都心に近い大きなオフィス街。個性的なデザインのビルや、空にも届きそうにも思えるビルが林立している。そんな街の背の高いビルのひとつ、最上階に近いフロアに譲(ゆずる)が勤める社のオフィスがある。 譲は廊下と社長室の間に位置する小部屋にデスクを置き、若き社長の信頼厚い秘書として充実した毎日を送っている。その小部屋――社長秘書室の窓からはいつもなら手に届きそうな青い空が見えるが、今日は朝から雨が降り、鼠色の雲が見えるばかりだ。 今、譲の繊細な美貌は今日の空模様のように陰り、社長室へと続くドアを色素の薄い瞳が捉え続けている。 「鷹臣先輩……」 譲の男性にしては赤味を帯びた唇が、社長室の中の人物の名前を紡ぐ。 都築鷹臣(つづき たかおみ)。それが譲のボスだ。優秀な彼は大学在学中に親友の三上慎(みかみ しん)と、このサントスプロジェクトを立ち上げた。サントスプロジェクトはインターネット関連企業として急成長を遂げ、今では慎を先頭にさまざまなソフト開発にも取り組んでいる。 不意に社長室のドアが開いた。ドアを開けて出てくるのはオフィスには相応しくない装いの青年。譲がそこにいるのに気づいた風もなく、室内にいる鷹臣に甘い声で話しかける。 「これで借金は綺麗になる。助かったよ、都築さん」 青年は明るく笑い、ドアを乱暴に閉めた。そして譲に気づいて小さく頭を下げる。 彼がここに来るのは初めてではない。そして彼がここに来れば譲の大事なボスは仕事を中断して淫らな行為に耽るのだ。その間、譲は社長室から漏れ聞こえる喘ぎ声に悩まされる。 「ユウさん。お話があります。少々お時間をいただけますか?」 譲は思い切って青年――ユウに声をかけた。もう放ってはおけない。プライベートならともかく、オフィスにまで押しかけるユウを社長秘書としてこれ以上見逃すわけにはいかない。そして個人的にも見逃せない事がある。ユウは来るたびに鷹臣から金を引き出す。もちろんそれは鷹臣のポケットマネーだ。だが大学の先輩である鷹臣に憧れサントスプロジェクトへの入社を決めた譲には、ユウの行為が許せない。 今日こそははっきり言おう。譲はそう心に決め、鷹臣に休憩に出る旨を告げてユウと共にオフィスを後にした。 「で、話って?」 譲がユウを連れて行ったのは、サントスプロジェクトが入るビルから少し離れた所にある喫茶店だった。コーヒーを二つ頼むとすぐにユウの方から切り出した。 譲は薄い色素の瞳をユウに向ける。ユウは譲と同じく男としては華奢な部類だ。どちらかというと可愛い印象のする顔立ちをして、鷹臣はこんな風な青年が好きなのかと譲は落ち込む。自分はこんなに可愛くはない。 譲が鷹臣への思いに気づいたのはいつの事だったか。尊敬する先輩だとばかり思っていたのに、いつの間にか彼への気持ちがそれ以上のものになっている事に気づいてしまった。けれど同性の鷹臣に告白できるはずもなく、気づいたばかりの恋を諦めようとした時ユウが現れた。そして知ったのだ。それなりに遊んでいる鷹臣が、女性ばかりでなく男性も相手にする事を。 だからといって告白する気は起きなかった。譲は自分に自信がない。容姿端麗で頭が良くて行動的で、学生の身で始めた会社をここまで成長させた鷹臣に対し、譲は自分が相応しいとは思えないのだ。 自分が相応しいと思えないから、目の前のユウまで相応しくないと思うわけではない。ユウが鷹臣に金をせびらず仕事の邪魔もしなければ、譲はユウを鷹臣の恋人と認める事が出来たはずだ。 「私がこんな事を言うのはお門違いと思いますが……都築と別れてはいただけないでしょうか」 譲の言葉にユウは目を見開いた。そして譲の顔をまじまじと見つめた。 「うーん……。