フォートレス・イズ・ヒア
夜でも無いのに、隙間無く真っ黒で、 そのくせ夜空のような透明さの欠片もない、不透明で濁った空。 そんな空の下。 俺たちの戦争は、勝利をつかんで終わった。 二人の生き残りを除いた多くの命と引き替えにして。
「…なあ、帰ったら…何する?」 俺は、黒い空を眺めて、ぼーとする頭を、公転のようにぐるぐる旋回させながら、清代に問いかけた。 清代(きよしろ)は考えこむように少しだまった後、 「死ぬほど寝てえな」 といった。 俺は、そのうち永眠すんじゃね、と口の中でつぶやいた。 われながらつまらない切り返しだ、と一人で力なくわらったのに、清代は気づかなかったようだ。
俺たちの國は領土拡大のために敵国と争っていた。 けれど戦局は長引き、勝率は五分五分ながら、最後になって兵が不足してきた。 それを補うために、俺たちは、徴兵令によって最後の砦に送られた。 今回それまでと違い、隊の構成のほとんどが、鍛練を積んだ兵士でなく にわか仕込みの一般人同然の兵士だったせいで、多くの犠牲を出してしまった。 しかし、それは相手も同じでだったようで、こうして、俺たちはかろうじて辛勝した。
清代とは、同じ編隊で知り合った。 清代は戦災孤児で、施設で育った俺と似たような境遇で。 隊では珍しい、同い年だと言うこともあってか、すぐに友人のような関係になった。 清代は、いつも俺が沈んでいる時や悩んでいるときに力になってくれた。 いつの間にか、清代は俺にとって無くてはならない存在になっていた。 俺はもう、清代の事を、きっと友人としては見ていないけれど。
俺は清代を促した。 「他には?」 「そうだな、あと、うまい飯食ったりとか…」 「うん…………、……それだけ?」
あー、と清代がうなった。なんかよ、と口を開く。 「全然おもいつかねーのな。」
確かに、と思った。 恋人とか家族がいたらそいつらに会いたいって思うんだろうけど。 あいにく俺にはそういう存在はなかった。清代も同じらしい。 そうすると、ほかにやりたいことなんて、ゆっくり寝て、あったかい飯食って、… …そのくらいしかなかった。 ここに来る前は、ほしい物がいっぱいあったような気がする。そう、いっぱい。いろいろ。 なのに。 なんかもう、どうでもいい。
さっきまで、ずっとパラララララ、タタタタ、パンパンパン、ボウンボウン、ドドドドド、とかいろんな音が混ざり合ってて、ひどい騒音が奏でられていた。 でもそれがあまりに酷くて、そのうち逆に無音状態のように感じるようになっていた。 よく耳を澄ますと、という言い方は語弊があるかもしれない。 聞こえないように、聞かないようにしてた自分がいたとおもう、から。
いやな音。 人体に弾が着弾する音。マシンガンにやられた死体は見てられない。「上」を狙われた奴のはひどい。 自分の頭に「アレ」が詰まっているなんて、到底イメージできない。
大勢巻き込んでクレイモアが爆発する音。俺と違って勇敢な奴らは、壕から飛び出していって、たいていバラバラになった。敵もまた然り。
壕に投げ込まれたグレネードが炸裂する音。凶器の破片と、味方の血と肉が降りかかってきたときは最悪だ。
生臭い臭い。 轢かれた犬の近くに寄った時、鼻をついたのと同じ臭い。 人間でも畜生でも、死んじまえば、大した違いはない。 兵士の破けた腸からこぼれる便の悪臭が、そこら中に漂っていた。
そう、悪夢。
それが、それが…
「終わった」
結局生き残ったのは、英雄でも魔王でもない。 ただの、運がよかっただけの、男二人だった。 いや、二人というのは少し違う。 清代は確かに運が良かったが、同胞と共に果敢に戦い、生を勝ち取ったのだから。 俺なんかと、違って。 でも、純粋に清代が生き残ったことを喜ぶ自分だけは、肯定できる気がした。
「帰りたくねえな」 「…」
いっそ二人でどっか行っちまうか。 そんな事を割と真顔で言う清代を、アホか、と小突いた。どうせ冗談のくせに。 「帰ったら俺たちどうなるんだろーな」 えいゆうになるんだろうか?俺はポツリともらした。
清代は、はは、と乾いた笑いをこぼした。 「笑えねえ。」 笑ってんじゃん。また心の中だけでつっこんだ。
