西暦2×××年。夏。
野上リクトは友人の赤貝ヒビキと雑木林の中を歩いていた。 膝丈くらいまである草をかき分け、二人は進む。
「なんか思ったより、山って感じだな」 文句を言うリクトに、ヒビキは涼しい顔で答える。 「仕方ないさ。ここはすでに閉鎖された町の中にあるんだ。誰もこんな場所に来ないんだよ」
二人はそろって、国立高校の紺とグレーの制服に身を包んでいた。 その貴族服のように整った制服が、今は土に汚れてしまっている。
「こんなんじゃ、着替えて作業着で来れば良かった」 「言っておくけど俺のその提案を、面倒くさいという理由で却下したのはリクトだからな」 「わーかってますよ、ああ、もう面倒くさいからこの辺の葉っぱ、レーザーナイフで刈り取ったらダメかな?」 リクトがズボンのポケットからナイフを取り出すと、ヒビキが眉を顰める。 「とてもフィールドワークに生物学を選んだ人間とは思えない行動だな」 その言葉に、リクトは乱暴にナイフをポケットに戻す。
「冗談だよ、言ってみただけだってば」 もちろん本気だったのだが、ヒビキの手前そう言うしかなかった。
二人は今、学校の課題である、フィールドワークの調査の途中だった。 リクトが選んだ課題は、生物学。古代生物の種子や細胞の収集と、その研究調査をレポートとして提出する。 そして親友のヒビキが選んだのは民俗学だった。地方の民話や寓話などを収集し、その内容を調査し提出する。 その二人が何故揃って同じ雑木林の中にいるかと言えば、二人の目的とする調査の場所が、 偶然同じだったと気付いたからだった。
この林の先に、二人の目指す場所があった。
「なんか蚊とかいそうだよな」 呟くリクトにクールにヒビキは言う。 「虫よけスプレーかけてこなかったのか?当然こんな場所だから蚊位いるだろうな」 「え、マジ?」 「ただの蚊なら良いけど、ウィルス感染するような蚊だとヘタすると死ぬしな」 「・・・・・・俺、死んじゃうかも・・・」 そう言うリクトに向かって、ヒビキは10センチ程の小型スプレーを掲げる。 「貸してあげるよ」 「わ、ありがとう!神様仏様ヒビキ様!」 調子よくそう言いながら、スプレーを受け取って体にかけるリクトに、ヒビキは笑みをこぼした。
暫く歩くと林が途切れた。 そして目の前に広がった景色に、リクトとヒビキは目を見開く。 「これが・・・・・」 ヒビキはつい呟いた。
一面に咲き誇る白い蓮の花。
夏の広く青い空の下に、広がる緑と白い大きな花。 蓮の下にあるはずの池は、緑の大きな葉と茎に隠れてほとんど見えない。 空と蓮と緑の世界だった。
ヒビキはその光景に懐かしいような思いを抱く。 ヒトの背丈ほどに伸びた白い花とその葉。 それが小さな池の上の一面にある。 初めて見るハズなのに、どこか懐かしい光景。 それは遺伝子にでも組み込まれたような、心を揺さぶる光景だった。
「なんてキレイなんだろう」 隣にいたリクトは呟くと、蓮の花の咲く池の縁のギリギリまで近寄った。 そして自分の顔よりも大きな、白い花の中を覗き込む。 中からは微かにミントに近い香りがした。
「思ったよりも大きい花だな、蓮って」 そのリクトの言葉に、ヒビキも蓮に近づきながら答える。 「仏教では仏がこの上に座ってる絵がたくさんあるよ。極楽浄土に往生したものが座るって言われてるんだ」 「さすが、民俗学研究を選んだだけあるな、ちゃんと調べてある」 感心するリクトにヒビキは腰に手を当てて聞く。
「そういうリクトは自分の研究物だっていうのに何も調べてないのか?」 「え、だってどうせ後から採取したサンプルを研究するんだから、その時に調べれば良いコトじゃん」 「そんな考えだから、いつも大きな穴が後から見つかるんだよ」 「だってメンドイんだもん・・・」 リクトは言い訳しながら、蓮の滑らかな花びらに触れる。