――まあ別に構わないけどさ」 今度は譲が目を見開いた。ユウにとって鷹臣は恋人であり金蔓のはずだ。こんなにあっさり了承するとは思ってもいなかった。 「あの……。都築の事をお好きではなかったんでしょうか」 正確には「都築と都築の金」と言いたかったのだが、さすがにそれは口にしない。 「都築さんの事は好きだよ。正直別れるのもイヤ」 ケロリとしてユウは笑う。そんなユウを譲には理解できない。 「でもさ、俺の存在は都築さんの為にならないし、仕事を邪魔してる自覚はあったしさ~」 自覚があった事に驚いた。自覚があるのに来ていた事にも。 「ユウさん、もしあなたがプライベートだけで都築とお付き合いされるというなら、私も別れろとは言いません。私が気になったのは、オフィスにまであなたが来られる事と……」 「お金を貰っている事、でしょ」 ――そこまでわかっていたのか。 ユウは自嘲気味に笑う。 「俺だってバカじゃないよ。都築さんに迷惑かけてる事くらいわかってる。でも都築さんだって悪いんじゃない? 俺に会社に来るなって別に言わないし、来たら来たで抱くし?」 ユウの言う通りだ。鷹臣にも否はある。 ユウの態度に譲は自分が余計な事を言ったのではないかと思った。しかも嫉妬ゆえにだ。 「俺、もう都築さんの所へは来ないよ。急に消えたら都築さんも驚くだろうから、メールくらいさせてもらうけどね」 「あの、いえ、ユウさん……」 「気にしなくていいよ。都築さんのお陰で借金がなくなったし、まあ潮時かなって思うしさ。やっぱ社長さんが仕事サボってエッチするのはまずいよね。社長さんには責任ってもんがあるじゃん」 ユウが金の事を口にするのは鷹臣と譲を気遣って自分を悪者にする為のように思えた。 譲はひどい罪悪感に襲われた。ユウが思っていたようなワルではなかったせいだろうか。 「じゃ、そういう事で。コーヒーはご馳走になっていい?」 「え? あ、はい、もちろん」 グルグルと考えているうちにユウはコーヒーを飲み終え席を立つ。そして譲にウィンクをひとつ投げつけて颯爽と去って行った。店から出る時にユウがポンッと開いた傘はスカイブルーで、何故か譲の記憶にその色が焼きついた。
翌朝。譲はもそもそとトーストを咀嚼していた。譲は寝起きがあまり良くない。朝は手軽なトーストとコーヒーになりがちだ。 譲の家族は日本にはいない。父は幼い頃に亡くなり、母は譲が中学生の頃に再婚した。再婚相手の男性はそこそこ金持ちで、再婚後は譲に金の不自由はさせた事がない。だが、全寮制の高校に入学させると母と実の娘とを連れて渡米してしまった。新しい父親に気に入られようと譲は努力したのだが、その努力は実を結ばなかったらしい。 「はあ……」 思わず溜息が出る。尊敬し、そして密かに恋情を抱いている鷹臣の男の恋人。その彼に自分は別れを強要した。 「どうしよう……」 出社して鷹臣の顔を見るのが怖い。ユウがもっと悪い奴だったら、鷹臣に怒鳴られても「これで良かったんです」と言い切れただろうに。 ろくに食事も出来ずに溜息をついていると、テーブルに載せていた携帯が鳴り出した。 相手を確認すると、慎からだった。 「おはようございます、野々宮です」 『やあ。久しぶり~』 慎は最近は企業向けの経理に関する新しいソフトを開発に携わっていて、同じ本社にありながら別の階のソフト開発室に詰めていたから譲とは顔をあわせていなかった。彼は本来ならソフト開発だけをしていたいのだが、鷹臣と一緒にサントスプロジェクトを立ち上げただけに、副社長としての責務も負っている。 『ノノ、今日の夕飯、一緒に行かないか?』 鷹臣と慎は、譲を「ノノ」と呼ぶ。