強烈に焼き付いている記憶がある。
白黒でしか顔も思い出せない父親。 ある夜、それに抱かれていた叔父──。
当時は俺も幼くて、男ふたりが素っ裸で絡まり、なにを犬猫のように鳴いているのだろうと思ったくらいだった。 翌日の父は相変わらず優しかったと思うし、叔父は相変わらずおとなしかったと思う。 父はその一カ月後に事故で亡くなり、叔父は俺たちの前から姿を消した。
そして俺はいつのまに、記憶のなかで父と交わる叔父よりも成長した。 あの頃叔父は、十五、六だったはずだ。 そんな記憶は蟠りとして消えず残っていたが、だからといって、あの情事はなんだったのか、その後父が死んだのは偶然なのか、なぜ叔父は消えたのか、いまもわかる術はない。推し量るのも怖い気がした。 云ってはなんだが、俺の母は独占欲の強い女で、感情の起伏も荒い。息子である俺に対してもその固執といったらすさまじい。 夫と自分の弟の情事を知った彼女は、冷静でいるだろうか。それこそ、父が死んだあの現場に母はいて、人混みのなかから腕を伸ばし、トラックの前に父を突き飛ばしたことだってやりかねないだろう。 しかし、息子として、俺はそれを認めるわけにはいかなかった。
◇
「その女にはもう恋人がいんのによ、そいつは俺とのこと考えてくれって、追いかけるんだよ」 今日も学校では世間話に花が咲く。ただし俺はどうも関知しないらしい。 無意識に現実って奴を避けてるんだろうか。ホントウノコトを知ることほど、怖いものってないんじゃないか。 そんなことを、最近また思いだした。 「そりゃ、ストーカーじゃん」 「そーなんだけど、追いかけ回す男もさ、その女に遊ばれたらしくてよ。未練ができちゃったんだろ、遊ばれて本気になるほど悲しいこともねーよ。女もノイローゼになりかけてるらしいし、ま、自業自得ってやつじゃねー」 「……」俺は間をおいた。笑ってやった。「そうかもな」 「あっ、大樹、ここにいたっ」高い声はあまり好きじゃない。しかし無礼をかまわない明朗さが、今日も今日で、俺の懐に飛び込んで来た。「ねぇねぇ、指輪買ってくれたっ? 誕生日、もう過ぎてるんだよぉ」 あ、と俺は目を細めた。察して、彼女は白い頬を膨らませて俺の手の甲をつねりあげる。 「いてぇって…」振り解こうとすれば相手というのはあまりに簡単に転げてしまうもので、辛抱することは責務でもあった。 苛立ちも重なり、胸が毒づく。
──指輪なんて、ただのワッカだろ。贈り贈られるうちが華だなんて、結局金目の物で相手をつなぎとめておこうって魂胆がミエミエなんだよ。
「大樹、お前ってほんと、鈍いっつーか、なんつうか」友人はへらりとからかった。「二組の尾竹がお前のこと好きなのだって気付いてねーだろ」 「オタケ? …誰よ?」 こう、おさげの、と、彼は両耳の下で空気を握ってみせた。「視線バリバリじゃん。目、合ったことねぇの? フツー気付くって」 「気付くかよ。好きなら直球勝負だろ」 「ムリムリ。尾竹ってすげーおとなしいじゃん」 「見てるだけで叶う恋があると思うか?」 「じゃあ、さっきのストーカーみたいになれって?」 「その恋に必死なら、いっそそうするっきゃないかもな」 「おぉっ、お前ってけっこージョーネツ的だったんだな!」友人が俺の肩を叩いたのに乗じて、女はまた擦り寄った。 「そのジョーネツで、早く指輪お願いねッ」
やれやれ価格視察でもしようかと、目についた宝石店に入った偶然。 白を基調とした輝かしい店内には、ボックスに食らい付いて目の色怪しい奴もいれば、幸せそうな奴もいる。 いったいなにを考えて、キンキラを前にそんな温かな顔ができたものか──
「………満さん!」
記憶にない笑顔だったので、合致するのに時間がかかった。 しかし、応じて顔を上げた彼は、間違いない、叔父だ。 彼も呼んだ青年が誰だかわからないといったようで、しかし笑顔が強張ったのはそんな一瞬の後。 身を翻した叔父を追い、店の外で掴まえる。掴んだ腕は震えているように思えて、なんで逃げるんだと問えば、 「びっくりして……」 記憶にある、ひかえめにはにかんだ笑顔が向けられた。 「大樹くんだよね。……うわぁ、おっきくなったなぁ…」 叔父の背は小さかった。二十も半ば過ぎのはずだが、記憶のなかで凝固していた面影はそのままだ。 「…そっくりだね…」 「親父と? 良く言われる。母さんには度々だ」 「……姉さんは、元気…?」 「どうかな。いつもピリピリして、いつ頭の血管がきれるんだろうって感じ」 「……相変わらずなんだ」 視線をおとし、ふと笑う叔父。その顔色からして、おそらく彼にとっては望まない再会だったのだろう。だが俺にとっては、記憶という自分の一部分をおそろしく大きく占有している叔父である。 このまま別れればどれくらい会えなくなるだろうことを察して、近くの喫茶店へ連れ込んだ。
