言葉は、交わしたことなんかない。 ただ、視線が会った時にだけ笑顔でほんの少し、会釈をして通り過ぎていくだけ。
どの階の住人なのかは知っている。 けれど、どの部屋なのかは分からない。
いつも、僕の一階上で停まるエレベーター。
ただ、何故だか毎朝、エントランスで毎日のように会うのだ。 それが、嬉しくて。
言葉は交わせなくてもいい。 そんなこと、望んでもいない。
ただ、笑顔で挨拶を交わす。 そんな朝が、とても愛しい。
どこの会社に勤めているのだろう、とか。 彼女は、奥さんはいるのだろうか、とか。
一足先に颯爽と去っていく後姿を見て、考えても僕にはどうしようもないことばかり、 脳裏を駆け巡る。
ただ、勝手に浮かんだ笑顔を誰も見ていないことを確かめて噛み殺す、いつもの朝。
そんな朝を、いくつもいくつも繰り返して。 ある日、彼の姿が見えなくなった。
やっぱり、と思う。 いつもいつも、優しい笑顔を残していくあの人に、誰もいないことの方がおかしいのだから。 きっと、結婚でもして引越して行ったのだろう。
相手も優しい女性だったらいいな、とか。 そんなことを、無理やり口の端を吊り上げながら。本当の感情を隠すように、思う。
この、ぽっかりと心に穴が開いたような、暗い気持ちを。 突然、熱くなった目蓋のことも。
全て、隠すように。
*** 「武村。悪いが、ここにあるリストの会社の集金、回ってきてもらえないか?」 営業に出かける直前に上司から手渡されたリスト。 それを見て笑顔で受け取るが、内心ではため息をつく。 人手が不足だとかで、無理やりあの営業所から本店に飛ばされた上に、やることといえば使えない上司の使い走りだ。 以前いた営業所は小さかったが、それなりにやりがいはあったし、何より住んでいた場所が居心地良かったのだ。 できるなら、戻りたかった。
手に持ったリストのうちの一社が、たまたま以前住んでいたマンションの傍だったことに気づく。 急に湧き起こった仄かな期待を持って、郵便受が並ぶエントランスへと立った。
「・・・・・・!」 名前。 それが、変わっている。
「嘘、だろう・・・・・・?」 見間違いようがない。 彼が住んでいたはずの部屋番号。そこに貼られた名字は、全く違う他人の者へと、変わっていた。
とてもとてもささやかな繋がりだとは分かっていた。 けれど、それ以上近づくことはできなくて。 その笑顔を、壊すことはしないようにと誓って。 けれど、彼に笑顔を向けられる度に、己の心の闇すら消えていくような、そんな感情すら覚えたのだ。
失ったのだ、と分かった。
ふらりと出て行くスーツ姿の男を見咎める者もいないまま、マンションの近くにある最後の会社へと足を向ける。 足を無理やり動かしながら、頭の中で今となってはどうしようもないことを思い続ける。
彼に、想いを伝えればよかった。 彼を怖がらせないように。そう、思っていたのが失敗だった。 どうせこうやって彼の姿を見失うのなら、想いを伝えてから消えれば良かったのだ。
虚しい笑いが零れた。 それは無意識なことで、気づいた瞬間に口元に手をあてる。
――もう一度笑えるようになったのは、彼のお蔭だったのに。 その彼を、見失ってしまったのだ。
*** 女の子たちが騒ぐ声に、もう定時が過ぎたのかと時計を見上げた。 思い切って会社を辞めて、引っ越して。 この方が、自分には似合っていたのかもしれない。 もともと、スーツだって似合っていなかったのだから。
「川崎君。これを、14番テーブルのお客様に。それにしても、さっきから女の子たちがうるさいな」 髭の似合うマスターに指示を出されて、笑顔で応じる。
そうですね、とも返すことができないまま、トレイを受け取った。
もともと、人と話すことすら苦手なのだ。 そんな自分が、会社勤めできていたのはあの彼のお蔭だったのだと思う。 ――彼を見ていると、優しい人間もいるのだと。 そう、思うことができたから。
笑うこと。 それは、自分の身を守るためだけのもので。