もしえいゆうとよばれたとき、本当の俺たちに気づく奴はいるんだろうか。 わかってくれるんだろうか。 俺たち、いや、俺はただ、運がよかっただけだったという事を。 ここに来た他の奴ら全員が、今の俺の代わりになりえたってことを。 「そういえばあったよな、そういうので苦悩する、帰還兵の映画。」 「ははっすげぇー。俺ら映画の主人公じゃねーか。」 相変わらず乾いた笑いしかでなかった。
「『またまたご謙遜をなさって、お二方は最後まで生き残り見事敵を殲滅し勝利を収めた英雄なのですぞ』そう言って俺たちの肩をたたく、でっぷりと超えた貴族ヤローやらテンノーやら…て……、ア…ハハ、妄想しすぎだな、俺。」
自分一人でペラペラと分けの分からんことを喋っていたことに気付いて、 ひどく恥ずかしくなり、俺は口を閉じて押し黙った。 なんで、俺なんかが生き残って、仲間の死体の横で軽口を叩いてるんだろう。 俺が生き残る意義は?意味は?…何もないじゃないか。 どうしてか少し、視界が曇ってにじんだ。 清代がそれを見ていたのに、俺は気付かなかったけど。
それきり、しばらくどちらも口を開かなかった。 先に音を上げたのは、やっぱり俺。
「こんなことなら、キリの良いときに死んどけば良かったな」
俺は、思ってもいないことを口にする。ただ…沈黙が嫌で。 清代は、俺をじっと横目で見て、ん…と、頷きはせずに一音だけ発した。 注視されて、俺は、酷くうろたえた。 冗談でも、言うべきじゃなかった、こんな言葉。俺は、卑怯で、最低だ。 何だかんだ言って、俺は結局、ひどく死を恐れている。 他の奴を犠牲にしても、五体満足で生き残れて良かったと。 こうしてまた清代と話すことが出来て良かったと、そう思う自分がいる。
なあ、俺、実はこんなに最低なんだよ。 でも、平然と隠し通してみせるから、だから。 お前にだけは嫌われたくないんだ。幻滅されたくない。見捨てられたくない。 俺はお前が本当に必要だけど、きっとお前は、俺の代わりなんて幾らでも持ってる。 俺は掠れた声で、平然を装っておどけてみせる。
「や、…嘘、だって。ほんとうは、ンなこと思ってもねえし。…ごめん」
最後の方は、声が震えていたかもしれない。変に思われていないだろうか。 さっきから俺はおかしい。またすぐに視界がぼやけそうになる。 言わなきゃ良かった、沈黙の方がまだマシだったと後悔する俺に、 清代は苦笑しながら、間延びした声で、けれど即座に「わーってるって…」と返答した。 清代が、見てらんねえ、と付け加えた。何のことだろうか。 そんな清代に、俺は思わずこぼす。
「俺、帰りたくねえんだよ」
胸の内に燻っていた思いを夢中で吐露する。 もう、溢れ出して止まらない。堰は決壊してしまった。 このままじゃ、許容量を超えて、俺は内側から壊れてしまいそうなんだ。
「だ、って、俺のからだは。 血まみれで。 でもさ、これは誰の、血? 俺のじゃあないんだよ。」 ああ、これは、散弾銃でやられた村田の血。 この、ピンク色の肉片と、脳漿と、黄色い脂肪らしきものは? ああ、誰かがグレネードでバラバラにふっとばされた時についたやつ。 これは、この、この血は、この肉片はべたついたものはこびりついてぬぐえない赤は?
この、かつて人間の体を構成していたパーツの残骸の中に。 「俺のものなんて、なにひとつないんだよ。 お前はたくさん血を流してる。そぶりを見せないけど酷い怪我をしてるのを知ってる。 俺が無様に丸まってる間に、何人も向こうの奴らを仕留めてた。 俺が、隠れて生き残った俺が、何を失ったって? 何にも失ってない。 何にも失ってなんかない! どう、」
あ、やばい。呂律が上手く回らない。歯がガチガチと鳴る。 目頭が焼けるようにあつい。俯いた視界の先の瓦礫がぐにゃりと歪む。
なんの間違いで俺なんかが生き残ったんだろう。 俺が惚けてるときも、いつも誰かしらが写真を見ていた。 きっと大切な人々が写っていたのだろう。 でも、みんな、死んでしまった。この、最後の砦で。 前夜、ここを耐えれば帰れると、皆が、生まれた小さな希望の光を見ていた。 それなのに、
結果はどうだ?