義父の名字で当初は馴染みがなかったのだが、彼らがそう呼び始めて譲も野々宮という名に慣れたのかもしれない。 「開発の方、終わったんですか?」 『ああ。後は営業の連中に任せる。しばらくまともに食べてなかったから、食事に行きたいんだけどね。まずはこれから少し寝て、それから無精ひげを剃って、ぼっさぼっさの頭をカットしに行く。だから会えるのは夕食時なんだけどね』 普段慎はいつも身綺麗にしているが、開発に取り組むと身の回りを構わなくなる。だから仕事が終わるとまず体を休め、それから元の優男系美男の自分を取り戻す。 鷹臣と慎の共通点は優れた容姿と明晰な頭脳と行動力だ。加えて二人とも実家が裕福で、あわよくば玉の輿に乗ろうとする女性がいつも群がっている。 「スケジュールに変更が生じなければおつきあいできます」 『そうか、良かった。ノノの綺麗な顔を見ないと元気が回復しなくてね。』 「僕も三上先輩の顔を見たら元気になります」 そう応えると少し慎が言葉に詰まったようだった。 「先輩?」 『ああ、いや、俺の事はまだ三上先輩なんだなあって思って。鷹臣の事は名前で呼ぶのにさ』 それは仕方がない事だ。譲にとってツヅキ先輩は二人いた。三人が所属していた大学の剣道サークルに続木という先輩がいたのだ。続木の方が年長だったので、若い方のツヅキ先輩を名前で呼ぶ事になり、その習慣が抜けずにここまで来ているだけだ。 『ねえ、慎先輩って呼んでよ。なんか親密度が俺と鷹臣とで違うみたいなんだもん。疎外感を感じちゃうじゃん』 甘えた声を出す慎に譲は思わず笑う。さっきまでの鬱々とした気分が少しだけ晴れた。 「じゃあ――慎先輩」 『そうそう。それでいい。今日は俺は休みなんだ。ノノが終わる頃に迎えに行くから』 「はい、わかりました」
「ノノ」 デスクに座ってメールの確認をしていると、社長室から鷹臣が顔を覗かせた。 就業時間中でも他の社員がいないと鷹臣も慎も譲を愛称で呼ぶ。それが特別なような気がして嬉しい。 「ノノ、慎と夕飯の約束をしているんだろう? 今日は残業するなよ」 「え……でも……」 夕方、鷹臣には取引先との約束が入っている。先方が帰るまで待っていたら定時には上がれないはずだ。 鷹臣は社長室から出て来て、スッと譲の頬に手を伸ばした。 「顔色が良くない。慎に美味い物を食べさせてもらえ。俺の方は大丈夫だ。お前がいないと困るが少しくらいなら他の秘書で用は足りる。明日と明後日は休みだしゆっくり休むんだぞ」 大学時代から鷹臣と慎は譲の体調が悪いとすぐに見抜いて、こんな風に休ませようとする。しかし今の譲は体調が悪いとは思っていない。ただ、ユウの事が気にかかって昨夜は眠れなかっただけだ。それに鷹臣とユウを引き裂く真似をしておいて、心配されるのも申し訳ない。だから仕事はきっちりこなしてから慎との夕食に向かうと訴えたのだが。 「だめだ。顔色が悪いし、お前はそんなに体が丈夫じゃないだろう?」 「それは、社長や副社長に比べたらひ弱ですけれど、病弱なわけじゃないです」 「ノノ」 鷹臣が溜息をつく。思わず譲は首を竦めた。 「ご、ごめんなさい……。僕は、先輩の役に立つ人間でいたいんです……」 つい、秘書の顔が崩れてしまう。そんな譲に鷹臣は苦笑する。 「役に立ってるさ。だからこそ、寝込まれる前に手を打っている。それに、ずっと開発室に詰めていた慎に人間の食事をさせるのも仕事だろう? あいつ、お前が一緒じゃなかったら飲みに行っちまうぞ。だから定時で帰れ。本当ならさっさと帰れって言いたいが、お前が嫌がるのがわかってるから定時でって事にしてるんだ」 鷹臣の優しい気持ちが疚しい事がある今の譲には痛い。そしてこんな時の鷹臣が頑固なものわかっている。 「わかりました。じゃあ、今日はお先に失礼しますので……」 「そうしろ。月曜からはこき使うからな」 鷹臣は、譲の頭をポンポンと軽く叩き、社長室に戻って行った。
