三年前に姉貴が狂った。鳥のような奇声を上げたかと思うと、真っ裸のまま近所を走り回って、公園の鳩を生で食った。口から大量の鳩羽をはみ出させた姉貴は、当然の如くまともな思考回路は持っておらず、その日から人の言葉すら話せなくなった。今では近所迷惑この上ないことに、朝六時に鴇の声まであげて、まるで雌鶏気取りだ。
そんな我が家は当然近所からは腫れ物扱いで、弟の俺も当然のように可哀想な子として見られている。今では、俺達兄弟に話し掛けてくれるのは、お隣の文人さんだけだ。文人さんは姉貴の幼馴染で、柔和な表情が印象的な文人さんは、俺達兄弟にとても優しい。だけど、俺は文人さんが余り好きではない。何故なら、姉貴の狂った原因の一つは文人さんで、しかも文人さんは俺の事が好きだからだ。何を言ってるか解らないかもしれないけど、つまりはそういう事だ。
姉貴は生まれてこの方二十年間、馬鹿みたいに純粋に文人さんに片思いし続けていた。文人さんもおそらく姉貴の気持ちには気付いていたし、いつか遠くない未来にこの二人は付き合うんだとばかり思っていた。それなのに、三年前文人さんは姉貴をふった。文人さんのことだから、きっと優しい言葉でふろうと努力したとは思う。だけど、迷った挙句言った言葉は最低だった。
『七生君が好きなんだ』
なんて、馬鹿じゃねぇか言うなよ馬鹿阿呆間抜け糞野郎が。
深夜、姉貴の張り手で起された。容赦なく頬を引っ叩かれて、腹の上に馬乗りになった姉貴の泣き顔が見えた。闇の中、憎悪を孕んだ目がギラリと隠微に輝いていた。姉貴が俺の胸倉を掴んで、ガクガクと前後に揺さ振った。明瞭さを持たないその声は、殆ど呻き声のようだった。そうして、その顔に俺は震えた。恐ろしかったんじゃない。俺は欲情していた。
俺は姉貴に惚れていた。生まれてこの方十七年間、姉貴が好きで堪らなかった。絶望的な片思いと、近親相姦というタブーに、頭が可笑しくなりそうなのに、それでも想うことを止められなかった。
その頃は、俺は文人さんを人間として好きだったし、文人さんなら姉貴と結婚しても良いなんて諦念混じりに考えていた。姉貴が嬉しそうに文人さんのことを話す度に、仕方ないななんて思っていた。それなのに、文人さんは姉貴ではなく俺が好きだと言う。俺がずっと好きだったと言う。
腹の上に跨った姉貴が「何でよ、何で」と、ぐちゃぐちゃな声で言うのを聞いて、俺は頭の隅で『チャンスだ』と囁く自分の声を聞いた。
「俺は文人さんより姉貴の方が好きだよ」
猫撫で声な自分の声を聞いた。夜に紛れるような仄暗い囁きだった。そのまま、姉貴を犯した。姉貴の膣に突っ込んで、吐き出して、姉貴が俺の子供を孕めば良いと思った。姉貴の悲鳴が心地良かった。
次の朝、起きたら、姉貴が俺の首を絞めていた。この細い指先に殺されるのかと思うと、酷く気分が良くなった。絶望的な片思い、近親相姦のタブー、こういう結末も悪くない。それなのに、俺の息が止まる前に、姉貴の身体が払い除けられた。文人さんが俺を掻き抱いて、姉貴を睨み付けていた。
「死ぬなら独りで死ね!」
文人さんは残酷だ。俺よりも、ずっと残酷に、姉貴を傷付けた。途端姉貴は裸のまま奇声をあげて走り出した。外に飛び出して、公園の鳩を食った。
部屋に取り残された俺は文人さんに犯された。文人さんは遠慮がちながら有無を言わぬ声と手付きで、俺を喰らい尽くした。俺に突っ込んだまま、文人さんは「七生君は紗枝を抱いたんだね」と涙を流した。そうして、俺の身体を前後に揺さ振りながら「好きだ好きだ」と譫言のように繰り返して、また泣いた。泣くぐらいなら初めからしなきゃ良いんだ、と俺は吐き捨てた。
それが三年前の話。
今年で三歳になる子供が俺の腕に抱かれている。姉貴が産んだ子供だ。目を離すと、姉貴が首を絞めて殺そうとするので、一時も目が放せない。名前は鳥子、女の子だ。鳥のように自由に育って欲しいから、そう名付けた。
鳥子は、姉貴と文人さんの子供として育てている。その提案を申し出た時、文人さんは、にべもなくその提案を受け容れた。姉貴と文人さんは形式上は夫婦で、鳥子は文人さんの子供になっている。だけど、文人さんは鳥子を嫌っている。口には出さないけれども、俺には判る。文人さんは、俺と姉貴がセックスした証拠を嫌悪し、憎悪している。そうして、鳥子を俺と姉貴の絆とでも考えているようだ。馬鹿馬鹿しい。鳥子は俺の罪の証だ。鳥子を抱き締める度に、愛しさと哀しみが込み上げてくる。姉貴を犯した時には感じたこともなかった感情だ。この子の行く末を考えると、涙が溢れて止まらない。
鳥子は鳥頭だ。知的障害児とでも言うのだろうか、極端な知的発達の遅れが見られる。もしかしたら、人の言葉を喋ることは一生ないかもしれないと医者に言われた。鳥子が鳥頭になってしまったのが、近親相姦故なのかどうかは解らない。しかし、俺は時々思うのだ。姉貴が俺に復讐したのだと。このために姉貴は鳩を食ったのではないのかと。
泣くぐらいなら初めからしなきゃ良い。それなのに、今俺は泣いている。後悔と悲哀が全身を埋め尽くして、時々死にたいとさえ思う。だけど、死ねない。鳥子のために死ぬわけにはいかない。そうして、この家には、どんどん鬱屈が詰め込まれていく。姉貴は気が狂い、文人さんは俺だけを愛し、俺は死にたくても死ねない。誰もこの家から出られない。これが罰なのだろうか。この気が狂いそうな家から逃れられないことが。
時々、鳥子向かってこう言う。
「鳥子は自由だ。鳥のように自由に飛ぶんだ」
可哀想な鳥子。だけど、俺達のようになってはいけない。御前は不自由な世界に生まれてきたけれども、決して自由じゃないわけではない。だから、いつか、この気の狂った家から、俺達を残して飛び立って欲しい。それだけが俺の望みで、最後の祈りだ。
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