小さな窓の外が白い。隣には連れ込んだ人妻。 今日は雨か、と感じる心が、 確かに何かを否定していた。
底にある何かの感情を、押し殺そうと頑張っている。
「泣きそうね」 掛けられた声に、振り向くと女が起きていた。 「起こしてって言ったじゃない、 今日あの人帰って来るのよ」 「・・・」 「やだ、雨、 あたし癖毛なのよね、 最悪」 「外に出なきゃいいよ」 「出なきゃ帰れないじゃない」 「帰らないでよ」 「・・・何よ人恋しいの?」 「・・・どうして?」 「寂しそう」 「・・・寂しいよ」 「可哀想」 「・・・帰るの?」 「帰るわ」 きっぱり、突き放されエリックは胸が詰った。 自分の存在は一番ではない。そんなことはわかっている。 それがこんなにも悲しいのはこの天気のせいに違い無い。 「今日だけでいいよ」 縋るのは格好が悪い。わかってて縋る、やるせなさ。 「俺のほうを選んで」 崩れそうな声を上げた、自分が呪わしい。 身支度を整えながら、女は口端を上げた。 「・・・可愛いのね随分、 でもうざったいわ、 綺麗な子は好きよ、 綺麗って素敵、 でも愛せないわ」 「どうして」 「ごめんね」 「皺ババア死ね」 「あっはは、暴言、 深く傷ついたわ、 もう連絡してこないで」 「旦那に関係ばらしてやろっか俺との」 「うちの旦那知ってるの?」 「知ってる」 「近づかないほうがいいわよ」 「怖い人ってのはわかってるよ? 俺殴られたら気絶するかも・・・ でも愛の戦死として、 頑張っちゃおうかな、 口喧嘩なら勝てそう」 「うーん、ていうか、食われちゃうわようちの人バイだから」 「・・・」 「あんたみたいな綺麗な子特に好きなの」 「冗談になりませんマザー」 「わかったら大人しくしてなさいよ?」 口紅を塗り終え、笑う顔。 見送りに玄関の戸を開け、 薄い光の漂う廊下に出た。 「あの人はいないの?」 「誰」 「怖い人」 「・・・」 「黒髪の」 「・・・」 「がっしりした・・・」 「ゴドー?」 「・・・」 「いない」 「死んだの?」 「・・・いや」 「仕事?」 「仕事」 「そう」 さらりとした調子で、 相槌を打った女が、 急に驚いたように、 眉を寄せエリックの頬に触れた。 何気ない言葉。 この世界では、 本当に何気ない、 人の死の話題。 「具合悪いの?」 「・・・」 「顔青いわ」 雨降りは先日、死の確率の高い仕事に、 ゴドーが出かけていた間の天気だった。 ゴドーに影響される自分を否定したい。 頭で潰した心が身体に訴えかけて・・・、 「・・・」 「医務室は?」 「だめ」 腹痛に眩暈、憎らしく素直な症状。 「どうして」 「思い出す」 「何を」 気紛れ、命令の降った日。 ゴドーの無事と地位の引き換え、 相手をした組織の父。 「ボスと寝たことあるんだ俺」 「わざわざ医務室で?」 寝る病人を前に。 「どうしても欲しかった地位があってね」 「汚いのね、だからあんた嫌われるのよ」 認められぬ行い。浮くばかりの自分。 嫌われたくない。本当は好かれたい。 善良でありたいのに善良であれない。 根元の曲がった植物はどうすればまっすぐに伸びられるのか。 「・・・怖くて」 「何が」 「囲ってやろうと思った」 「誰を」 「あいつ、死なれたら生きていけない、 怖かった、だから地位が欲しかった」 ゴドーの仕事を管理し、 ゴドーの生を保証して、 安心できるように、 なりたかっただけ。 「あ」 間抜けな女の声、エリックが顔を上げた瞬間、 ガン、と強烈な音と共に、 壁に拳をつけ怒りに満ち、 エリックを睨みつけているゴドーが、目の前。 