譲が慎と合流したのは終業時間の15分後だった。慎の車に乗り込みシートベルトをする。 慎の顔からは無精ひげは綺麗になくなっている。少しウェーブがかった髪も綺麗に切り揃えられていて、いつもの男前ぶりを見せている。 「夕食には早くないですか?」 まだ5時過ぎだ。けれど慎は「腹ペコなんだと」訴える。 「家で仮眠して、それからむさ苦しいのをなんとかして。その間に菓子パンを齧っただけなんだ。ノノはどう? まだ食事は入らない?」 正直昨日の夕食からまともに食べられていない。今も食欲はない。けれど空きっ腹の慎にお預けもできない。 「大丈夫です。食事に行きましょう」 慎は「悪いね」と苦笑して車を発進させた。そしてすぐに訊いてくる。 「ノノ。なんか、心配事でもあるのかな?」 「え……?」 鷹臣も慎もどうしてこう鋭いのだろうか。考えてみれば、自分は二人に隠し事が出来た試しがない。 「鷹臣がなんかした?」 ギクリと体が揺れた。 「したんだ?」 前を向いたまま、気配だけで察したのか。慎の形の良い眉が少し真ん中に集まっている。 「社長じゃないです。……その、僕が、私が余計な事を……」 しどろもどろになると、前を向いたままの慎に頭を軽く小突かれた。 「仕事中じゃないでしょ。気を楽にして、お兄さんに白状してごらんなさいな」 意識して慎は軽く言ってくれる。 「あー、でも先に食事にしようか。ノノも顔色良くないし、俺も飢え死にしそうだからね」 慎は優しい。移動と、食事の間に話したい事をまとめる時間をくれたのだ。 譲は小さな声で、ハイ、と答えた。
連れて来られたのは大学時代からよく利用する洋食屋だった。ウェイターは二人を個室へと案内してくれる。そこは完全に他の部屋とは区切られているから、込み入った話をするにはもってこいの場所だ。他の客の目も気にしなくていいし、ゆっくりしたい時に鷹臣と慎はこの個室を予約する。今日も慎が予約していたのだろう。 食事は美味しく。そう慎が言い、食事中は何も聞かれなかった。ただ、あれも食べろ、これも食べろ、と料理を勧められただけだった。 昨夜からほとんど食事をしていなかった譲だが、未だ食欲がなかった。しかし慎が無理のない程度に勧めてくれて、気がつけば普段の量を食べていた。 「さて、聞こうか」 食後に出されたコーヒーを半分程飲んでカップをソーサーに戻した慎に促された。譲は与えられた猶予期間にどういうか考えていた事をポツリポツリと話した。 譲の話を聞き終えた慎は、冷めてしまったコーヒーを一口飲んで溜息をついた。譲はいたたまれなくなって俯く。 「ほんっと、君は鷹臣が好きだねえ……」 思ってもみなかった事を言われて心臓が止まるかと思った。鷹臣への恋心は自分だって自覚するまで時間がかかった。そして気づいてからはひた隠しにしたのに。 慎が同性同士の恋愛に寛容なのは気づいていたが、自分の気持ちはしっかり隠していたつもりだった。それなのに看破されていたのか。激しい動揺に譲は青ざめて肩を震わせた。 そんな譲に慎が苦笑して、ゆるくウェーブがかかった前髪をヤレヤレとかき上げた。 「側にいたらわかるって。鷹臣が気づかない方が不思議なんだけどね、俺は。――それにしてもオフィスでメイクラブって。馬鹿じゃないの?」 鷹臣への気持ちを知られていた事に対する衝撃は未だ去らないけれど、鷹臣とユウの行為を慎が批難してくれて、ちょっとホッとする。自分がオフィスでの情事に対して不快感を持った事に関しては堂々としていればいいという事だ。 