「ほんと、最近疲れてんですよね……」
ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべながら、行為の途中に緩めたネクタイを締め直す男をぼんやり眺めた。 簡単に身支度を整えた男に対し、俺はといえば上はともかく、下着はぐっちゃぐちゃ。これは、もう穿いて帰れないというか、持ち帰りたくもない状態だった。
「……疲れてるんだったら、こんなことしてないで家に帰って寝ればいいだろうが」
人のことをなかば無理矢理、それも好き勝手ヤッておきながら、どんな言いぐさなのか。 俺はといえば、これからまだ仕事をしてからでなければ帰れないのでは……と嫌なことを思い出す。 今日は時間を過ぎても仕事が終わらなかったせいで、珍しく残業をしていたのだ。 すでに誰もいなくなった一室で黙々と仕事をしていたら、気配もなく近づいてきたこいつに肩をトントンとつつかれた。 驚いて見上げればそこには見慣れた男が妙に人好きする笑顔を浮かべながら、片方の手に持っていたコーヒーのカップを差し出してくる。 それを見て肩に入っていた力が少し抜ける。 笑顔で差し出されるそれを受け取りながら、一息を入れるかと、それまでのデータを上書きし何気ない会話を楽しんでいた。 そして、どうやらその間に、なぜか大事な書類ばかりが男の手によって片付けられていたらしいことに、先ほど、すべてが終わってから気がついた。 そのにこやかな表情に油断して忘れていた。
こいつがやたらとワガママな、けれど確かにズルい大人だということ。
「でも、疲れてるときほどヤリタくなりません?」
けらけらと何がおかしいのか声を出して笑う男を見ながら、どこか途方に暮れたような気持ちになった。
「お前、本当になんというか…………」
たちが悪い。
無邪気そうな表情の下でどれだけの計算が働いているのか。 営業のやり方から見ても、深入りしてはいけないことくらい簡単に予想がついていたはずなのに、いつの間にかこのザマだ。 商品そのものは他社のほうがいいが、営業はこの人がいい。 そんな人間の好き嫌いで一生の買い物をさせるくらい、人の心に入り込むのが得意な男。 何でもない日常の話と、男の営業中に起きたハプニング。 それをおもしろおかしく語ってくれるのに任せて笑っていたら、突然襲われた。 それがまた驚くほど簡単に組みしかれてしまい、両手はなぜか俺のネクタイで戒められていた。 おいおいいつの間に抜きとったんだという早業に、呆れるやら感心するやらで、思わず抵抗する手も緩んでしまったのかもしれない。 ここ最近、こんなに簡単に押さえ込まれた記憶はなかったというのにと唇を噛む。 一体、俺の何が悪かったんだろうか。 いくらなんでも、そうやすやすと押し倒されるのは、男であるプライドが許さない。
……たとえ、それが惚れた男だとしても、だ。
「とにかく、今後こういうことに応じるつもりはない。他をあたれ」
たいした見た目でもないくせに、何の因果かこの男には美人な彼女がいるという噂を聞いた。 その姿を見たものがいないではないらしいが、なぜか噂の域を出ないあたりを見ると、男自身が笑顔で真実をねじ伏せたとしか思えない。 そんなに大事にする相手がいて、きっと不自由をしている訳でもないのに、何を考えてこんなガリガリのオッサンになんか手を出そうと思ったのか。 ……酔狂なところのあるやつだから、多分それは好奇心に毛のはえた程度の気持ちだろう。 それでも、この関係には未練があるのか、「えぇ-! せっかく、可愛い川上さんがいっぱい見れるようになってきたのにぃ……」などと臆面もなくほざくのだから頭が痛い。 まるでなんでもないことのように最中のことを揶揄してくる男をギロリと睨みつける。 今日なんて、ほとんど無理矢理挿入してきたくせに、なにが「可愛い」だ。 この男のいう可愛いとは、この、男にしては華奢な体つきと、何度目かの行為から事の最中にうっかり漏れるようになった気持ち悪い声のことだろう。 すっぽり腕の中に収まりそうな、中学生みたいな骨格が好きなんですかねえ。 にっこり笑って言い放たれた言葉は、俺を馬鹿にしているのかと言い返したくなる内容だったが、俺はそれに口をつぐんだ。 果ては最中に声を出せと意地悪く笑われて、意地になって口を手で押さえ込んだら、とんでもない目にあった。 とにかく、男はそれらの何が気に入ったのか、俺が我を忘れだした頃、それまで以上に執拗にこの体を抱くようになった。 そして、俺はといえばそのせいでよけいに熱に馴染んでしまい、さらなる地獄を味わうハメに……。 押し込まれれば空気が喉を震わせる。 その音が嫌で、必死に飲み込もうとすればよけいに激しく攻めたてられるし、音を飲み込む気力もなくなってきた頃に、シーツに沈み込みながら自分の腕を噛んで我慢したらしたで、バレたときは、もう思い出したくもない格好で、とんでもないことを言わされた。 俺程度にでもそれだけ熱心な男の、本気の相手。 そんなものがいるんだったら、さっさと落ち着いてくれればいいのに。 中途半端にかまわれる今の状況がたまらなく苦しくて、夜な夜なこんなオッサンが涙で枕を濡らしているとは、さすがのこいつも思うまい。
「俺はな、お前みたいにむやみやたらとヤリタくなるような神経はしてないんでな」
はん、と鼻で笑ってやる。
こいつは憎めない男だ。 飄々としていて、妙に狡猾で、けれどこちらの母性や父性をくすぐるようななにかがある。 流されまいとガードする心の隙間を、いとも簡単についてきて、男自身はそれを得意げに自慢するような節もある。 なのに、憎めないなんて。 せめて、悪口の一つでも言ってやらなければ気がおさまらない。 俺を翻弄する手を、口を、男自身を、せめて憎々しげに語らせてほしい。 そして、誰も俺の本気になんて、一生気がつかなければいいんだ。
「まあ、お前も遊びは程々にしとけよ」
遊びなんだから、本気になんてさせるんじゃない。 本気になられてもかわすんだったら、最初から遊ぶんじゃない。 行き場のない思いに苦しむのにも、馬鹿みたいに枕を濡らすのも、俺は飽き飽きしてるんだ。
「まあ、川上さんが嫌なんだったら仕方ないですねえ」
「そうしてくれ。俺もさすがに遊んでばかりもいられないからな」
どうせ、にっこり俺を切り捨てるんだから、いい加減解放してくれ。 本気の滲んだ言葉を、こいつはひらりと交わすだろう。 酷い男だ。 その酷い男に本気になるなんて、俺は馬鹿を極めている。
「お前も、早く落ち着けばいいんだ」
傷つけられた俺のことすら、男の中にはなにも残さない。 いや、俺のことなどなに一つ、男の中には残させない。
――――俺からお前にしてやれることなんて、たぶん、きっと、それくらいだからな。
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