぶつけたようでそこを押さえ呻いている。 中川は無言で魚谷の脇腹を爪先で蹴った。 隣の机に魚谷はぶつかった。 並べられていた机が列から乱れる。 離れて食べていたその席の女子が中川にきつい口調で文句を言った。 中川は片手を顔の前に持っていきへらっとその女子に謝った。 直後、上半身を起こした魚谷の髪を無造作に引っつかんだ。 女子の目が好奇心に充ちる。 逃げようとする魚谷を中川は押さえつけ俺に机の上の生ごみを取るようきつい口調で言った。 「ゴキブリー、弁当だよ。」 俺はわざとらしく粘液質に声を出し魚谷の目の前に生ごみを突きつけた。 魚谷は顔を背け奥歯を噛み締める。 中川は俺にも魚谷を押さえつけるよう命令した。 中川と一緒に魚谷を押さえつける。 生ごみ弁当は和田に渡した。 和田はにやにやと笑っている。 中川が無理矢理に魚谷の口をこじ開けた。 「ゴキブリにゃ人間様の食いもんは勿体ねぇんだよ。大人しく生ごみ食ってろや。」 俺も中川を手伝う。 魚谷の口に生ごみが押し込められる。 吐き出そうと舌が抵抗しているが和田の手の力の方が強い。 酷い糞尿の臭いだ。 弁当を食べ掛けなのに食欲が落ちる。 「おら!食えよ!」 生ごみは魚谷の口に詰め込まれている。 好奇の視線が俺達に集中している。 「飲み込め!飲み込めってんだよ!」 クラスメイトは誰も助けない。 誰も止めない。 それが日常の光景。 全員が魚谷を無視し楽しそうにしゃべりながら昼食を取っている。 昨日の深イイ話みたぁ?見たよー。隣のクラスの里美が可愛くってさぁ、どうしたらイイかなぁ。告っちまえよ。今朝彼氏が酷くってー。俺の彼女が弁当作ってくれてさぁ、いやぁまいっちまうよ。 クラスメイトのおしゃべりがやたらと耳障りだ。 魚谷の悲鳴が俺の鼓膜を圧迫する。 鼓動はいつまでも激しく脈打っていた。 一人じゃ何も出来ないくせに。 魚谷の台詞が俺の鼓膜の中で木霊する。 そうだよ、俺は一人じゃ何も出来ないんだ。 薄いごむ膜みたいな皮膚が張った貧弱な両腕を眺める。 同級生と比べると見劣りする体躯。 低い身長とひょろひょろの体。 俺だって弱者なんだ。 和田も中川も逆らわなければトモダチとしてやっていける。 そうだ、『トモダチ』だ。 いじめの標的になりたくないんだ。 同じような弱者を見つけてそいつをスケープゴートに。 そしたら俺はいじめられない。 誰だって殴られたり罵声を浴びせられたり悪口言われたり金を取られたりしたくはない。 俺は上手く立ち回っただけ。 これは弱者同士の椅子取りゲーム。 最後まで椅子に座れなかったお前が悪いんだ、魚谷。 俺は机に突っ伏する。 だってしょうがないだろ、俺だって弱いんだよ。 声に出せば馬鹿みたいに響いた。
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