「でも、別れてくれって言ったのは言い過ぎでした。人の恋路を邪魔する権利は僕にはないのに……」 悔いるべき所はそこだ。仕事の邪魔をされていたのは事実でも、別れろと言ったのは嫉妬によるところが大きいだろう。 「まあ、ユウにじゃなくて鷹臣に言うべきだったとは思うけどね」 慎が、手を伸ばして譲の頭をくしゃくしゃとかき回す。慰めてくれているのがわかって、つい、涙ぐんでしまう。 「ユウの件は大丈夫だと思うよ」 「でも……」 「俺もユウの事は知っている。まさかオフィスでヤってるなんて事は知らなかったけど。ユウとは金絡みの関係のはずだ。恋愛関係じゃないと思うよ。ノノは心配しなくていい」 痛いくらいに頭をかき回される。朝、きちんとセットした髪がぐしゃぐしゃになり、前髪が落ちる。 「鷹臣と俺、どこがちがうのかなあ」 「……はい?」 涙目になっていたけれど、思わず顔を上げて慎を見つめてしまった。慎の言葉の意味がわからない。 「同じように君の事は可愛がってきたと思うけど、俺がただの先輩で、鷹臣が恋愛対象になったのはどうしてかなって。違いがあるから俺は恋愛対象じゃあないんだよね?」 そんな事は考えた事もなかった。気がつけば鷹臣の事を好きになっていたのだ。恋愛が絡まなければ、慎の事もかなり好きである。ちょっとした相談は、いつも鷹臣ではなく慎にしてきたくらいだ。 ――鷹臣先輩と、三上……慎先輩の違い……? 鷹臣はグイグイとみんなを引っ張っていく。強引で我を通す印象があるけれど、優しい面もある。黙っていると怖いけれど、捨て猫なんかがいたら放っておけず、飼い主を見つける所までするような人間だ。 慎はひとりでグイグイ引っ張るのではなく、みんなをまとめて事に当たるタイプだ。面倒見が良くて後輩などには慕われている。時には厳しい事も言うけれど、それは相手を想っての事だ。 そして共通点は、敵とみなした相手には容赦しない事。 ――違いはわかる。でも、恋愛の対象になるかならないかの違いって……? 考えた所でわからなかった。わかっているのは、二人とも自分には眩し過ぎる存在だということだ。 譲がグルグルしていると、慎がひっそりと笑っていた。鷹臣の事しか恋愛対象として見ていなかった譲に、自分も恋愛対象になりうる事を刷り込む事に成功した彼は、もう随分と前から可愛い後輩に惹かれていたのである。 「さ、食事もちゃんとしたし、帰ろうか。送るよ」 慎は席を立ち、まだ考え込んでいる譲の肩を叩いて促した。 「あ、先輩」 「ん?」 「あの、ありがとうございました」 強引に鷹臣からユウを引き離した事に関する罪悪感は消えたわけではないが、慎に話していくらかは気が楽になった。なんだかんだで食事もして、体が少し楽になった気もする。慎との時間は確実に譲に元気を与えた。 「元気、出た?」 「はい」 「そっか。食事に誘った時に、ノノの顔を見ないと元気が回復しないって言ったら、ノノも先輩の顔を見たら元気になりますって言っただろう? 元気を失くすような何かがあったのかなって、ちょっと心配だったんだよ。――ま、実際『何か』があったわけだけどね」 慎の言葉に今朝電話で食事に誘われた時の事を思い出す。ちょっと慎が言葉に詰まって……。鷹臣の事は名前で呼ぶのに自分は名字か、という話になったのはあの後だった。 譲に元気がない事を察して、敢えて突っ込まずに話題を変えたのだろう。慎がそうしていなかったら、今日、食事の誘いに応じられなかったかもしれない。仕事がひと段落した慎を労わりたかったのであって、こうして自分の悩みを聞いてもらうつもりなどなかったのだから。 「ほんとに、ありがとうございます」 譲は慎に向かって深く頭を下げた。
