ラブラドールレトリバーの海は、冷たい雨の中で、おかしなものを見つけた。ブルブル震えている小さな薄茶色の毛玉だ。鼻先でそっとつつくとそれは目を上げて 「みゅう」 と鳴いた。子猫だ。おそらく生まれて数週間だろう。真っ青な目は初夏の青空を思わせた。 「誰? おれのこと食う? 食うなら痛くしないで」 「食うわけないだろ。食われたいのか?」 「やだ」 そう言って子猫はぶるっと体を震わせた。 「寒いのか?」 「へーきだもん」 海は意地を張る子猫をそっとくわえて、自分の犬小屋に運んだ。両方の前脚の間に子猫の小さな体を挟み込んでぺろぺろと雨の雫を舐め取ってやると、子猫はくすぐったそうに身を捩りくすくすと笑った。やがて体が乾いて暖かくなると、安心したのか、くーくーと小さな寝息をたてて眠ってしまった。その姿に海もほっとし、自分も体をまるめいっしょに昼寝をはじめた。 やがて餌を運んできた飼い主は、海が子猫を抱え込んでいるのに気付き驚いた。あわてて引き離そうとしたが、海は低く唸り声をあげてそれを制した。彼が飼い主に唸ることなんて初めてのできごとだった。自分でも変だとは思ったが、この小さな存在を手放したくなかった 「自分で面倒みたいの?」 飼い主の問い掛けに、小さくくうんと返事をする。 「困った子」 飼い主はそう言いながらも急いで猫用のミルクを買いに走り、お皿に入れて出してくれた。 お腹が空いていたらしい子猫は、あっというまにミルクを平らげた。が、自分で食後の毛づくろいをしようとしてもうまくいかない。きっとまだ母猫にやってもらっていたのだろう。海はまたさっきのように体をなめてやった。子猫は幸せそうに喉を鳴らし、お返しに海の鼻面をぺろりと舐めた。
数日が過ぎると、子猫のばさばさだった毛並みもすっかりふわふわになった。青かった眼も、だんだんと金色を帯びていき、定まっていなかった視線もしっかりと海を見返すようになった。 「名前、つけないとな」 「なまえ? なに?」 子猫は目をまんまるく見開き、興味津々といった表情で海を見た。 「他のものと自分を区別する、目印だよ。ニンゲンがオレの事を『海』って呼んでるだろ」 「じゃ、おれもおんなじがいい」 子猫は真っ黒な海のしっぽにじゃれつきながら答えた。 海はちょっと困りながら応える。 「オレとお前とは違うだろう? 違うから違う名前がいいよ」 「そお?」 子猫は真ん丸な目を上げて、じっと海を見た。 「そうだよ」 「ふうん」 子猫は自分のしっぽをはたはたと地面に打ち付けながら、両手で海のしっぽを捕まえて、ぺろぺろと舐めた。 「どんな名前がいいかな」 海は、初めて子猫に会った時のことを思い出した。目が真っ青で、青空みたいだったっけ。 「空……」 「そら、なに?」 「見てごらん」 海は、鼻先で空を指した。青い空に白い雲がほわんと浮かんでいる。 「あれだよ。頭の上に広がっているだろう?」 「あのでっかいの?」 海が頷くと、子猫はぽかんと口を開けて空を見上げた。まるで、これまでそんなものがあったのなんて、気がつかなかったというように。子猫にとってそのくらい空は大きく、圧倒的な存在だった。 「いいなまえ」 子猫は海の背中に飛び乗り、ぽんぽんと跳ねた。あんなに大きなものが自分の『なまえ』だなんて、素敵過ぎる。 「ありがと。おれ、すっごくうれしい」 海は鼻先で『空』という名前になった子猫をつついた。子猫はその鼻先にキスを返した。二人はくすくすと人間にはわからない笑い方で笑い合い、幸せでいっぱいの気持ちに包まれていった。