笑っていれば、全てが自分の上を通り過ぎていく。 例え、笑顔を相手から返してもらえなくても、それで良かったのに。
頭を軽く振って、仕事に集中する。 14番というと、窓際の一人掛けの席だ。
トレイを持って僕が近づいていくと、外で騒いでいた女の子たちがどこかへと消えていく。 もしかしたら、マスターでも見ていたのだろうか。 彼女たちの邪魔をしてしまったらしいことに苦笑いしながら、小さなテーブルに注文のコーヒーを置こうとするが、 寝ているのか突っ伏しているスーツ姿の男は起きる気配がない。
「――お客様?」 小さく声をかけてみるが、余程疲れているのか、頭を抱えているようにも見えるその人を、 完全に起こしていいのかどうか迷った。 ここは、客も店員もゆったりとした喫茶店だから、片隅でうたた寝しているようなお客さんもたまにいて。
「お客様、こちらに置きますよ」
今度は少し、大きめな声で。 窓際にカップを置いて踵を返したところで、突然腕を引かれた。 *** 「――え・・・・・・?」
構ってなんか、いられない。 ひどく驚いたような顔をして振り向いたその男。
今、手を離したら。 きっと、また見失ってしまうから。
ウェイター姿の、男にしては細いその腕を握り締めたまま、俺は口を開いた。
「会いたかったんだ」 まだ驚いたまま立ち尽くしている男を、引き寄せる。 他に客がいない夕方の喫茶店で、自分が何を言い出そうとしているのか自嘲しそうになるが、 今を逃がしたらきっと――・・・・・・。
「お久しぶりですね」 ニコリ、とあの綺麗な笑顔で返される。 この想いを伝えたら、彼の笑顔が消えてしまうのだろうか。 でも、この腕を放したら、二度と会うこともできなくなるかもしれないのだ。 後悔だけは、もうしたくない。
「ずっと、探していたんだ」 あれから、ずっとずっと。 思いつく限りの手を使って探したのに、名字と部屋番号しか知らない彼を見つけることはできなかった。
彼の笑顔が、再び驚きへと変わっていく。 それをまざまざと見せつけられて、またためらいそうになる己を叱る。
「・・・・・・なぜ?」 本当に、小さく。 そう問い返されて、息を飲み込む。
先ほどまで浮かんでいた彼の笑顔はすっかりと消えて、困惑したような、そんな表情に見えたから。 まるで、今にも泣きそうな。 そんな表情にすら、見える。
「軽蔑してもいい。こんなこと、言われたら困るだろうし気持ち悪いと思うんだろうっていうことも分かっている。 だけど、一言だけ言わせてくれ。――俺は、あんたのことが――・・・・・・」 その瞬間、突然外から大きな歓声が湧いた。 歓声のすぐ後に、うるさい音楽が響き渡る。
既に夕闇に包まれたこの薄暗い店内に、趣味の悪い色の羅列が窓から差し込んでくる。
タイミングの悪さに俺は思わず舌打ちを漏らして、ばつが悪いままゆっくりと男の腕から手を離した。 あまりにも、格好悪い。 離した手でそのまま、自分の前髪をぐしゃりと握りつぶした。 「・・・・・・今日、何とかって言うバンドの路上ライブがあるって、そういえば昼にきた女の子たちが言ってましたよ」 そのまま座り込もうとした俺の上着を、微かに掴む指。
「ライブ?」 座ることもできず、隣に立つ細身の男に視線を投げる。
その顔は、泣き笑いしているかのような。 嬉しいのか悲しいのか、分からない表情で。
俺が困惑したまま言葉を返すと、また小さく男が頷いた。
「僕も、あなたと話したいことが、あります。もし、――その、時間があったら。 付き合ってもらえますか?」 俺の上着を掴んだままの指へと視線を降ろすと、僅かに震えているのが見える。 期待しても、いいのだろうか。 彼が、自分と同じことを思ってくれているのかもしれないと。
「――勿論」 今度こそ、静かな場所で。
さっきの言葉の続きを、彼に言おう。
Fin.
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