◆◆◆
慎と食事をした後、週末をゆっくり過ごした譲は顔色もすっかり良くなって月曜日を迎えた。 譲の顔色とは反対に空は暗い色をしている。昨日の夕方からまた雨になって、降ったりやんだりを繰り返していた。 「はー……」 社長室側の自分のデスクにつくと譲は深呼吸を繰り返す。やはり鷹臣に自分のした事を黙っておくわけにはいかないと、ユウに別れを迫った事を打ち明ける事にしたのだ。そして、出すぎた真似をした事を謝るのだ。 「怒るだろうな、先輩……」 「何を怒るって?」 「わあっ!」 グルグルしているうちに鷹臣が来ていたらしい。面白げに見下ろしている。 「おっ、おはようございます!」 「おはよう。週明け早々ノノのグルグルタイムか? 顔色は良さそうだな」 「グルグルタイム……」 考え込んでいると、よくグルグルしていると言われるが、変なタイトルをつけられたものだ。 鷹臣はスタスタと社長室へと入って行ってしまう。譲もその後について行く。朝は社長室でスケジュールの確認をするのが日課なのだ。 「今日は寝過ごして、新聞もニュースを見られなかった」 社長室に入ると鷹臣はすぐにリモコンを取り上げて、室内の応接セットのすぐ近くにあるテレビをつけた。ネットでもニュースなどは見られるが、鷹臣はこうしてテレビのニュースを見る事が多い。画面に集中しなくても、情報が耳から入ってくるからだ。今日もテレビをつけておいて、机上の書類をさっそく手にしている。 ニュースを聞きながら譲の話を聞き、書類にも目を通す。それでいて鷹臣はちゃんと全部頭に入っているのだから凄いと思う。 「ん?」 書類に目を落としていた鷹臣が、不意に意識をテレビ画面に向けた。気になるニュースがあったのだろう。釣られて譲も画面を見る。 朝のニュースの時間には遅い時間で、やっているのは番組と番組の間の5分ほどのニュースだ。全国ニュースの後の地方ニュース。何かの現場が映し出された。雨が降る中、スカイブルーの傘が転がっている。どうやらどこかのビルの屋上のようだ。 ――あの傘……見た記憶が……。 脳裏にパッと開いたスカイブルーの傘がフラッシュバックするかのように浮かぶ。 『……所持していた免許証から、亡くなったのは藤野祐樹さん22歳と判明しましたが遺書はなく、自殺か事件に巻き込まれたのか警察が捜査をしています』 それまでは聞こえてはいたが譲の頭の中で意味を成してはいなかったアナウンサーの声が、突然意味を成した。 ――綺麗な青い色をした傘。あれと同じ傘を持っていたユウさん。フジノユウ、キ……? 短い時間にいろいろと伝えるニュースだ。画面は既に別の映像に変わっている。けれど譲の目には、コンクリートの上に転がっていたスカイブルーの傘が焼きついている。傘は、主をなくしても降りかかる雨の雫を跳ね返していて――――。 だが、似た名前だからフジノユウキという転落した人が、あのユウとは限らない。そんな偶然があるとは思えない。青い傘だって、どこにでも存在する。 そう考えて本日のスケジュールの続きを伝えようとして、譲はテレビから鷹臣へと視線を戻した。しかし鷹臣はまだ画面を見つめている。ニュースが終わりCMになってようやく視線がテレビから離れた。 鷹臣の大きな手がリモコンのボタンを押してテレビを消す。 「ユウ……」 信じられないといった様子で鷹臣が呟いた。
