しんしんと雪が降る。
冷たく凍えた空気が窓から漏れ出してくるのにかまわず、百藍(びゃくらん)はじっと外の景色に見入っていた。
窓越しに除く中庭には、すでに色を失った景色が広がっている。 雪が積もるだけで世界のすべてが静かになった気がしてくるからふしきだ。
* * *
かなり長いことそうしていたかもしれない。
「百藍。」
急に後方から声をかけられ、思わず体が驚きで震えた。 指の先からぞわりと肌が粟立つ。・・・こいつに名前を呼ばれると、いつもそうだ。
一応不機嫌を装って振り返ると、視線の先・・・向かいの部屋で、足を崩してこちらを見つめる遠野と目が合った。
「なんだよ、遠野。」
「来いよ。」
一言命じられる。とりあえず逆らう理由もないので、百藍は身を起こして部屋へと移動する。
・・・百藍は、遠野には基本的にほとんど条件なしで従う。 なぜなら、遠野を守護することが、百藍の役目だから。
いまは人のなりをしているが、百藍の本性は狐神である。 遠野は百藍の主にあたる。
遠野神社の後継者たる遠野は、近年珍しく高い神力を持って生まれた。 強い神力を持つものは強いものを呼び寄せてしまうものらしい。 百藍もその例にもれず、遠野が幼いころに呼び出され、以降彼の使い魔のような形で現世で生活している。
とはいえ、日々やることが山積みというわけでもない。
遠野は跡取りではあるものの、父親がいまだ現役なので、いつもはサラリーマンをやっている。 さすがに百藍が付いていってもできることはないので、そういう日は一日中、遠野の父親である満の仕事を手伝うか、ゴロゴロするか、境内をふらつくかして時間を潰す。
百藍が部屋に踏み入る。 畳の薄い香りと遠野が纏う魔除けの香がふんわりと匂い立った。 次いで、ストーブの温かさが百藍の体を包み込む。
今日は一件、珍しく仕事が入ったので、百藍も久方ぶりの疲労を感じている。 戻ってきてからずっとこの状態で雪を見ていたから、かれこれ何時間かはぼんやりしていたのかもしれない。 さすがに体が冷えたので、遠野の部屋の温かさが身にしみて感じられる。
遠野は珍しく浅葱色の袴を身に着けている。 いわゆる宮司の仕事着だ。 卓に頬杖をついた状態で足を崩した様子は、いつものかっちりとした遠野の姿とは似つかない。 和装など着なれないからか、疲れてしまったのだろうか。 眼鏡の奥の遠野の瞳は、いかにも疲れた色を宿している。これも表情に感情が出にくい遠野にしては珍しいことだった。
遠野に目で座れ、と合図され、百藍は隣に用意された座布団に腰を下ろす。
「いや、疲れたなと思ってな。書いても書いても終わらん。いい加減飽きた。」
ふー、とため息をつき、遠野は乱暴に筆を置いた。 手元には大量の短冊。 よくよく見れば、それぞれの短冊には文字や図形がのたくっている。 一見するとただの落書きにしか見えないそれだが、ひとたび神力を込めて放てば、恐ろしいほどの力を発する札になる。 今日の仕事で山ほど使ったから、作り置きをしているのだろう。
「いちいちめんどくさいが・・・これだけ雪が降っているんじゃ、外にも出られないしな。 だが暇つぶしにはいいぞ、なんならお前もやるか?暇みたいだし」
意地悪く遠野が笑う。 いたずらのためだろう、百藍は遠野の指先が頭に伸ばされてきたので、百藍は体を反らせて避けようとする。 だが長い指先はそれを許さない。 大きな手がぐいと百藍の頭を引き寄せる。
「うぎゃっ」
そのまま体ごと引き寄せられた。 ぐるんと視界がひっくり返り、体が重力に引き寄せられる感覚。一瞬の変事に、手を振り回し縋るものを探す、だがその手は床に触れず、空しく空を掻いた。
「ぐえ・・・」