「エリック」 「・・・」 第一声で正しい名を呼ばれ、エリックは困り果てた。 空気を伝い来るゴドーの怒りがひたすらに恐ろしい。 「欠片でいい、俺を思い遣れ、 もうたくさんだ、 俺を苦しめて楽しいか」 日課、エリックの元に、仕事を終えやって来たゴドーの、 身体から臭う血の香りに女は顔をしかめじりじりと後退、 「取り込み中悪いけど、失礼するわよ」 囁き、足早に去って行った女の背を見送ることもできず、 エリックは固まっていた。 「・・・」 血の気の無い頭が、冷えて思考を拒絶し、 腕を掴まれたかと思えばすぐ背の自室へ。 引きずり込まれ戸の傍の壁、 背を叩きつけられるように、 押し付けられ顔を歪めると、 気付けば唇を奪われていた。 「・・・っ」 殴るため動かした腕が捕まる。 死に物狂いで片方に意識を向けると、力一杯に、 どうにか向こうの顔を、掴んで遠ざけ息を付く。 「落ち着け・・・!」 実際、多く取り乱していたのはこちらだったが、 咄嗟に出た言葉を、発する他無かった。 「一回切りだって、 俺真面目にノンケだし、 情緒不安定だったから、 あの時おまえ・・・、 ぼろぼろだったから、 怖くなって、 安心できるなら、 何だってって、 抱かれてみないかってね? 誘われて、 そしたら窓口に、 してくれるっていうから」 「・・・」 止まった動き、どうにかゴドーが、 思いとどまったのかと、安堵したエリックを、 裏切るよう今度は首筋にキスを落として来た。 顔が見えぬ恐怖。 「・・・っ待てってば・・・!頼むから!」 上げてしまったヒステリックな制止の声、 エリックは己の焦りを、意識すると同時、 惨めさで涙が出た。 「止せって・・・!」 女ではないし、トランスでもない、 数日ぶり返しトラウマになるほど、 苦痛だったのだろう、己で己を、 憐れみたくなるこの過ち。責任はすべて己。 「事故だったよ、馬鹿なことした」 耐えてきた傷の痛みを、予期せず抉られれば誰だって悲鳴を上げる。 恋人に当っては、悪い噂を流され、 痛みを痛みで発散する悪い癖、醜い己を発見する悲しさ。 「二回目は拒んだ、ちゃんと」 生理的な嫌悪感も恐怖も、隠さねばならなかったあの日。 平気なふりが得意で、だから手加減もされず。 蘇る同性の息遣いと肩。痛みと屈辱と惨めさ。 「ゴドー・・・!」 声を上げると声が、情けなく震えた。 そこでゴドーから、 呼吸音、湿気の混ざった溜め息。 「・・・どうして俺は動けなかった?」 「?!」 涙声の呟き、ゴドーの弱った声を、 聞いたのは初めてだった。 「どうして俺は怪我してたんだ? 意識なかったんだろうな? ・・・どうしておまえは抱かれた? ずっと、女と寝てることでさえ、 認めたくなかったんだ実際、 辛くて、 何度、」 鼻を啜る音にエリックは息を呑む。 泣いているのだ。あの、ゴドーが。 鋼のように折れぬとばかり、 思っていた心が揺れている。 「好い加減、・・・耐えるのにも、 疲れて来てた、 相手が女でも、 腹立たしくて、 ・・・一体どうなってんだよ、 何が起こった? 噂にゃ聞いてたんだ実際、 信じてなかったんだよ、 信じたくなかったんだ! どうなってんだ! ・・・ふざけんじゃねぇぞ!!」 「・・・」 歯が振るえ息が熱い。エリックは唇を噛んだ。 嗚咽する向こうにつられ流れ出した涙。 頬を伝う生暖かいものに、気付けばもう、 恐ろしさの消えたゴドーからは、 愛しさしか感じられない。 「誓って謝るよ、 ごめんね俺、 最低だ・・・」 「ああ」 互いにした深呼吸が、 世界をやっと鎮めた。 「ごめん弱くてずるくて」 「ああ」 ゴドーの返事に許しはなく、 簡潔に罪を認めていくだけ。 