もともとおとなしい人だった気はするが、いまは努めて口を塞いでいるように見えて、軽い世間話で場を和ませた。その間、彼は言葉らしき言葉を口にせず、口端を持ち上げてみせたり、瞬きを忙しくしてみせたり。 そんな所作で、なにが心の臓を握りつぶそうとしたって、彼がはにかんで、そっと髪を梳いた左手が、サイズの合わぬ腕時計をずらして自殺痕を覗かせたからだ。 俺は言葉を失い、満は慌てて傷痕を隠した。 「満さん……、親父が死んだすぐ後に、いなくなったんだよね……?」 あきらかに、満の顔色が青ざめる。 「……母さんが、ひどくあたったりしたの……?」 「姉さんが、僕に…? どうして?」 「それは──」 叔父の目は、なにも言うなと縋るようにも見えたし、畏怖から次の言葉を探ろうとする怯えにも見えた。 「親父と満さんの関係……母さんが知っちゃったんじゃないかって……」 途端に、叔父はアイスコーヒーをかき回し出した。 ガラガラと、しかしそんな音でもってかき消さなければ、彼は震えをどうにもできす、俯かせた顔も、歯を食いしばることすらかなわないのかもしれなかった。 「べつにさ、俺、責める気ないよ。満さんが親父のこと好きになっても、責められるべきはそれを浮気って形で受け入れてしまった親父なわけで──」 「僕が? …僕が良樹さんを好きになったって?」 彼の声は震え、皮肉るように笑って聞こえた。 「満さん、俺、ほんと責める気はないんだ──。だけど、俺……実際、親父と満さんの……見てるから」
ストローの動きが止まる。置き去りにされて、グラスの中だけが回り続ける。
「母さん、あんな性格だし。まして、親父があんなことになって」 「出よう」 彼は蹶然と立ち上がった。 「さっきのお店に、頼んでおいたものがあるんだ。取りに行かなきゃ」
恋人に贈るのだという指輪は、女物にしては大きかった。 「男なんだ、僕の恋人」 手のひらに置いた白い箱を見つめ、満は微笑んだ。 「僕は男じゃなきゃ性的対象として愛せない、そういうやつなんだ」 「……」 「中学の頃まで、自分がこういう人種なんだって気付かなかったけどね。…強制的に気付かされたんだ、良樹さん──大樹くんのお父さんに。自分の姉の、夫に」 記憶のなかの叔父は、いつまでたっても大きめの学ランで、毎朝、甲斐甲斐しく父の出勤に合わせて出て行った。
「きみが見たときの僕はレイプされてた。彼とのセックスで和姦はなかったから」
絵画のように静かでひたむきな視線は、いつでも父に向けられていた気がしたのに。
「姉にばれたらって考えると、他に肉親のいない僕は縋るところがなかったし、姉のことも大事だったから、幸せを奪うまねはしたくなかった。 僕は誰にも言えず、誰にも救われず、ろくな抵抗もできずに良樹さんのいい玩具になってた。大樹くんはそこを見たんだね」 まるで画面越しの話だ。 「だけど、それでも逃げなかったのは…」 満は箱をさらに大事そうに包み込む。 「──次第に、気持ち良くなって……」 一際潜まる声を、覆い隠すようにガードレールの向こうを大型車が過ぎて行く。 「彼が死んで、僕は自由になったと思った。救われたんだと……。なのに、良樹さんに愛された体が…、ひどく寂しがったんだ。居場所もなくして、僕は売春をした」 俺は冷えた息を飲み、震えた睫毛を努めて伏せた。 「こんな僕に……ようやく恋人ができてね。指輪を交換しようって、今日、彼も、僕のサイズの指輪を持って帰ってきてくれるよ」 なのに、満は幸せそうなのだ。
「──大樹くん」
隣を行く車影を見、満はぽつりと呟いた。
「良樹さんを殺したのは、僕なんだ」
父の死んだ現場に似た交差点が見える。 陽も落ちて薄暗く、信号が真っ赤な目で俺たちを見ている。 「あの日、良樹さんの背中を押したのは僕なんだ」 「…なんで……」 「驚かすつもりだったのか、本気で殺すつもりだったのか、いまでも良くわからない。大きなタイヤに胴体をつぶされた良樹さんは、口をぱくぱくさせて、綺麗な血をいっぱい吐いてた」 満は小さく息を吸い込み、薄く笑い、 「僕の目の前で、良樹さんは死んじゃった」 「なんで! なんで満さんがそんなことしなきゃいけなかったんだッ……」 腕を掴まえようとして、追いかける足が突起物にとられる。伸ばした腕はそのまま、満の小さな体を押した。 よろけて車道に出た満は、体勢を立て直そうとした。
瞬間の、裂帛音。
「──」 傷痕のある腕は、赤を塗りたくった箱を握りしめ、もの言わず車体の下から伸びていた。
『良樹さん』
記憶のなかの彼は、いつも父を見つめていた。 あの日も、彼は追いかけたんだろうか。
そして、掴まえようとして──?
『良樹さん』
きっと、目の前で失ったんだ。
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