藤野祐樹――ユウは、繁華街の雑居ビルの屋上から転落し、命を落とした。ニュースでわかったのはそれだけだ。 周囲には「両親は死んだ。兄弟はいない」と言っていたが、田舎に両親と兄がいたとわかったのは、天涯孤独のはずのユウの遺体を引き取ろうと鷹臣が警察に出向いたからだ。 そこにはニュースに出る前に警察から連絡を受けてやって来たユウの家族がいたのだ。 『自分は高校時代にゲイだと自覚した。 小さな田舎町でそれを隠して過ごし、高校卒業と同時に田舎を離れ、自由になった。 反動のようにいろいろな男と付き合い、田舎に帰らなくなった。 そうしているうちに家族は事故で亡くなってしまった』 本人はそう周囲には話していたらしい。 「ご両親の話はこうだ。『大学進学を期にこちらに来た息子が悪い遊びを覚えてしまった。 田舎に連れて帰ろうとしても言う事を聞かないので、音を上げて帰ってくるように送金をストップした。そうしたら、息子は大学を辞めてアパートも引き払って、行方不明になってしまった』」 譲は警察から戻って来た鷹臣の話を慎と共に聞いていた。その顔色は真っ白といって良いほど悪い。 「悪い遊び、ね。ご両親はユウがゲイだって知ってたのかな」 「そんな感じだな。ユウとはどういう関係だ、本当に友人なのかってしつこく訊かれた。普通だったら友人だって名乗っている男にそこまでしつこく訊かないだろう?」 「家族はユウの性癖を認められず、ユウは認めてくれない家族と縁を切ったって事か。だから家族はいないとユウは言っていたんだね」 慎も、ユウとは酒を一緒に飲んだりするつきあいはあったらしい。鷹臣が警察に行っている間も、ユウとは共通の飲み友達に連絡を取ったりして、ユウの情報を集めていた。慎は自殺か事故か事件か、それを知りたかったようだが、「自殺」と聞く度に譲は頭のてっぺんから血液が足のつま先に引いていくような感覚に陥っていた。 「それで警察はどうみてるの?」 「家族との確執もあるし、フラフラしていたユウが先行きを悲観して自殺したんじゃないかっていう線もあるらしいな。ただ遺書もないし、抱えていた借金もなくなった事を考えると別の線も考えられるそうだ。つまり何かの弾みで落ちた事故か、誰かに突き落とされた事件か。俺も自殺はないと思う」 ぷるり、と譲は身震いした。見知っている人の死はそれだけで辛いものがある。それが自殺だの事件だのとなると、もっと辛い。しかし譲が真っ青になって震えているのはそれ以上の理由があるからだ。 ――僕が……僕がユウさんを殺した……。 僕が、鷹臣先輩からユウさんを引き離したから、ユウさんは自殺したに違いない……。 「ノノ、真っ青だ。大丈夫かい?」 体が揺れだした譲を慎が支えてくれた。その慎に縋るような瞳を向ける。自分が招いた結果に胸が潰れそうになって、誰かに助けて欲しかった。 「鷹臣、ちょっとノノを連れて帰る」 おそらく慎は譲の心中を察しているのだろう。鷹臣に聞こえないくらいの声で、「君のせいじゃない」と囁いた。その言葉にプルプルと首を振る。 「大丈夫か、ノノ」 ガタガタと震えだした譲に鷹臣も心配気に声をかけてきた。いつものように譲の頭を撫でようとしたが、譲がその手を避ける。ユウと鷹臣への罪悪感から、無意識に体が逃げてしまったのだ。 鷹臣が驚いたように立ち竦む。譲は慎のジャケットの裾を掴んで震え、そんな譲を慎が抱きしめるように支えている。鷹臣には譲が自分を拒み、慎だけに頼り切って縋っているように見えただろう。 ぐらりと傾いだ譲を慎がさっと抱き上げた。 「お、おい、慎?」 「ノノが繊細なのは知ってるだろう? ユウとは面識もある。顔見知りが自然じゃない死を迎えて動揺してるんだよ。先日まで体調だって悪かったんだし。とにかく連れて帰るから」 慎はさっさと社長室を出た。譲はそのまま慎に抱きかかえられ、オフィスを後にした。
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