「―――先生」 息を切らして走ってきた彼は、あっという間に僕の目の前に立ちふさがった。一年前は僕よりも十センチくらい低かったのに、今はそう変わらない位置で視線がぶつかる。俺の背が縮んだわけはない。入学してから一年間でそれだけ彼の身長が伸びたということなのだろう。 「・・・水野くん」 驚いて目を丸くする僕を少しとがめるように見ながら、彼はこう口火を切った。 「転勤するって本当ですか」 予想していなかった質問は、僕自身を少し慌てさせた。誰から聞いたのだろう? どう返事を返すべきか、少し昇順した。違うといえば嘘になる。新任教師として、二宮高校に就任した僕は、一年たらずで桜宮高校に移ることになった。詳しいことはまだ知らされてはいないが、どうやら桜宮高校の国語教師が事故で入院したらしいのだ。その埋め合わせとばかりに、新任の僕に白羽の矢が立ったというわけだ。しかしその期間はたったの三ヶ月。 「転勤というより、三ヶ月間だけ違う学校で教えることになったんだ。それが終われば、またこの学校に戻ってくるよ」 僕が答えると彼は安心したように微笑んだ。笑うと、やっぱり彼がまだ高校生なのだということを実感する。 「よかった。先生がいなくなるの嫌だったんだ。クラスの皆も言ってたんだ。いなくなったらどうしようって」 その言葉に僕は少し驚いた。 とにもかくにもぼんやりとしたところがある僕は、大学時代からお前なんかに教師が勤まるものかと言われ続けていた。そんな僕が彼にこういうことを言われるなんて。 目を丸くする僕に見て、彼は少し頬を染めた。 「だって俺先生のこと好きだから」 一瞬動きが止まる。 「白くて細い指も、桜色の唇も、さらさらの茶色の髪も、やさしい瞳も温かい声も。先生という存在すべてが大好きなんです。みな大好きなんです」 ためらいもなく言って、彼は僕のほうを見た。 わずかに今は僕のほうが背が高い。でも、成長期だと言って笑っていた彼、もしかするとあと数ヵ月後には追い抜かれているのかもしれない。 少し寂しくて、でもそれよりも誇らしかった。 真剣な表情を見ていると、思わず笑いがこみ上げてきた。 「あ、先生笑ってる。笑ってるでしょう?何が面白いんですか」 そういって彼は僕の横で不服そうに頬を膨らませる。そんなところは、まだまだ子供だ。 「いや、成長したと思って」 あたりまえですよ。そんな思いの込められた視線が向けられた。 「俺先生に聞きたいことがあるんです」 「なに?」 あんまり彼が真剣な顔をしているものだから、僕の方まで戸惑ってしまう。 「俺って先生から見れば、子供ですか」 あたりまえだろう。俺は大人だし、水野はまだ未成年だ。その差は歴然。 「そりゃそうだろ。六歳も離れていればな」 なぜか下を向いたまま顔を上げない彼に向かって答えた。 「俺早生まれなんです。先生3月生まれですよね。ほんとは五歳しか違わないんですよ」 絞り出すような声だった。下を向いたままの彼からは表情を伺うことはできなかった。 「五歳なんてほんとに変わらないですよ」 「水野…」 「でもくやしい。五歳年が違うだけで先生と生徒なんて。それだけで先生は俺のこと生徒としか見てくれなくなる」 「水野…」 僕は下を向いている水野を見た。 彼が女の子にもてているという話はよく聞いていた。俺自身、それを聞いて納得していたのだ。格好よくて頭がよくて性格がよくて。器用に何でもそつなくこなしてしまう彼は、学校のほとんどの先生にも好かれていた。もちろん俺も彼を嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。 「先生は俺のことどう思ってるんですか?」 どう思っているか、か。 俺は、どう返せばいいものかと思案した。彼を傷つけたくない。とはいえ、彼の気持ちに答えることは今の俺には無理だった。 「好きだよ。でも水野、俺は教師だ。こういう言い方をすると卑怯だと言われるかもしれないが、俺は一生徒としてお前のことが好きなんだ。今、水野の気持ちに答えることは出来ない」 言葉を選びながら呟くように告げると、俺は水野に視線を向けた。 不意打ちのように水野が顔をあげた。綺麗な色の瞳が俺の顔をしっかりと捉えた。彼は泣いてはいなかった。 「そうですか。でも俺は待ちます。先生。三ヵ月後またこの学校に戻ってくるんですよね。俺は先生の気持ちが変わるまで待ちますよ。好きにならせてみせます」 獲物を狙う黒豹の目をして、彼は俺の目をじっと見つめた。 「俺、勝負事に強いんです。先生知ってますよね」 5月に行われる球技大会。バスケの試合中、最後の3秒で彼は逆転ゴールを決めた。最後の最後で。彼の手から離れたボールは綺麗な軌道を描いてゴールへと吸い込まれた。誰も敵クラスの勝利を信じて疑わなかった。そんな中、彼は最後まで諦めなかったのだ。 「俺は先生以外何も要らない。覚悟してくださいね」 運命を狂わすような春風が通り抜けるのを俺ははっきりと感じた。 何かが変わる、きっと、いや絶対に。 うすうすと感じていた予感が確信へと変わった瞬間だった。
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