それでも、落ち着く不思議。 「本当にごめん」 「ああ」 「反省してる」 「ああ」 「怖がりで寂しがりで・・・ごめん」 「そこは可愛いからいいんだ」 「・・・きもい」 「空気読めよおまえ」 「微妙なフォロー困るから」 捕まったままの片手を小さく動かし、 解放を主張しつつエリックは下向く。 「やるせねぇな」 腕を離す気はないようで、 変わりの無い顔と口調で、 ゴドーは苦々しく吐いた。 「俺ぁ組織じゃ下級だ、 下級だが忠誠してた」 事前、好色だと聞いていたし、 愛人の中に男の数人いること、 実際エリックへの肩入れは、 見かけへの気に入りもあるだろう。 とある見解が、脳裏を掠めた。 もしも自分とエリックの、 友情が利用されたのなら。 腐りきった目的が、あの仕事の裏、 あったならば・・・。 「・・・これが、命掛けて尽くした、 男にする仕打ちか」 ゴドーは絞るようにうめいた。 「・・・やっぱり、・・・余所者だからね俺らは」 「・・・」 緩まった拘束、エリックはまず腕の自由を確保し、 痛む部分を無表情に摩った。 「・・・俺はそれでもいいんだ、 オヤジの介入さえ、 受けない環境に居られれば、 俺はそれでいい」 「・・・卑怯だぜ、 今から何言うか予測しやがったな」 「・・・ようやく逃げ込めたんだよ、 この場所から外に出たら、 オヤジに捕まっちゃうから」 「・・・」 「だからどんなに嫌われてても浮いてても、 この中にいなきゃ」 「なら俺はおまえの傍にいなきゃだろうがよ」 「・・・何それ」 「エリー」 「エリック」 「エリック」 「このまま流されちゃくれねーか」 「・・・聞いちゃったら終わりなんだよ知ってた? だからモテないんだなおまえは」 「・・・」 「ほら離れた離れた、汗くさくて鼻曲がる、 風呂入れよ、その間に作っとくから飯」 やっと落ち着きを取り戻したゴドーの胸を、 押して状態から抜け出そうとしたエリックの、 腕がまたゴドーのがっしりした手に掴まれる。 「・・・せめて裸が見たい」 「きもーいうざーいさむーい」 「一緒入るくらいサービスしろよ」 「きもーいうざーいさむーい」 「可哀想な俺」 「可哀想にね」 「だから一緒」 「きもーいうざーいさむーい」 緊張した空気が解けて、エリックが笑い出す。 「何笑ってんだよ」 ゴドーの苦笑に癒され、腕で涙を拭き、 久しぶりに愛想でなく出た、笑みを仕舞う。 「今日は魚ね」 宣言して場を繋ぎ、行動を開始する。 戸の辺りに、取り残されているゴドーを置いて、 ダイニングに歩み出す足に、力が入らずに困る。 「仕事やめる気はないの」 「愚問だな」 「俺と殺しとどっち大事」 「仕事は死ぬまでやるぜ、 おまえを傍に置いたままな」 「嫌がらせ?」 「・・・我侭」 「あっそ」 「俺から戦いを取ったら、何が残る」 「・・・」 「・・・負い目はある、だからどうも強く出れねー」 「単にいくじなしなんじゃないの?」 「力づくで脱がすぞ」 「うっわケダモノ」 一歩一歩、進むエリックの背、 傍にいてやりたいと、思うのに何時か必ず、 手放してしまうだろう自分の、無責任さを、 自覚して思う、残酷な関係。 「エリー・・・」 「エリック」 「エリック」 ダイニングに着き調理具と食材を、 チェックしながら溜め息をついた。 訂正された名を言い直すゴドーの、 声の響きが暖かで、外が雨であることを、 エリックは忘れている。 弱く脆い自分を、否定するのをやめた。
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