もう、限界だ。嗚咽も涙も止まらない。なんて無様なんだろうか、俺は。
「どういう、顔し、て…っ、帰ればっ、いい、て…!」
二の句は継げなかった。
「…っ、きよ、しろ……?」
俺は、清代の腕に、掻き抱かれていた。 俺は、あまりの驚きに、一瞬涙も引っ込んでしまった。
「何、して、」
清代は何も答えてくれない。 でも、俺を抱き締める清代の腕には、痛いほどに力が込められていて。 ずうずうしくも、泣いても良いのだろうかと、考えてしまったんだ。 途端、俺の中で、押さえていた物が堰を切って、激流となって押し寄せてきた。
「う…ぁ、あ、ああああああああ」
嗚咽なんかじゃない、あまりにみっともない声で慟哭した。 どうして今呼吸をしているのだろう。息を吸うのが苦しくて、苦しくて仕方がない。 苦しくて自分ではどうしようもなくて、俺は清代の肩に顔を押しつけて縋り付いた。
「ごめん…っ、ほんと、ごめ、生き残って…っ!俺が、俺なんかが…っ」 「言うな!」
清代の叫んだ言葉に、ビクリと体が揺れた。 大きさにおどろいたんじゃない。 その声が、あまりに悲痛で、痛みをこらえるような響きだったからだ。 きっと傷のせいだ。俺はまた自分のことしか考えて無くて、清代が傷を負っているのも忘れていたから。
「きよしろ、ごめ、」 「言うなっていってんだろ!そんな、悲しいこと、言ってんじゃねえよ…っ」 「……え……?」 清代は、何を言ってるんだ? 「誰がなんと言おうと、俺は…っ」 途中で切れた清代の声が、かすかに震えている。何故…? 混乱する頭は、次の言葉で完全に停止した。
「俺は、お前が生きててくれて良かったと思ってる!!」
その場からしん、と全ての音が消えうせた。 俺が息を吸いそこねた、ヒュ、という音を残して。
「お前がいなくて、俺一人だったら、俺は、どうすりゃいいんだよ…」 俺は、一層強く抱き締められたまま、身じろぎもせず黒い空を見つめていた。 ほおに静かに涙が伝った。 家族のいない俺に、無条件で自分を必要としてくれる親はいなかった。 けれど、俺自身何の魅力もないから、成長しても、誰も必要としてくれる人は現れなかった。 だって俺は卑怯で、臆病で、最低で。 戦争に強制的に駆り出されたときだって、ああ、俺は結局誰にも必要とされないまま終わるんだな、と虚ろに考えていた。 清代みたいに優しい奴が、俺のことを必要とするわけない。 「それなら、俺じゃなくても、そばにいてくれるなら、誰だっていいじゃん」 卑屈な声で絞り出すように早口で言う。 けれど、混乱と生き残った事への絶望で満たされた俺は、期待なんてしてないと言い聞かせながらも、もてあます、この名前のない思いから、ぽつりと続けて呟いた。
「…清代は、俺が、必要か?」
言ってしまってから、また、言わなければ良かったと涙があふれて、しゃくりあげた。 何を期待してるんだろう。自分は。 こんな瓦礫の上で、清代にさえ見捨てられたら、俺はどうすればいいんだ? 答えを聞きたくなくて、俺は身をよじって、 そして、そのまま固まった。
清代、いま、なんて言った?
清代はしっかりした声で、 「他の誰でも駄目だ。…いつ見てもほっとけねえんだよ」 俺の名を呼んで、言った。
「俺にも、羽賀が必要だ」
混乱する頭でうそつくんじゃねえよと小さく叫ぶ。うそなんか言うわけねえだろと清代が言う。 清代は、まさかこんなタイミングで、と困った風に意味不明のことを呟いた。
「他の奴らが死んでも、最後にお前が生きてて良かったって思ってるひでえ野郎なんだよ、俺」
そう付け加えた清代に、そんなら俺も一緒だと、俯いたまま顔を上げずに言った。 清代は俺の頭に掌を置いて、そうか、と笑った。 拭ったばかりの俺の頬がまた少し濡れた。
これから俺たちは、望まない俺たちを戦場に送った、あの國に帰る。 どんな扱いを受けるかは分からない。 残ったこの命をどう使えばいいのかも分からない。 けれど、俺は、俺を必要としてくれる奴がいれば、何だって耐えられる気がした。 頭を押しつけた清代の肩は、俺を抱き締める腕は、たしかにあたたかかった。
黒い空を覆う雲の隙間から、わずかだが、光が差し込んでいた。
ゆるぎないものが、いまここにあるから。
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