「それにそう、今回は何も調べてこなかったワケじゃないよ。ちゃんと基本は調べてきた。 ハス。スイレン科多年生水草。根っこは地中をはい、レンコンという食用になる」 それを聞きながら、ヒビキは冷たくリクトを見る。
「それって常識だろ?植物学をフィールドワークに選んでない、俺だって知ってるよ」 リクトは返す言葉もなく、黙り込むしかなかった。
暫く二人はお互いの作業をしていた。 リクトは蓮の細胞を取ると、専用ケースにしまっていく。 ヒビキは池の周囲や深さを測るとデータを記録して、写真も撮っていく。 やがて作業が終わると、二人は手頃な石や木の根の上に座り込んで、持参した飲み物を口にする。 二人の視線は、蓮の白い花に向かっていた。
「白い蓮ってこんなにキレイなんだな」 呟くリクトにヒビキは頷く。 「こうやって見ると、この世に存在する植物で、一番綺麗なんじゃないかって思うな」 そう言うヒビキの顔をリクトは窺い見る。クールでサラリとした顔つきのヒビキは真っ直ぐに白い花を見ていた。 リクトはそんなヒビキにちょっと見蕩れた後で、首を傾けて訪ねる。
「この場所の伝説の話、聞かせてくれるって言ってただろ。そろそろ聞かせてよ」 それは二人で蓮池に来る事を決めた時にした約束だった。 ヒビキが集めていた伝説の中に、この池にまつわる物があったのだ。
ヒビキは石の上から立ち上がると、池の蓮の前に立った。 白い蓮と長く伸びた緑の葉と、夏の澄んだ青い空を背景に、ヒビキは話し出す。
「この池には数百年も前から伝わる、ある伝説があるんだ」
その始まりの文句に、リクトの胸がドキドキと高鳴った。 ヒビキはそんなリクトの為だけに、整った唇を開いて話し出す。
「その昔、もう何百年も昔の事だ。まだこの池の側に町があった頃に、この蓮池の近くに住む三人の少年たちがいた。 そのうちの二人は恋人同士で、残った一人はその片方に横恋慕をしていた。横恋慕をしていた少年は どうにか思い人の少年を手に入れたいと思っていた。そしてある時、ある策を練って、少年はライバルを この蓮池に呼び出す。そしてそのライバルを刺し殺してしまうんだ」
リクトはその話を聞きながら、何故か胸がザワつくような感じがしていた。 暑い日差しの中、少し湿った風が吹き抜ける。
「少年はライバルをナイフで刺し殺し、恋人を失ったかわいそうな思い人を連れ去るんだ。 何も知らないその子は、恋人を殺した少年を信じて、二人でバスに乗って旅に出ていってしまう」
リクトはその話に漠然とした違和感を抱いたが、口には出さなかった。 何故違和感があるのか、理由を説明できなかったからだ。 ただ、ヒビキの後ろで風に揺れる、白い蓮が気になった。
ヒビキは話し続ける。
「殺された少年はこの蓮池に埋められたんだ。けれど少年の肉体は死んでも、魂は生きていた。 少年は幽霊になり、この蓮池に住みついた。そしてここで、恋人の少年が帰ってきてくれると信じて待った。 やがて時がすぎ、この蓮池は観光名所として知られるようになる。するとたくさんの人間がここを訪れた。 殺された少年は、その観光客の中で恋人に似た少年を見つけると、この池に引きずりこむようになる。 犠牲者が多くなるにつれ、この場所は恐れられるようになる。そしていつしか観光地としてはやっていけなくなってしまった。 やがてまた時がすぎ、この町は閉鎖された。そして恋人を待ち続ける幽霊の少年と蓮池だけが残された。 それがこの池に伝わる伝説さ」
話を聞き終わっても、リクトは不思議な違和感を抱いたままだった。 何かどこか、その話が間違っている気がする。 けれど何がどう違うのか、リクトには説明が出来なかった。 ふと揺れる蓮に目を向ける。