半年が過ぎた。 空は、元気で綺麗な若い雄猫に育った。すんなりと伸びた薄茶色の肢体は、誰もがうっとりと見惚れ、長い尻尾を自慢そうに揺らしながら高い梢に一気に上る姿は、猫嫌いさえ感嘆する程だった。 「ねえ、この子この、『シンガプーラ』って猫じゃないの?」 ある日その家の娘が猫図鑑を見ながら母親に言った。確かに小柄な体躯といい、小さめの頭といい、くっきりとアイラインに縁取られた瞳といいよく似ている。 「もしかして、高く売れるっ!?」 「わおんっ!」 海が、大声で抗議するように吠えた。 更に、姿勢を低くし、うううと歯をむき出して唸る。 「わかったわかった。あんたの猫ちゃんを取ったりしないから」 そこへ、空が木から下りてきた。海を宥めるように、その鼻先をぺろんと舐める。海はとたんに落ち着きを取り戻し、空の頬を大きな舌で舐めた。更に、後ろ頭、首、背中と舐め続ける。空はくすぐったそうにしながらも、されるままになっている。娘は感心して言った。 「ホントに、いつまで経っても海は猫ちゃんのお母さんみたいねぇ」 『お母さん』……か。 海はその言葉を複雑な気持ちで聞いた。確かに最初は、ただこの小さな生き物を守りたい。暖かい住みかと、美味しい餌を与えてやりたいとその気持ちだけだった。しかし、いつの間にか、海の中には違う感情が芽生えていた。 空が、欲しい。そのすべてが欲しい。 その気持ちに初めて気づいた時、海は必死にその考えを否定しようとした。自分たちは雄同士で、種類も違う。何より大きさが違い過ぎる。もし、自分が強引に事を進めようとしたら、きっと空は壊れてしまうだろう。 それよりも、自分を保護者として信じていてくれるであろう空は、こんな気持ちを知ったら、一体どう思うだろう。軽蔑するだろうか。恐怖を感じて、自分の前から去っていってしまうだろうか。どちらにしても好ましくない。 空を腕の中に抱えて眠る時、あまりに無防備に擦り寄ってくる空に、どうしていいか分からなくなる時がある。そんな時、海は、犬小屋の入り口から見える月に、無意識に願ってしまう。 『お月さま。一度……たった一度でいいんです。願いを叶えて下さい。たった一度叶えられたら、オレはもう何も望みません。あ、でも、それで空と別れ別れになっちゃうのは嫌です。虫のいいお願いですみません、お月さま』 我ながら、情けないとは思う。でも、どうせ願うだけのこと。考えるくらいしたって誰も文句は言わないだろう。そうして、その願いが叶う時のことを想像し、うっとりしながら眠りに付く。多少の自己嫌悪に襲われながら。
「じゃーね、いい子でお留守番してるのよ、海、と猫ちゃん。ご飯はお隣の人が来てくれるから」 海は尻尾を振って返事を返した。空は近くの木の上からじっとこっちを窺っている。 今日と明日、家人は一泊の旅行に出かける。二人で遊んでいる時たまに口を出してくる家人が鬱陶しいと感じることもあった。この二日間は、そういうこともなく、ふたりだけで過ごせるのだ。 みんなが出かけると、空が木の上から下りてきた。 「ね、なんて言ってたの、にんげん」 空は、あまり人の言葉を理解しようとしない。意味がないことと思っているらしい。 「今日と明日いないって」 「え? ほんと? やった」 空は喜んで頬を擦り寄せてきた。ごろごろと喉が鳴っている。 「あいつら、すぐ海のこと連れてっちゃったりすんだもん。さんぽ、とか言ってさ。邪魔入んないで遊べるね?」 「うん」 海は空も自分と同じことを考えていてくれると思い、嬉しかった。そして、ますます愛おしさがこみあげてくるのを感じた。可愛い空。自分が色んなところをもっと可愛がったら、どんな声で啼いてみせてくれるんだろう。 いけない。そんな考えは捨てなければ。ぶんぶんと頭を振る海を、空は不思議そうな顔で見る。 「どーしたの? ね、なんか考えてないで、ボールで遊ぼ」 空はボールを転がして来た。二人で代わる代わる鼻先でボールを転がし合う遊びが、空は大好きだった。尤もしょっちゅうつい興奮しすぎて、自分一人でじゃれ始め、ついには仰向けに寝転んで両手で挟んで両足でキックを繰り出す羽目になることも多かったが。そして、そんな空を、海は目を細めて見守るのだった。
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