=オリオン=
車を路肩に停めて、林の中を歩いた。
足の下では、枯れ落ちた木の葉がさくさくと崩れる音がしている。
スーツの上にコートを羽織っているだけだから、あっという間に身体が冷え切って震えがきた。
真冬にこんな格好だなんて、馬鹿かもしれない。
だけど、今日も3時間前まではいつも通り仕事をしていて。仕事終了と同時に車に飛び乗って、高速をすっ飛ばして来たんだからしょうがない。
せめても、今朝車に積んでおいたマフラーと手袋があるだけマシ。そう思っておこうと思う。
運動不足の体では、坂道を歩いているだけで息が上がってしまう。
断続的に吐き出される吐息が真っ白で、その光景で更に寒さが身にしみる。
「寒……」
不意に上を見上げたら、星空が作りめいて美しくて、それはまるでプラネタリウムのようだった。
僕は、ほぅっと感嘆の意気を漏らして、
「凄いな」
と誰に言うともなく呟いた。
いつぶりだろう、星空なんて眺めるのは。大学生になる時にこの街を離れて、ひとり慣れない都会に住んで。今もそのままその都会の片隅でひっそりと社会人をやっている。
別段、辛いことばかり、というわけでもない。辛いことも楽しいことも人並にあった訳だし。
だけど、なんで。
星空が目に映って、暫くそのまま動けなかった。
オリオン座、
その北西におうし座、
その東にこいぬ座にふたご座……──
あいつが教えてくれた星座は今も、頭の中にこびりついたようになっている。都会の濁った星空しか見ないうちに忘れてしまったとばっかり思っていたのに、見ればこうやって思い出せる。
それも、ごくはっきりと。
嫌になるくらい鮮やかに、あいつが指さして教えてくれた瞬間まで。僕は時間を逆戻りしてしまう。どんな順番で教えてくれたとか、どんな顔で、どんな声で教えてくれたとか、そんなことすら思い出せる。
もう、10年も経つのに。
そう。
今日は、満天の星空の下であいつと約束を交わしてから丁度10年目。
ここで会う約束。
きっとあいつは忘れてるんだろう。だってあいつは今、日本にすらいないそうだし。
あいつは今、イギリスの有名な展望台のある大学で研究に励んでいるのだそうだ。
だから今日ここに来たのは、なんとなく。
いや、違うな。
僕が、ここに来たかった。今日は、僕自身ここに居ることを望んだ。
あいつが来るか来ないかなんてわからないけれど、僕がここに来ることには何かの意味があるんじゃないかと思ったんだ。
あいつは今もきっと、星に思いを馳せている。
その星空の、いちばんの原点の星空の下に来たかった、のかもしれない。
星空が大好きで、僕が横でぼんやりしているなんて知らずに小難しい講釈を垂れてたっけ。
好きこそものの上手なれ、を地で行く男だよなぁ、と思う。
学校のどの教科もそれほど出来が良くなくて、テスト前にはいつも僕に泣きを入れてきたくせに。今や学会でも名を馳せちゃったりなんてしてるらしい。有名な科学雑誌に記事が載ることもしばしば。
忙しく毎日を送っているらしく、時々思い出したように届く電子メールや手紙からもそんな日常が簡単に予想できた。
多分、食事も睡眠も不規則なんだろうなぁ。
風邪とか、ひいちゃいないだろうか。
煙草は結局、やめられたのかな。
「はぁ……っ」
色んなことをぼんやりと考えているうちに、林が開けてちょっとした広場に出た。
──変わってないなぁ──
切株がちょこちょこあって、それで…………
「……朔(サク)…っ!?」
「よ、久し振り」
そこには、あの頃使い古した望遠鏡があって、その傍らには朔が居た。
朔は右手をあげて僕に笑いかけた。と言っても、着ていた白い上着が闇夜に浮かんで、腕を振ったんだなとわかっただけだけど。
声音は笑っていたから、笑いかけたんだと思う。
「え? どうして…イギリスに居るんじゃなかったのか?」
なんだか駆け寄れなくて、ちょっと距離を保ったまま僕は信じられない思いで問いかけた。
星の瞬きが聞こえるんじゃないかってくらい静かな所だから、さして大きな声を出さなくても良かった。
「今日みたいな大事な日に戻って来ない筈ないだろ。お前俺を馬鹿にしてんの?」
馬鹿にしてんのか、とは随分な御挨拶だ。
「だって…来ないと思った」
消え入りそうな僕の声も、届いていたらしい。
白い影が、急に近寄ってきて。
「何言ってんだよ。俺は来るって言っただろ?」
確かに10年前、約束した。
だけどあんなのは子供の口約束で、夢見がちだった自分のこと、僕はちゃんと理解してるつもりだ。
「俺のことより、昌(あきら)。お前も来たってことは、同じ気持ちだと考えて良いんだよな??」
「同じ気持ちって言うか…それならあの頃から、だよ。」
途端ぬくもりが大きくなったのは、
朔に抱きしめられたから。
「なぁ、昌、よく聞けよ。俺、」
その後の言葉を、僕は耳元で聞いた。
真冬の、凍えるほど寒い日。
僕達二人は、約束を果たしました。
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