情けない悲鳴を上げ、百藍は床に倒れこんだ。いや、正確に言うならば遠野の膝の上に、だが。 決してやわらかくない男の膝。それがもろに背中に当たったので、かなり痛い。百藍は思わず顔をしかめた。
目の前にはしてやったりという表情の遠野の顔。 眼鏡の奥、ほそめられた瞳に、渋面の自分が映る。 どうやら遠野の崩した膝の上に頭を乗せて天井を見上げる体制になっているようだ。
なんだこれは・・・と考えてハタと気が付く。あれだ、猫が膝の上に乗っけられている体制と変わらない。
「寒いからちょうどいいな。」
乱暴に、ぐりぐりと頭を撫ぜられる。むっと百藍が口をとがらせた。これではまんま猫扱いだ。
「ふざけんなよ、これでも一応、お前より年上だぞ!」 「精神年齢が幼いんじゃ仕方ないだろ。文句言うな。」 「うっ」 なんという無茶な。だが実際そのあたりを言われると非常に分が悪い。思わず唸った百藍に、遠野が明らかに苦笑した。 「顔に出すぎだな、お前。」 「うっさい!つーか放せよ用ないんだったら。」 「用ならあるぞ。お前はしばらく、このままの体制でいろ。」 「・・・なんで。」 「さっきからいやに寒いんだよ。」 「はあ!?・・・っおいっ・・・」
べち。 何かが額に張り付く。 いや、自然に張り付いたのではなくて遠野が張ったのに間違いない。これは・・・。
「っくしょー、てめ・・・」 最後までことばを紡ぐことができないまま、百藍の意識は暗い闇に落ちて行った。
* * *
「まったくこのアホ狐め。」 ふー、とため息をついて、遠野は眼鏡を中指で押し上げた。 膝の上では、額に和紙を張り付けた百藍が眠っている。額の和紙は、先ほど作っていた封印札のうちの一枚だ。 指を伸ばし、札に触れる。ぼ、と文字に光が宿り、そのとたん百藍のからだがかき消えた。
膝の上には、小さな子狐が残る。額にはあの封印札。・・・これが、百藍本来の姿。 真っ白な毛を撫でてやると、安心したのか百藍は「くぁ」と大きなあくびをした。
術者である遠野と、遠野に憑いている百藍は、互いに影響を受けあう関係にある。 ・・・百藍は気が付いていないようだが、どうにも先ほどから寒気がして仕方がなかった。 おそらく、風邪のひきはじめだ。 遠野が風邪をひいた、というよりは、百藍の風邪の影響を遠野が受けている、という状態である。 大体こうなると、翌日寝込む羽目になるのは遠野のほうだ。 百藍のほうがけろりとしているから一層腹立たしい。
「このくそ寒いのにあんなところにいるからこうなる。」
まったくアホなやつだ、と嘆息するも、その手のしぐさはいつもよりも自然と優しい。遠野も、百藍もそれに気がつかない程度にだが。
それに、と遠野は思った。自分が風邪を引こうが引くまいが腹立たしいことが一つある。
「心配するだろうが。あほが。」
遠野は傍らに置いてあるストーブのダイヤルを「強」に直し、机に向きなおった。そして筆を手に取る。 意地の悪い微笑みを浮かべて遠野はつぶやいた。
「百藍・・・代償は高くつくからな。」
* * *
翌日。
「うぎゃあああああ!!!っざけんなああ!」
朝から遠野家に大絶叫がこだました。 百藍の絶叫に驚いた家政婦が遠野の部屋を訪れると、床に伏したまま笑いをこらえる遠野と、怒り狂った百藍が対峙しているのが目に入った。
「どうしたの?百藍・・・あらあ、また坊ちゃまにやられなすったのね?」
顔全体に墨で落書きをされた百藍の泣き顔を見て、家政婦は大いに百藍に同情した。 いつもこの調子でからかわれてるけれど、反応が変わらず初々しいからまたからかわれてしまうのよね、と。 さらに、遠野にも同情する。 遠野の不器用すぎる表現では、鈍い百藍には理解されないわね、と。
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