そのリクトの視線に気付き、ヒビキは首を傾げながら訊ねる。 「どうかした?」 「あ、いや、うん・・・」 リクトは白い蓮の花を見ながら、夢見るように言う。 「蓮の花・・・昔、赤いのも見た事があるような気がして・・・」 「赤い蓮?」 ヒビキは繰り返して言いながら、長い指で自分の前髪をかきあげる。
「蓮の赤は桃色だな。真っ赤と言うよりはピンクが近い」 「そう、そっか・・・そうだね」 リクトは目を細めて白い蓮を見たあとで、納得したようにヒビキの顔を見た。
「さっきヒビキが、蓮をこの世で一番綺麗な花じゃないかって思うって言っただろ? 俺もそう思うよ。俺も蓮って一番綺麗だって思う。なんか胸がギュっとなる」
そう言うとリクトは自分の胸に手を乗せる。 胸の奥にある愛しさと切なさを抱きしめるように。
暫くそんなリクトを見た後で、ヒビキは呟く。 「さ、もう収集も終わったし帰ろうか。寮までこっから2時間はかかるからな」 「そうだね」 名残惜しそうに蓮を見たあとで、リクトは木の根の上から立ち上がる。
「まだ、この池にその少年はいるのかな?」
その問いに、歩き出そうとしていたヒビキの動きが止まる。 そして振り向いて、蓮の花を見ながら言う。 「どうだろう、俺からしたら幽霊としてここに残るより、転生して再び好きだった少年と巡り合う方が、 建設的だと思うけど」
その言葉に、驚いたようにリクトはヒビキを見る。 「生まれ変わり?」 「え、ああ。ここの伝説をフィールドワークに選んどいてなんだけど、ずっとこの場所に少年の霊がいるって 考えるより、俺は生まれ変わって新しく好きな子みつけた方が良いと思うね」
リクトはその言葉に酷く納得した。 「じゃあ、もうその少年は生まれ変わってて、ここにはいないかもしれないね」
微かに微笑んで言ったリクトに、ヒビキも微笑み返す。 そして、ふと思い出す。
「そういえば集めた情報の中に、この池の幽霊の少年の名前もあったよ」 「へえ、どんな名前?」 好奇心に瞳を輝かせるリクトに、ヒビキは言う。
「昔の名前だから、漢字だったよ。秋彦って名前だ」
ドクンとリクトの心臓が鳴る。何故か懐かしい名前。
「アキヒコ」
リクトが呟いたその名前に、ヒビキは一瞬息を止めた。 まるで自分の事を呼ばれたような気がしたからだ。 胸の中になんとも言えない甘いような、切ないような感情が生まれる。 そしてつい無意識に一歩を踏み出す。
呆けた顔で立ち止まるリクトに、ヒビキは近づいた。 そして無防備なリクトに顔を寄せると、その唇にキスをした。
リクトはその行為に我に返ると、慌ててヒビキを突き飛ばす。 「な、何、すんだよ!急に!」 ヒビキは肩をすくめる。
「いや、リクトが隙だらけだったからつい」 「ついでキスなんかするなよ!」 言いながらリクトは唇を拭う。
「もう、バカ!俺には恋人がいるのにーー」 「分かってるよ、もうしないよ」 言いながら宥めるように、ヒビキはリクトの頭を撫でる。
「さ、もう帰ろう。寮にはリクトの大好きなレンも待ってるしな」 その言葉にリクトは顔を上げる。
レン。それはリクトの恋人の名前だった。 この池に咲く花と、同じ意味を持つ名前の、リクトの恋人。 フィールドワークでこの地に蓮の花を見にきたのだって、恋人の名と同じ花の名前に惹かれたからだった。
二人は来た道を戻っていく。 もう誰も足を踏み入れない、雑木林の中を。
かつて遥かな昔、同じように二人でこの林の中を歩いた事を知る事もなく・・・・・・・・・。
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